名前を隠して楽しく日記。
って話をしてんのに
この増田とか
「人として接しろって言いつつ弱者男性は人として扱ってないよね」みたいなブコメするやつ会話出来なさすぎじゃん
本質以前にそんな話してないんだけど
一時期鼻毛処理ハマってたんだけど、短くしたりしてたらすげーガビガビのハナクソになって大変だったんよなぁ
結局女がその面接の評価基準を意図的に曖昧にしてることが問題ってだけですよね。はっきり言っちゃうとほとんどの弱者チー牛は候補からあぶれてしまうので、はっきりいわない優しさというだけなんだけどね。
実際の面接だって、「意欲がある方」などと言いつつ、別に意欲を見ていないのと同じだよ。別に内心クソ会社死ねと思われててもよくて、それでも馬車馬のごとく働いてくれればいいっていう会社側の本音をカバーするためのレトリックだろ。
まあ弱者チー牛は一生悩んでればいいんじゃないですか。本音と建前もわからず、お前らにはそもそも権利すらないってことが理解できていない今のほうが幸せでしょうから。
気色悪いな君
なんでまともじゃないの?
趣味レベルとはいえ、やったことはあるんだから使えるだろうと思って採用したら
実は「趣味でジーコサッカーをプレイしたことが1回あります(本物のボールを蹴ったことはありません)」レベルで騙されたことがあるやで
てか面接の時にそれ見抜けなかったのかよ
アセクシュアルはもっとメジャーになってほしい。恋愛しないやつはおかしいって言い出す奴も滅んでほしいな。俺からすれば恋愛に狂って金出して詐欺られたり、ストーカーや殺人に走る奴の方がおかしいけどな。
知らない人に触られていきなりイケるって相当変態だと思うじゃないですかあ~
本質論を言えば「人として接する」は具体的な行動指針に還元できるものではないよ。教会に行くことが神を信じることとイコールではないように。神を信じるとは、神の存在を前提した世界に生きることだ。何故とつぜん神の話をしたかといえば、「人として接する」は実際にひとつの宗教だからだ。「個人」や「人権」の概念はキリスト教に由来するところが大きい。坂口ふみ『〈個〉の誕生』は良い本なのでおすすめしたい。
だからこの信仰について言葉で語ることは本当はできないのだけど、あえてその教義を表現するなら
あたりになると思うけど、そう言われて分からない人は分からないだろうし、こんなふうに書いてもあまり意味はない。
断っておくけど、わたしはこれが分からない人を〈悪い〉とは考えない。たんにこの神の教えに入信していないというだけだ。もちろんこの教義に照らせば「悪」なんだけども。
とはいえ、「入信しているフリ」ができないわけではない。その方法をお教えしよう。これはわたしもやっていることなのだけど、その方法というのは、「人間を徹底的に、本当に徹底的に馬鹿にすること」だ。軽蔑にしすぎて愛おしく思えてくるくらい徹底的にね。愚かで、矮小で、醜悪で、しかも自分がそうであることに全く気付かすに自信満々に生きているおかしな生き物たち。ただの自然現象に過ぎない、川の流れの中に生じた淀みみたいな存在なのに、自分は自由意志を持つと信じる憐れな自己複製パターン。そんなふうに人々を見てみよう。言うまでもなくこれは先に挙げた教義のうち上2つの完全な否定だ。しかしここで重要なのは、3つ目の教義は維持すること。つまり自分もそういう憐れな淀みに過ぎないと思うこと。これがいちばん重要なことだ。「すべてを軽蔑せよ。だがこの軽蔑によって窮屈にならないように。軽蔑によって他人に勝るなどと信じるな。軽蔑の高貴な術のすべてはそこにある。」ある詩人がこんな事を言っていたけど、これは真理だとわたしは思う。
わたしも以前は「人を人と思っていない」と他人から嫌われたものだが、このような態度を取るようになってから、そういう批判はもらわなくなった。それどころか、いっぱしの人格者だとみなされているフシがある。「人として接する」がどういうことなのか、根っこのところではまだ良くわかっていないのにね。あるいは案外、みんなそうなのかもしれない。まあとにかく、徹底的に人を軽蔑するというこの指針を試してみてほしい。「徹底的に」やるのが大事だ。「人として接する」という抽象的な表現よりはだいぶわかりやすいのではなかろうか。
具体的にどの部分が病原菌扱いなのか言ってみて