はてなキーワード: 社会的とは
企業のせこい犯罪や労働問題が連発して、ちっとも社会的に解決しない様を見ていると、必要なのは懲罰的賠償なんじゃないかと思うわ
せこい問題起こして社員に訴えられて、ケツの毛までむしられれば、流石に同じようなケースは減るだろ
懲罰的損害賠償は、主に英米法において用いられる制度であり、加害者の 不法行為の非難性が特に強い場合に抑止・制裁の意味を込めて実際の損害補填 としての賠償に上乗せされて課される賠償のことを指す。
能力はないし年収も低い夫婦だけど子供もそれなりに育ってるし幸せにやってます!
っていう夫婦は社会福祉にタダ乗りしてるだけで、自分たちの遺伝子を引き継いだたいして能力ない子供育ててるだけで、社会的には全くペイできてないから
じゃねーかなと最近思いつつある。
犯罪犯してなかったら取り敢えず結婚してみる。んで、駄目だったら子ども連れて離婚すりゃいい。
当方女だが産後も働き続けられるしその意思も強くある。よって経済的な不安もなし。男側にこりゃ駄目だと思う何かがあるなら捨て去れば良い。私が欲しいのは取り敢えず結婚したという事実と、子どもである。前者に関しては社会的信用、ある種の経験として一回は経ておきたい。後者は個人的にマストな項目。
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言の曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現がいかに配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現が配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的な脆弱性の分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言の文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定のグループを過度に保護し、そのグループを弱者として固定化する結果を招きかねない。
抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け [東京都]:朝日新聞デジタル
これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
これは、戦時中の、「兵隊さんご苦労さん」っていって兵隊を敬わせて背中を押し、銃後の守りを頑張らせようとするのと近い話で、マスコミは世間の空気をつくることができるのだから気を付けてもらいたい。
「配慮に欠ける可能性がある」という、世論を規範的に誘導する表現は、プロパガンダとしても機能してしまうので、正直、よっぽどのことがない限り使ってもらいたくない。
必要だとすれば、なぜ必要だと認識しているのか、マスメディアにはよくよく考えてもらいたい。
言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。
浄化できるというのも幻想でしかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念が形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。
政治家の発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来の意図や文脈が歪められる恐れがある。
特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。
自由な表現が妨げられることで、社会全体の健全な議論が損なわれることになる、ということの不利益をちゃんとマスメディアは理解しておくべきだ。
働く上では社会的に何か意義のあることをしたいと思う人は多いと思う。自分もこの観点は重視する。
けど、いろいろな会社や団体が解決を謳っている問題を上位に遡っていくとだんだんよく分からなくなってくる。
大体のソリューションは部分最適にしかならない場合が多いように思う一方で、全体最適が望ましいとも思えない。
例えば、人道支援なんかは確かに恩恵を得られた人たちにとっては意義があるが、この持つ人から持たない人への資源の分配は突き詰めていくと全人類で資源を均等に分けましょうということになる。でもそうなるとおそらく先進国の多くの人たちの生活水準は大きく下がる。これは誰にとっても望ましいことか?
当然このような選択肢は恵まれている日本に住む人には到底受け入れられないと思う。そういう前提が暗黙的にあるうえで社会的意義って言ってもむなしい気持ちになる。
あと、何が最適なのかは結局最大化する目的変数をどう定めるかで答えが変わってくると考えると、それは突き詰めると価値観の話で、必ず正しい意義のあることはそもそも無くて人それぞれってことになっちゃうのかなぁ。
まず端的に言うと、日産自動車がやっていることは
「調達部門員(※1)による下請事業者(※2)の買いたたき(※3)」である。
これは”下請代金支払遅延等防止法(通称:下請法)”という法令に対する違反行為であり、
早い話、法人としての日産自動車はもちろん、それを行った一社員個人も完全なる犯罪者である。
そしてゆくゆくは日本経済全体を不況に陥らせる元凶ともなるほどの悪行なのである。
度々報道されているのに世間が今一つ騒ぎ立てないのはいまいち聞き慣れない言葉が多く、
日産自動車がやっていることの具体的に何が悪いのかが分からないせいだと思う。
ある程度の大きい会社になると、外部業者から物品を買うことだけを仕事としている部署がある。
業務内容は購入する物品の相見積(複数の企業に同じ条件を提示して価格を提示させること)候補企業の選定、
調達部門に所属する者、”調達部門員(通称:バイヤー)”としてのアイデンティティは何といっても「価格交渉力」である。
良いものを安く買い付ける。
調達部門で出世を目指すなら、これができるかできないかにかかっていると言っても過言ではない。
営業職が物品を売って売上げを立てるのが仕事なら、調達職は物品を安く買って原価低減をするのが仕事。
小中規模程度の企業では誰かが意図せずしてこういう業務を自然と兼務してるので、「調達」とかいわれてもいまいちピンとこない。
○(※2)「下請事業者」とは?
