「演出」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 演出とは

2024-05-20

考えて欲しい もし自分子供なら自分という親の元に生まれたいと思うか否か

結局のところこれに尽きると思うんだ

俺だったら申し訳ないけど嫌だし、避けられるのであれば避けて欲しいと願ってしまうな

子供は俺自身じゃないとは言え、だからと言って自分が嫌と思うことでも他人にならしてもいいと思える人種でもない限り、普通に無理なんじゃないかと思うわ

パートナーが欲しがるからという理由なら、それは自分自身が望んだものでない以上、能動的な選択の結果でない分、なにかあれば投げ出す可能だって大きくなるだろう

出来てさえしまえば我が子が可愛くて仕方なくなるみたいなこと言って誤魔化す人もいるが、それってどこまでも自分の都合の良いように物事捉えてるだけで、子供のことなんて実はこれっぽちも頭の中にない考え方の代表だと思う

結果論的に子供自身の生まれに満足したケースのみが大きくフィーチャーされるばかりで、子供が満足しなかった場合、満足させられなかった場合、その責任を親は取ることが出来ない

せいぜいが悲劇ヒーローヒロインぶって自己満足の「それでも子供幸せのため一所懸命頑張ります」ロールをやるぐらいで、なんならあわよくばその自分の愛にいつか子供が気付いてくれたら、とか思ってそうでもある

ていうか最悪、虐待かに発展していっても、なんの不思議もないしな

自分が嫌なことでも、他人になら平気でそれを押し付けることのできる人間なわけだし

そんな風に自分に酔い痴れる前に、そもそも自分自分の子供なんて嫌すぎるという考えがあったのならば、そのような状況に陥る可能性が高いことぐらい見えていたはずなわけで、そのリスクそもそも何故犯したんだって話に究極的にはなる

意図せず子供が出来てしまうことはあると思うが、それが自身の迂闊さ故である場合は、あまりにも見通しが甘すぎて、子供自身の生まれに満足しない未来に怯え続けて、結果的子供が満足してくれることをひたすらに願って行動するしかできなくなる

子供が出来てさえしまえば論の正体は結局のところこれで、恐怖によって無理矢理に笑顔を作らせて幸せ演出させることに他ならない

もちろん、これは表題の通り、もし自分自分の子供なら嫌だと考える人の話で、そうでないならこの考えが当てはまらないことは分かっている

から、結局のところこれに尽きると思うんだ

考えて欲しい

もし自分子供なら自分という親の元に生まれたいと思うか否か

2024-05-19

日本におけるリリックビデオ起源鈴木宗男である

まずはこれを見て欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=mLW35YMzELE&list=PL4fGSI1pDJn4-UIb6RKHdxam-oAUULIGB