乱暴に一言で言ってしまうと、商取引における「弱者」のことである。
厳密には下請法で定められており、詳細は省く。
件の日産自動車の例に当てはめると、日産自動車は「資本金3億円以上の親事業者(=強者)」とされ、
その日産自動車と取引をしている大部分にあたる企業は「資本金3億円以下の下請事業者(=弱者)」と下請法は定めている。
日産自動車の資本金は現時点で「6,058億13百万円」。ついでに言うと連結従業員数は「131,719名」。
それに対する外部業者の大半は資本金1千万円以下、従業員数も100名に満たない。
力差は歴然としている。
この明かな力差を下請法では定量的に明確化し、弱い方を「下請事業者」と定めている。
○(※3)「買いたたき」とは?
圧倒的強者と圧倒的弱者間の商売では、絶対的な力差による理不尽的不利益が生じる。
強い方(親事業者)はいわば「選ぶ側」。相手は自身にとって都合の良いところであればはっきりいってどこだっていい。
対して弱い方(下請事業者)は「選んでもらう側」。選んでもらえなければ売上が立たず、経営は成り立たなくなる。
よって「買いたたき」が発生することは避けられない。
「買いたたき」とは、”通常支払われる対価に比べて著しく低い額を不当に定めること”である。
選んでもらえないと経営ができなくなる相手の弱い立場を見透かして、
選ぶ側が傍若無人に好きなように身勝手な条件を押し付け振舞う。
「買いたたき」とはこのような行為を指す。
概要ではあるが冒頭の用語を説明し終えたところで、もう一度言う。
日産自動車がやっていることは「調達部門員による下請事業者の買いたたき」である。
下請法は「下請取引の公正化・下請事業者の利益保護」を目的とした法律である。
公正化・利益保護を害する行為は行ってはならないと定めている法律である。
これに日産自動車の調達部門員が行っていることを当てはめてみると、
「下請取引を優越的地位を乱用して一方的に著しく低い額を不当に定め」、
「下請事業者が本来得て然るべき利益を不当に迫害」しているのである。
これに対する罰則は「親事業者の代表者、代理人、使用人その他の従業者」に
「五十万円以下の罰金」を処すると定められている。
早い話、法人としての日産自動車はもちろん、それを行った一社員個人も完全なる犯罪者である。
内閣府が5/16に発表した1~3月期の国内総生産(GDP)速報値は、年率2%減というものだった。
これはダイハツ工業で発覚した認証不正による生産・出荷停止の影響が大きく、個人消費や設備投資が落ち込んだことが一要因とされている。
1万社以上の会社にはそれ以上の数の従業員がいて、それ以上の家族がいる。
その家族たちが本来得られるはずの所得が得られなくなるとどうなるか。
当然として消費を抑え、倹約に走る。
さらに許されないのは、下請事業者の本来得られるべき利益の行先である。
例えば適正価格1,000円の部品を日産自動車が不当に500円で下請事業者から買いたたいたとする。
こうすることによって日産自動車は例えば定価300万円で販売会社に売ろうと考えていた車を
299万9,500円で売っても利益は変わらず、日産自動車が500円値下げすればその車を買おうとしていたユーザーは
500円安く買えるようになり、可処分所得が増えることになるが日産自動車はそうはしない。
変わらず300万円で売るのである。
そして不当に買いたたいて得た500円は、自分の懐に潜り込ませるのである。
調達部門員が自分の仕事に箔をつけるただそれだけのために下請事業者を買いたたき、
ユーザーを欺き、
本来ならば大々的な不買運動をして断固糾弾すべき企業なのである。
日産自動車は下請法違反の疑いがあるとして公正取引委員会から今年3月に勧告を受けている。
普通だったらここで、社内中が下を上への大騒ぎになって是正に躍起になる。
仮にも誰もが知る大企業。
許されるはずがない。
ところが。
冒頭の通り、「調達部門員による下請事業者の買いたたき」なんていわれても、
それを見越してかどうなのか定かではないが、凝りもせず、少なくとも今月になっても
これって権力欲の話で、元増田は社会的な権力はそう強くないから、被害者が後輩一人で済んでるけど、
会社役員など、実際に振りかざせる権力が強い上に、権力欲が暴走してる人もけっこういるんだよな…
そっちの方が直接的/間接的ともに被害者が多くなるし、長く被害者が出る。
高校野球部や消防団や県警やJCが社会的に許されていて、表面的にはちゃんとした組織として見なされ恩恵や社会的信用を受けられている現実があるのに、この増田だけバケモノ異常者扱いはかわいそう
そのまま突っ走って、大量の若者にありのままで突撃して、選りすぐられた奴だけで組織化すれば、途端に社会に貢献してる、社会を育んでいるまともな人達という評価に様変わりするぞきっと
同意なき性行為は強姦だし、同意なき買収は敵対的買収だし、現代では基本的に何をするにしても同意を取ることを求められやすい。
仮に逮捕や刑務所への収監のような原則ベースの人権侵害行為の場合でも、国民による立法によって社会的合意を形成した上で行われる。
だったら出生も同じことで、法律ベースの合意や、出生されるあかんぼう本人の同意を得るべきだと考えている。
実際には法律で白か黒かにしたら社会体制終わるし、生まれる前のガキに同意取れるわけないので本当に実現されたら困るのだが、思想としてはそうなのだ。
一応個人的には正解として「人格データも含めた既存の人間のクローン生産」というのはある。
要は生きてる人間に同意取ってそれを複製すればよくねえかって話。
たとえば、かの裸体画が公々然と青天白日の下に曝されるようなものであります。
一般社会の風紀から云うと裸体と云うものは、見苦しい不体裁であります。
しかしながら、人体の感覚美をあらわすためには、是非共裸体にしなければならん、この不体裁を冒さねばならん事となります。
衝突はここに存するのです。
この衝突は文明が進むに従って、ますます烈敷なるばかりでけっして調停のしようがないにきまっています。
これを折り合わせるためには社会の習慣を変えるか、肉体の感覚美を棄てるか、どっちかにしなければなりません、
が両方共強情だから、収まりがつきにくいところを、無理に収まりをつけて、頓珍漢な一種の約束を作りました。
「肉体の感覚美に打たれているうちは、裸体の社会的不体裁を忘るべし」と云うのであります。
最前用いた難かしい言葉を使うと不体裁の感を抽出して、裸体画は見るべきものであると云う事に帰着します。
この約束が成立してから裸体画はようやくその生命を繋ぐ事ができたのであって、
ある画工や文芸批評家の考えるように、世間晴れて裸体画が大きな顔をされた義理ではありません。
電車は危険だが、交通に便だから、一定の道路に限って、危険の念を抽出して、あるいてやろうと云う条件の下に、東鉄や電鉄が存在すると同じ事であります。
裸体画も、東鉄も、電鉄も、あまり威張れば存在の権利を取上げてよいくらいのものであります。
真もその通りであります。
真を発揮した作物に対して、他の理想をことごとく忘れる、抽出すると云う条件さえ成立すればそれで宜しい。
なぜなら主人公は「ひたすら恵まれている」ハイポジションリベラル女子」だから。日頃から女はズルいと怒り呆れがちな人たちが真っ先に鼻で笑うタイプの恵まれた女だから。
ドラマの主人公の寅子は、投資銀行に勤める父と良妻賢母の母という大正~昭和初期のアッパークラスの、それもリベラル色の強い理解あるご家庭に生まれて、その潤沢な社会資本を余すことなく享受して弁護士の道を自由に邁進している。そして勉強大好きで周囲が態度を変えるほど頭が良く生まれついてもいる。そして子供のころから正義感がある。家柄が良くまっすぐ育った明るい優等生。
大学に行っても目立つタイプ、拗らせミソジニーを発動する拗らせエリートの同級生男子が、いつの間にかそのまっすぐな人柄にやられて好意を抱いたりする程度にはモテる。
寅子の家には、父が面倒を見ている司法試験合格を目指す書生がいて(アッパークラスのご家庭ならでは)この書生とも「私たち同じ道を進む仲間よね」という異性友達ムーブをぶちかましているが、書生は寅子に片思いである。そしてこの書生よりも寅子の方が圧倒的学力がある。要するに立場的にも、恋愛的にも経済的にも非対称性が生じている年上の男性を寅子は「異性の友人」として遇している。中々のタマである。