YouTubeの人気曲トップ100だが、気づいたことがあるだろうか。

Creepy NutsAdo、tuki.など、今流行りのアーティストMVが並んでいるが、どれも歌詞リリックMVの中に効果的に配置されている。

いわゆる「リリックビデオ」と呼ばれるものだ。

あぁ、確かに見るよね。それがどうした?と思われるかもしれない。

しかし、我が国日本音楽J-POP最盛期と言われる90年代MV(当時はPV)ではこのようなリリックが入ったものは見当たらなかった、少なくとも主流ではなかった。

これは、90年代青春を過ごしたアラフォー以上の方には賛同いただける意見かと思う。

では、いつ頃からこのリリックビデオが日本で生まれ、普及したのだろうか。

インターネットの浅い海をざっと泳いでみると、ニコニコ動画ボカロ動画起源であるとの意見散見される。

しかに、一般に普及したという意味ではそうかもしれないしかし、「起源」という点において、私の感覚は違う。

ここで、ニコニコ動画YouTubeが生まれる前、野良動画クリエイター達は自分作品インターネットのどこで、どのように発表していたのか。

当時、日本インターネット上でダントツで隆盛を誇っていたのが、ひろゆき率いる2ちゃんねる

2002年2chの数ある掲示板の中で、新たに出来たのが「FLASH・動画板」である。そう、「FLASH」だ。

当時の動画クリエイター達は自らのサイトFLASH動画作成し、2chの「FLASH・動画板」で互いに腕を競い合った。

詳細は以下のサイトを参照いただきたい。

https://dic.nicovideo.jp/a/flash%E9%BB%84%E9%87%91%E6%99%82%E4%BB%A3

FLASHは一大ムーブメントを迎えたが、2004年頃に急速に終焉を迎え、クリエイター達はニコニコ動画YouTubeへと移っていった。

日本インターネットにおける動画作成文化起源FLASHにあるといっても過言ではない。

ようやく本題に入ろう。勘のいい方は、もう気づいただろう。

2002年、「FLASH・動画板」の設立間もない頃、ある政治問題話題となった。

北海道出身、御年76歳の現役国会議員鈴木宗男が起こした汚職問題である

詳細は以下のWikiを参照いただくとして、その中で大変キャッチーワード話題となった。

鈴木宗男北方領土建設した「ムネオハウス日本人とロシア人の友好の家)」だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E3%81%AE%E5%AE%B6

このワードお祭り大好きな2ch住民が飛びつき、鈴木ムネオ」と「ハウスミュージックを掛け合わせた「ムネオハウス」として様々な動画作成した。

このムーブメントは当時アングラだったインターネットを飛び出し、一般社会にまで浸透する程、話題となった。

https://www.youtube.com/watch?v=rjZE6U9Ni0E

ムネオハウス関連動画は、主に鈴木や彼の秘書ムルアカ氏の発言サンプリングPV風に作成されている。

そのため、(ネット回線の乏しさもあり)音質は悪く聞き取りにくいため、テロップを付ける必要がある。

動画ハウスミュージックベースとしているので、テロップ自然楽曲に乗せてリズムよく、時に演出として効果的に配置する流れが生まれた。

それまで、FLASHNHKみんなのうた」のように歌詞を単純に載せる動画散見されたが、

リリック演出として組み込まれインターネット上に広く浸透したのはムネオハウス関連動画の影響が大きい。

https://www.youtube.com/watch?v=ZKy-lTRvXhU

https://www.youtube.com/watch?v=gG4CdB0U7bc

https://www.nicovideo.jp/watch/sm4630571(9分9秒頃)

その後、FLASH動画板では、BUMP OF CHIKENの楽曲「K」や「ダンデライオン」など一般楽曲リリック演出的に載せた動画などが広く浸透していく。

そして、FLASHが廃れた後は、ニコニコ動画YouTubeにその影響は受け継がれ、米津玄師やYOASOBIなどを輩出したボカロ楽曲において、

リリックビデオが一般的となった後に、今のJ-POP界においても、リリックビデオがMVの多くを占めるようになった。

もう一度言おう。日本におけるリリックビデオの起源鈴木宗男である

2024-05-18

NHK教育テレビ漁師と妻とピアノ雑感

グランドピアノに輸入S社のシールを張っていて、鍵盤の上を見るとY社といって、なんだかS社よりY社は格下のような言い方だったが、

ちゃんとした製品であればY社のピアノだってちゃんと鳴ると思ってる。

あと、中学生の前で弾いて見せて、一番前のこどもが”ブラボー”とやってたのはテレビジョンが入っているための演出だろうか?

否定的なことをいうやつは許されないとするとそれは教育的なんだろうか?という気がしました。

道徳の授業みたいなことだとやっぱり否定的なこと言っちゃいけないんですかね、、、

となると音楽って道徳なんだろうか、、、芸術じゃなくて道徳だとすると、それは楽しいのかなあ、、、

クラシック演奏会前座がある(しかもお客が入っている)というのはなかなか斬新な感じもありましたが、

そういうコンサート普通なんだろうか(自分はそういうコンサートにいったことがないのですが、、、)

これも、フジコヘミングさんもなにかはなされたりするような感じのちょっと普通音楽コンサートではないようなものだったのか、、

セカンド、点数速攻暗算裏技

現在テレビで流れているザセカンド採点方法についての裏技

観客100人がそれぞれ1点、2点、3点の持ち点を持っていて、どれか一個のボタンを押す。

その合計が点数になる。

その点数を驚きの速さで計算するた。

仮に、以下のような結果だったとき、どのように計算すればよいか

1点が2人

2点が30人

3点が68人

普通であれば、

1x2+2x30+3x68を計算する。

2+60+204=266

でもその必要はない。

全員が3点を押せば300点。

ということは、つまり、2点を押した人の数だけ1点下がる。

1点を押した人の数だけ、2点下がる。

そう考えれば、

1点が2人→マイナス4点

2点が30人→マイナス30点

合計マイナス34点

これを100人が3点をつけた場合の300点から引けば良い。

300-34=266

簡単でしょ?

早ければ観客の頭上に点数が表示された演出の時点で点数がわかる。(青と赤を数える)

一緒に見ている相手からめちゃくちゃビビられるから、是非やってみて。

去年、それで驚いてくれた彼女には捨てられて今現在一人で見てるときにふと思い出した。

「頭良すぎない?」って言われたまでは良かったけど、「計算遅すぎない?」っていう返答は関係悪化させるだけなので注意。

anond:20240517223047

全部はみられていないのだけど、悪人や愚かな役は全部男で醜く演出し、女は全員が賢い善人で美しい、というのが不自然だと思う

昔の勧善懲悪モノみたい

それは近年の朝ドラではよくあるパターンなのだけど、極まっている


ただ、確かにドラマとしては面白い

有害女性性」まで批判したらさらにすごいドラマになると思う


ーーーーーーーーーーーーーーー


微妙な描き方” “主人公が痛いやつ”

↑せいぜいこの程度なんだよね 描けてるのが


“ いっちょ噛みしたいのか、読解力が残念なのかどっちなんだろう”

“ 字が読めないとか嘘つきだとか”

↑気に入らない意見にはこうやって人格攻撃をせずにいられない感情優位の反応


リーにあるこういった反応が

このドラマで描けていない部分そのものというのも皮肉な話

2024-05-17

大学入学と同時に上京しなければ一生田暮らし

っていう価値観がよくわからない。

ワイは貧乏大学行けず20代がっつり地元で過ごし

その後東京会社転職本社に異動とかではない)

したやで。

自分次第では?

 

なんもかんもヒロイック演出しすぎだよ

anond:20240517124409

どの層にどうやって音楽を聞いてもらってどんな戦略個体識別させるん?

社会的コンセプトとしてはHIPHOPと競合するように見えるが、どう割り込むん?

万が一知名度が得られても、たとえば鬼束ちひろみたいな要領のいい弱者向けアーティストエッセンスをパクられて受け取りやす演出整えられてお出しされ、養分おぢ乙になりそうやが対策考えてるん?

オッペンハイマー人格的にやや分裂気味だったという見方もある

学生時代留学先のドイツで心を病み、それを克服するために粋で軽やかな「オッピー」という人格演出した

一方で理論物理学博士号を取得しながら、ギリシャ語ラテン語フランス語ドイツ語・オランダ語サンスクリット語を話すことができる語学への深い理解があった

原爆の開発を進めながら、「気の毒だ、気の毒だ」と原爆がもたらす被害に心を痛めて独り言をつぶやいた

同時にアメリカ軍部に原爆を使って効率的被害を出すための助言を行った

原爆投下後には核拡散への反対運動を行った

世界破壊者であり擁護者になった

映画はその二面性を強調することなく同居させて描いているのうにも見える

2024-05-16

初デートサイゼはないわ

とか、いやいや、ありでしょ? とか、むしろそれで値踏みしてるんだぜとか、試してやってんだよとか、価値観の違いがわかっていいじゃん・・・とかなんとかSNSで喧々諤々の議論が行われた結果、男女交際経験値の少ない学生さん若い人に不毛な苦しみを与えては可哀想だと思っている。

だって初デートサイゼがありかなしかなんてケースバイケースに決まってる。なんの場合分けもなしに「あり」も「なし」も言えるわけがない。

そんな当たり前の前提など知らない若い人にとってサイゼ問題害悪しかない。男は「デートめんどくせー」「カネつらー」となり、女は女で「このレストランは有りなヤツ?無しなヤツ?」とか「別に普通でいいんだけど」とか「いやでもサイゼだったら友達に憐れまれるし」とか余計な雑念に振り回され、背伸びして行った店には「なんかイタいカップルが来たな」と思われいいことがない。

そこで参考になるかどうかはわからないが、「ごく簡単で外しにくいお店選び」を提示してみたいと思う。ここでお前誰やねんというツッコミがくることが想定されるが、それには答えない。性別年代デート経験値も伏せる。中身だけ読んで参考になるならしてほしいし、ゴミだと思えば無視してくれ。ネットのは男→女パターンが前提ぽいが、ここに書いたのは逆でも使えると思う。