寅子は、前述した好意を抱かれていた拗らせエリートに「彼女に結婚してくれとはいえない、彼女の夢を奪うことになるから」と思われて振られてしまうのだが、それまでどっちつかずの態度だったくせにいざ振られるとショックを受けたりするし、せっかく弁護士になったのに依頼が来ないのは私が結婚していない(社会的信用がない)からだ、と思いつき慌てて縁談を探してもらうがうまく行かない。そりゃそうだ。
ところが助け舟で、寅子に片思いしていた家の書生から結婚をしたいと言われる。渡りに船と逃げ恥のような「条件偽結婚」だと思い込みスピード結婚を承諾するが、前述のとおり書生は寅子に片思いしていたわけで、初夜にぬいペニ状態となる。かわいそうな仲野太賀…。
と、寅子の痛さを中心に4月にドラマが始まって今日までの1カ月半を振り返った。フェミニスト嫌いの諸氏や、女はずるいと常々思っている諸氏が叩き放題の「豊かさという下駄を履いて産まれた恵まれた女様」それが寅子である。伊藤沙莉が演じていなかったら大変なことになっていたと思う。
「虎と翼」は、現代の問題を昭和初期の物語に練り込んでいる疑似歴史感が臭うドラマだが、一方でモデルになっている三淵嘉子は実在の人で、ドラマにおける寅子のキャリアや背景はモデルのそれをなぞっている。恵まれたリベラルな家に生まれて弁護士になり、戦争の時代に突入し、色々あって戦後は日本初の裁判官になるスーパーウーマンである。
ドラマの寅子も恵まれた家に生まれ、厳然とした性差別がある世界を、明るく、元気に、強気に突き進んでいく。そして突き進む中で彼女は、自分が周囲と比べ恵まれていること、「自由に選択ができるという」下駄を履いて生まれてきたことを徐々に自覚していく。
寅子が持って生まれた豊かな資源は、裏返せば、女に人権がなかった時代には、ここまで特権的に恵まれてなければ法曹界で働く道を切り拓くことができなかった、ということの証左だ。そしてこれを現在に照らせば、形式上は男女平等になった現在の女は寅子に比べれば矜持や頑張りが足りない、という振り返りもできるし、現在でもまだまだ形式的にしか男女の機会平等は達成されていないよなと振り返ることもできる(医大の入試における性差別不正はつい最近の出来事だが、あの時は差別だと批判する意見と、女はズルいから消耗が強い診療科を選ばないため合理的配慮だという意見に二分されていた)。
これは、女性に人権がなかった頃を引き摺って今も残る男性優位の古い価値観を、改めてマーカーでなぞっていく作業であり、同時に現代の女が抱える特権性の問題も照らし出す作業でもある。
そしてドラマの中では、現代にもしっかり残っている、個人の幸福を削るような価値観を改めて再発見することになる。
「結婚しなければ社会的信用が得られない」、「エリート男が生きていくには従順に従う女が必要」、「女の弁護士なんて信用できない」、「自分より優秀な女は生意気で目障りだ」、「適齢期を過ぎると縁談がない」、「人は生まれた国や家や身分に縛られる」、「平等を求める声は不平等の利益を享受する側には届かない」、「上品な批判は下品な妬みには勝てない」、「お金がないと社会的意義の高い仕事につけない」などなど。昨日どこかのSNSでだれかがぼやいていそうな内容である。
これらは女だけではなく、男も同様に削られる呪いの価値観である。学友たちはこの呪いの価値観によって法曹界で働くという夢を立たれていき、寅子は弱い立場に置かれた人を助けたいという正義の実践に加えて、諦めなくてはならなかった仲間への思いを「使命」として背負う人生を選ぶことになる。
不平等と戦うに十分な恵まれた武器を持って生まれて、更に先駆者の使命を背負った寅子は、おそらく来週からの戦争ターンではどんどん「恵まれていたもの」を奪われていくことになるのだと思う。世紀の愚戦・負け戦の太平洋戦争ってそういうものだったから。男は戦争に行くし残った老人や女子供は空爆にさらされる。男も女も人がたくさん死に経済活動は退潮する。
その時でも寅子は「正義」と「使命」をもって生きていくのだろうと思う。モデルの三淵さんは生き残ったし、何しろドラマの主人公なので正義や使命は捨てないだろう笑。
たくさんのものを奪われてなお「正義」と「使命」を失わない女がどんな生き方をするのかのドラマを私はとても楽しみにしている。