中高生編】

まあこの話で誰も中高生デートなんてさすがに想定してないと思うが、中高生の目にも留まる以上本人たちは気にしてしまうかもしれない・・ということで。大丈夫安心してサイゼ行け。うーん当たり前すぎるな。それで笑われたりSNSで晒されたりするのだとしたら、そいつが悪い。イオンフードコートでもマックでもいいじゃないか。奢る必要もない。収入もないのに人に奢るな。テスト勉強教えてもらったお礼にジュースとかスタバとかマックとか焼きそばパンとか映画ポップコーン奢る程度にしとけ。

大学生編】

大学生になったらフードコートはやめとけくらいで、別にサイゼでもチェーン店でもいいと思う。金がないのに変わりはない。少しカッコつけたいんならそのへんのデパートレストラン街に入ってるようなチェーンのサイト見て最寄りの店に行くとかしとけば大きくは事故らない。高すぎず安すぎずで初デートとしてはちょうどいい。バイト代も入ってるだろうし。そして後輩なら奢れ。同級生や先輩にはお礼の気持ちがあるならその旨伝えて「今日は」奢らせてくださいお願いしますと言え。勝手に奢ろうとするな。店選びに困ったら相手に聞け。困らなくても聞いていい。しか手ぶらで聞くな。3つくらい候補用意してから聞け。別系統のを3つ提案しろ。あらかじめ好みを知ってるなら2つ混ぜろ。しか自分の案に固執するな。会話して店選びを楽しめ。チョイスした3つを笑われたら一緒に笑って「クソが。じゃあお前の考え聞かせろや」と言い、なんか言ってきたら「そっかー。そっちのがいいな!」と返せ。

新社会人・若手社員編】

新社会人や若手社員フードコートに加えサイゼ鳥貴族もやめろ。別に同期の女の友達会社帰りに「ちょっと飯食いに行く」程度ならファミレスでも安居酒屋チェーンでもいいが、互いに「まあ、これはデートだよね」と認識するようなシチュエーションならやめろ。休日わざわざ待ち合わせて行くデートならデパート云々のくだりで書いた程度の店か、あとは勝手に調べろ。高すぎるとこは行くな。安い店だから滑稽なのではない。分不相応から滑稽なのだ。どうせあれだろ?「初デートサイゼ」を笑ってた女もよくよく聞けば「お前な、年上でしかもこっちに下心ありありのくせにサイゼかよ」とかそんなとこだろ?しらんけど。単なる男友達デートでもなんでもなく行くサイゼ文句言ってたわけじゃないだろ?学生彼氏に怒ってたわけでもないだろ?

横道それたが「困ったら相談」も上に書いたのと同じだ。おごりおごられ問題についても同じ。収入立場も同じ相手勝手に奢るな。

【それ以上編】

上に新社会人・若手社員編を書いたが、それ以上の年齢、立場収入でもまあ同じだ。デパートのまあまあのお店を基準にケースバイケースで調整しろ婚活お見合いなどもう少しフォーマルな感じなら都内シティホテルの店を基準しろ。「最初は軽くお茶ランチでも」というノリでもスタバファミレスいいわけがない。よくわからないならシティホテルしろ

二回目以降は初回の様子で相談しろ。気が合いそうならその場で次の約束しろ。初回相談時に3つ候補用意してたなら「じゃあ次ここ行ってみよっか」とつながりやすい。お前らの好きな「自然に」仲良くなる感じを自然演出できる。「この店行ってみたい」「この映画見たい」「このイベント行きたい」。まあ理由なんてなんでもいい。そこまでの会話に出てきたトピックに絡められればベターだ。デート約束デート中が一番とりつけやすい。気に入られていればだがな。返事はいつでもいいと言え。「わかった。じゃああとで返事するね」と言われたら半分諦めろ。固執するな。2回以上返事督促するな。諦めきれないなら半年後もう一度かるく誘え。状況が変わっている可能性がある。ただし軽くだぞ。繰り返すが固執するな。その半年でお前もよその女(男)に寄り道するくらいでちょうどいい。