そして、形式上の機会が平等になった世界で、これまでずっと恵まれていたはずのものをどんどん奪われ不満が溜まっている人たち、「女は狡い」、「現代の女は特権階級だ」と思っている人こそ、奪われても正義と使命を捨てなかった人のドラマを見てほしいと思う。
フェミニズムドラマくっさー、と思う人も多かろうが、お勧めしたいのには、単純にドラマとして良くできているのもある。
寅子は「戦う女戦士」みたいな感じではまったくなく、前述通りそこそこの空気読めないわがままな、脇の甘い生き方をしていて、いちいちナレーションに突っ込まれている。ナレーションは尾野真千子で、芝居がかったナレーションだがコメディの良い味付けになっている。
寅子の両親や兄夫婦は明治の家族観(男が働き女は家を守る)できわめて円満な夫婦関係に描かれている。一方で嫁姑のちょっとしたストレスも描かれたり。父は帝人事件(疑獄事件)の当事者になり、リベラルなエリートの父親が会社での立場に縛られる姿をシリアスに描いてもいる。
また、法曹界への女性の進出を後押しする立場であるリベラル派の教授や弁護士がしっかりと性差別をしていてフェミニズムにおける父権の問題を提示していたりもして、本当に痒い所にまで手に届く配慮がされている。セリフやシーンの伏線もとても豊かでドラマとして見ていて普通に面白い。出演者はみな手練れの俳優だらけで演技へのストレスはほぼない。
フェミニズムドラマとしての側面については、あまりブコメが集まっていなかったがこの記事の分析がとても分かり易かったhttps://bunshun.jp/articles/-/70764 これ読むと「女のためだけのドラマ」じゃないことがよくわかると思う。
ところで最後に全然話は変わるのだが、昭和初期というのは実はWWIIをジャンプして戦後と地続きになっていたかなり民主的かつ退廃的な時代だったらしい。「富国強兵」を叫んで強国を目指していた大日本帝国から現代にいたるGDPの推計推移をみると「戦争が無かったらこのグラフの線が素直に上がっていたのではないだろうか」と感じさせるラインが描かれる(https://www.nippon.com/ja/in-depth/a04003/ 中ほどのグラフ)。まあ実際は戦争しないと色々糞づまっていたわけで後付けの皮算用でしかないが。
ともかく、人が自由を求めそして退廃を享受できる程度の十分な豊かさが生まれていたのが大正末期から昭和初期の時代。ちょうど朝ドラで描かれているこの時代は、結構現代に近い時代だったりもする。
しかし、このニッポンドットコムは笹川財団由来のかなり右寄りの情報サイトなのだが、それでも「高度成長期のストックは90年代で尽きてその後の策がねえぞ」という分析になっているのが、ちょっとだけ面白いですね。
こんばんわ、弱者男性です。
だけど、失礼ながら私は個人的な背景もあり、看過できません。
私は、世間から弱者男性と呼ばれる立場で、匿名ダイアリーでも自称する度に叩かれます。
ご存知ですか? 健康保険料って極めると月千円になるんですよ。
・・・話が逸れました。男らしさについて。
誰が誰を好きになってもいいだろ、という詠唱を伴って、好きの自由は主張されます。
確かに男女平等な扱いではないが、年収の高い男性を好きになってもいいじゃないか。
職場で言ったらハラスメントだが、身長の低い男性を好きにならなくてもいいじゃないか、個人の自由だろう、と。
旧弊なジェンダー観を内包した男性を好きになってもいいだろう、と。
女性個人がどんな男性を支持しようと、男性の生きづらさとは無関係だ、自由恋愛だろ、というロジックは、しかし落とし穴があります。
男らしさを理由に好かれた男性は、男らしさから降りれなくなるんです。
元の議論を思い出してください。古いジェンダー観を自分自身だけに適用するのはよくて、悪いのは他人に思想を押し付けることでしたよね。
自己完結してるならいいけど、思想を押し付けられたら生きづらくなってしまう。それが問題でした。
弱者男性は男らしく生きられません。
私だって本当は強くてカッコいい漢(おとこ)として肩で風を切りたいけど、でも無理なんです。
なのにもし、誰か女性が私の男らしさを見初めてくれたら・・・?
私は残りの人生で、男らしさを求め続けるでしょう。降りてラクになろうなんて考えられなくなります。
どの層にどうやって音楽を聞いてもらってどんな戦略で個体識別させるん?
社会的コンセプトとしてはHIPHOPと競合するように見えるが、どう割り込むん?
万が一知名度が得られても、たとえば鬼束ちひろみたいな要領のいい弱者向けアーティストにエッセンスをパクられて受け取りやすく演出整えられてお出しされ、養分おぢ乙になりそうやが対策考えてるん?
だから大人は社会的人格や建前やマナーなんかで、キモい自意識を隠して生活することができる場=社会を作ったのです。
自意識のキモさというのは、統制された社会の美しさの裏返しなのです。
つまりそのキモさを受け入れ、積極的に表出していこうとする姿勢は、反社会的でアナーキーな姿勢ということです。
一部のアーティストはそれを芸術に昇華し、社会の美しさに対する疑問として提出するでしょう。
また社会よりも個人を重視する視点を持つ人は、それを日常的に表すことで、社会の中での個人の重要性を主張するかもしれません。
動物的身体にこびりついた自意識の扱いは、個人と社会の関係性を測る物差しでもあるのです。
知らんけど
令和3年だったか、たかとしの嫁が、大貫のたんぼに出てきて、ここはうちの畑じゃ、と枯れた声でいうた、ということです。たかとしというのは延岡のでぶです。しかし、たかとしともめて
それを延岡の消防指令補が見ていたのは、3年前とかになるので、延岡労基署の前で、警察官補がけんかをみて引き離したのもはるか昔の話なので記憶にない。
民事訴訟法は定めてあるもので、大体、定めてしまうこと自体が、簡易迅速な事件解決と矛盾するので、法律を定める場合に つまり、現代法というのは、子供から見たら、めんどくせーな
おい
という感想をもよおすものである。なぜなら、 人を殺した者は、死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役に処する、と書いているが、子供がみたら、悪いことをした奴はその場で殺せばいいだろ
糞が、と思わせるところが、 まずは、警察の捜査、被疑事実で逮捕、勾留、取り調べ、押送(送検)、取り調べ、起訴、拘置所移送、 口頭弁論期日の設定、 判決期日、控訴、口頭弁論、
判決、 上訴、 最高裁判決、 再審といった面倒な構造を経由する
しかし、 法律の規定を、そもそも、 民事訴訟法の目的と、社会的な論理的関係と矛盾しないように、定めることはむずかしく、 民事訴訟法の全ての規定同士が相互に論理的に
矛盾しないように様々な概念を考えだし、規定として構成し、そこに置いておかねばならない
従って、 行(ウ)510号、146号などを処理する以前に、 行政事件訴訟法自体がどのように作られているのかから議論しなければならない。
少し前にXとかで話題になった女児向けのコミュニケーション等のハウツー本とかを見るに、先天的か社会的かは分からんが女性の方が「正しく」生きることを求めてそうだし求められてそうだなと思う。まあそれで誰かの悩みが解決したらそれはそれでいいことだし、究極的な話本人がそれで満足なら外野がゴチャゴチャ言うべき話ではないのかもしれない。
でもひねくれた見方をすればそれはある種の「呪い」の一端でもあって「インセンティブ」と表裏一体なのではと疑ってしまう。世の男どもを見よ!と言いたくなる。「降りられない」のは男だけではないのだろう。