この年代になると年齢、収入立場に明確に差がついてる場合も多い。お前が上ならノータイムで奢れ。さも当然のように奢れ。そこで押し問答が始まりそうなら「じゃあ次は奢らせてください」と言って次に繋げろ。相手は奢られた負い目を感じることなく、次が嫌なら断れるという逃げ道を用意してやれ。お前が下の立場でも同じくらいの立場でも誘ったなら奢れ。しか相手立場もあるのでお願いベースで奢れ。無理はするな。

店選び以外に奢り奢られまでいろいろ書いてしまったが、まあこっちも地続きの問題からな。店選びについては「ケースバイケース」と「分不相応な店はやめろ」以外のことは言ってないことに注意してくれ。TPO、それがすべてだ。「初デートサイゼはありかなしか」に唯一の答えなどない。がんばろう!

3大 日本ドラマでいらない演出

簡単に殺せるのに悠長にしゃべって主人公に逆転される演出

直接会って話したいと言った後に殺される演出

あと一つは

2024-05-15

[]5月15日

ご飯

朝:サンドイッチ。昼:サラダ。夜:エノキ人参大根ピーマンウインナースープ豆腐海苔を混ぜたやつ。納豆たまご焼き。バナナヨーグルト。間食:なし。

調子 

むきゅーはややー。おしごとは、むむむー。

月曜から発生してるトラブルとは全く別のトラブルがまた起こり、てんやわんやしてる。

うーむ。

FGO

コラボシナリオを読むためにフリークエストを周回しなきゃいけない。

他のゲーム比較してやいのやいの言うのはマナーがよくないんだけど、

どうしてもグラブルという周回ゲーを毎日遊んでるせいで「リロ殴り」が出来ないのが違和感がある。

けど、そもそもグラブルの「リロ殴り」ってなんなんだよ、とグランブルーファンタジーのことがわからなくなってしまった。

いやマジで演出をF5や戻るボタンお気に入りリンク押下でスキップするゲームってすごいな。

当たり前すぎてなんか衝撃受けてる。

(冗談です、ウマもプリコネ毎日遊んでるけど、そう思わないので)

anond:20240515203856

抽選して「演出付きのあたり」「演出付きのはずれ」「演出無し」「その他」を決めてるだけ

パチンコってヘソ通った瞬間に抽選が終わるらしいけど、じゃあ演出信頼度って何なんだ?って思う。

全く無意味茶番かと言ったらそういう訳でもないんだろうけど。演出別で数えていったら当たりの割合は変わってくるんだろうし。

でも当たり外れの二つに一つの結果が出揃った後に、期待度うん十%もへったくれもないはずなのに。どこから弾き出されたパーセンテージなんだ。

一旦どの演出に入るかの抽選があって、そこから更に演出の期待度に従った抽選がある2段階で、そのトータルでの確率が一回の抽選毎に一律1/99だか1/199だかで揃えられてるって事なんだろうか。そんな回りくどい事をするのか?

普通に一律1/99とかで抽選してその後に出す演出の振り分けで、後付けで期待度の帳尻を合わせるのか?

パチンコである青年人生の終わりを見た

純朴で優しそうな、見た感じ20歳前後少年パチンコ(リゼロ)を打っていた。

強い演出が来るたびにスマホを構えて動画を撮っているので、きっと初心者だろう。

しばらくして当たって、3000発を取ったが駆け抜けしそうになった。

残り5回転で3000発が当たって、少年は胸に手を当てて鼓動を抑えるほどびっくりしていた。

その気持ちよさはきっと、これから一生、少なくともあと数年はパチンコにハマらせるのに十分な刺激だろう。

20代前半の時間をそれに使えば、あとは暗闇に向かって進むだけだ。

外れても当たるまでやる、当たっても外れるまでやる。そのサイクルで得た金はそのサイクルでしか使わないだろう。

ただ失った時間は戻ってこない。けど、20歳そこそこの人間にとって、大金はたいて欲しいものなんてそんなにない。

友達がいないなら飲み代はいらない。

彼女がいないなら交際費はいらない。

実家暮らしなら家賃はいらない。

家族が作るなら食費もそれほどかからない。

子供がいないなら学費もいらない。

お金によって得られるメリットを知らない。



人と切磋琢磨する幸せ

彼女と愛を育む幸せ

親に恩返しをする幸せ

やりたいことを見つけて、それを通して多くの人を助ける幸せ

よりかっこいい自分になる幸せ

この趣味とは言えない行為を続ける限り、自分は知らず知らずのうちに多くの幸せを失うことになる。

それでもこの世界ゲームじゃないから、クリア目標はないし、あるべきものもないべきものもない。

自分らしい、まぁこんなもんでしょ、これでいいでしょ、などいくらでも言える。

いくらでも落ちることができる。

この世界ゲームアニメは溢れていて、やり直しが効いたり、強制的ハッピーエンドになったり、

主人公である自分が最終的に誰よりも優れた存在になるような物語がたくさんある。

しか現実はそうではない。

からでもいい。というか、今しかない。みんな平等に今からしかできない。

自分の全てを受け入れて、認めて、自分幸せになるために行動していく。





がんばれ自分

別に生活感満載のオシャレじゃない生活だってシェアしてもええやん、というスタンスでBeRealを使うのはまあなんか素朴に共感できる。インターネット道徳上の「正論」というか、そういう発想はウケるよねって思う。

でもその場その場でハリボテの華やかさを演出するんじゃなく、いつ不意打ちを食らっても恥ずかしくないよう常日頃から背筋を正してオシャレに過ごそう、的な方向性に行くなら、それは取り繕った「映え」よりもシビアというか息苦しそうだなって思う。

そういうのも楽しめるというのなら、というかまあそもそも最初から外野が余計にガチャガチャと言うようなことは何も無いんだけど。

なんか加工とかそういう見栄の張り方って美容整形に対する素朴な忌避感みたいなやつの延長線上にあったけど、バランスの落とし所として考えるとちょっと理解出来るような気がしてきた。

チャイルドシート付き自転車マナーの悪さは異常

爆速で走るくせに全く歩行者を避けようとしない。

子供積んでるのに危ないだろって思って

後ろ見るとマナー悪い奴は大体子供積んでないチャイルドシート自転車

もしかして、このチャイルドシートフェイクなんじゃないか

本当は子供なんていないのにチャイルドシート付けることで頑張るママさんという演出をすることでマナーの悪さも寛容に見てもらおうとしているのでは?

まぁいずれにしろチャイルドシート付き自転車は周りが勝手に避けてくれると想定した自己中心的運転をする非常識中年女性ばかり。

2024-05-14

anond:20240513212937

アニメ脚本家が作るのは叩き台であって提出した後はコンテやら演出やらの段階で手も入れられるものなのに脚本家が最終決定権を持つと思ってる人多すぎる

橋田壽賀子かよ

anond:20240514084354

声優のしゃべりと役者の演技には差があるし、それに合わせて間や演出が変わるのも当然

その辺わからずに「アニメと違うから実写はクソ」っていうオタク多すぎ

anond:20240513212937

アニメで厳密に「脚本」だけ取り出して評価するのは難しい。アニメを見ていて聞こえてくるセリフ脚本家が書いた脚本なのかすら視聴者には判断できない。テンポ感なんて話になると、なおさら演出側の手腕に依るところが大きいだろう

アニメ脚本面白く感じたならそれは監督の功績、アニメ脚本がつまらなく感じたならそれも監督責任、という風に捉えている

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

明白にチー牛、弱者男性であるくせに女絡みで絶対勘違いしたり、女の言葉に操られたりしない奴

女が自分に対して発信するウソ好意褒め言葉を天地がひっくり返っても真に受けなかったり、

から発言の奥底に秘められた自己演出意図さえもかなり敏感に嗅ぎ分けたり、

そういう鋼の意志と安定感で女に絶対に惑わされないチー牛や弱男少ないながらもそこそこいるじゃん


なんなら、

相手から自分に対して向けられる一切本心から出てないポジティブ発言に対して、ひとまずその場を上手くやり過ごすため、わざわざまるで真に受けて喜んだかのようなお芝居してリアクションするくらいのスキルである奴すらいるやん


あの不気味なまでに超高感度な客観性ってどこで鍛えたの?



追記

「女は

『あっ、この格下男、私のウソ演技やウソ好意アピールに気づいてるな。見下しながらたぶらかす裏の意図を気づいたな』

自分の試みや企てが失敗したと分かると、途端に気づいた奴を敵視し始め、下手すりゃ潰そうとまでしてくる」

って聞いたんだけどマジ?

恐ろしいんだが

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん