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2024-05-20

anond:20240519184708

> 私も自分のことを社会学者だとは思っていないのですが(社会学正規教育を受けていませんし、そう名乗るのは恐れ多いので)、専門分野の一つに「政治社会学」と書くことはあります

https://bunshun.jp/articles/-/70814?page=2

Shotaro TSUDA(@brighthelmer)さん

https://x.com/brighthelmer

社会学は大好きな学問ですが、社会学者ではありません(正規トレーニングを受けてないので)。何の研究者かと言われると困るのですが、いまはプロパガンダ研究をしています。 

http://researchmap.jp/read0147163

ちくまプリマー新書5月の新刊津田太郎ネットはなぜいつも揉めているのか』

https://x.com/chikumaprimer/status/1790289111263441132

帯の惹句 「炎上」を経験したメディア社会論者が分析

著者に肩書つけたい出版社と、社会学者はやめてほしい著者の駆け引きの末がメディア社会論者なのかな

陰謀論・反ワクにハマり、デモに参加しようとする友人を説得したい

 親しい友人が、陰謀論にハマりました。

 趣味SNS陰謀論について積極的に発信するようになり、陰謀論である主催者がおこなうパンデミック条約反対デモに参加すると言い出しました。


 私は、陰謀論の主張内容にも、それを信じ広めようとする人たちの態度や振る舞いにも賛同できません。友人がそういった思想に染まることが耐え難く、陰謀論を信じることをやめてほしいし、最低限デモには行って欲しくないと思い、説得を試みました。結果、陰謀論への信仰(本人は自分の主張を陰謀論とは思っていない)を止めることは叶いませんでしたが、デモへの参加は思いとどまってもらえました。友人を説得するために手紙を書いたのですが、直接口頭で伝えることができたため、この文章を送ることはなくなりました。

 せっかく書いたのにもったいない(笑)ので、供養と、私と同じように陰謀論デモへ行こうとする友人にモヤモヤしている方の気持ちを整理するきっかけになればと思い、ここに投げることにしました。また、手紙の本文中に挙げた書籍は、陰謀論実態を知るために読んだ十数冊の中から中立的立場から書かれていると感じたものを選びました。特に情報パンデミック」は読みやすおすすめです。


 なお、私の友人は「ここまで心配してくれる友達との仲を壊してまで行くのは止めよう」という気持ちからデモ参加を取りやめたのであって、陰謀論を信じること自体を思い直したわけではなさそうということを書き添えておきます。予断を許さない状況は続いています

  友人へ。もし、この投稿を見つけたのなら、陰謀論というワード検索たか、少しでも疑問を抱いたか、だと想像します。正直、私の反対を押し切ってデモに行くなら絶縁もありうると思っていたし、陰謀論を信じ続けるのであれば今までのようには付き合えません。考え直してほしいです。




 パンデミック条約反対デモに行く気持ちは変わらないと聞き、今の時点での私の思いを伝えておきたいと思い文章にまとめることにしました。返信しなくて構わないから、読むだけは読んでください。


 あなたが心から日本の現状を憂い、未来を良いものにしたいという善意と熱意からデモに参加しようとしていることは、十分理解しているつもりです。その気持ち否定したいのではありません。

 でも、私との友人関係「真実」を多くの人に知ってもらう活動、そのどちらかを選べと言われたら、今のあなた後者を選ぶでしょう。そのことが本当につらく、悲しいです。実際にそうなるかもしれないという危機感覚悟を持って、今この文章を書いています

 陰謀論を信じている人を説得することは困難、むしろ逆効果であることも承知の上です。本来であればスルー一択の状況だけれど、私はあなたとの友人関係を失いたくない。その一心からであって、決して非難攻撃をしたいのではないということ、分かってください。


 ここからは、あなたの信じる「真実」のことを陰謀論と呼ばせてもらいます安易レッテル貼りが良くないことは重々承知していますが、他に適切な言葉が見つからないので、ごめんなさい。

 一部の権力者が外からはわからないように自らの利権を得るためのはかりごと=陰謀陰謀があるという前提で世の中の事象説明しようという試み=陰謀論、と捉えています史料証拠があり明るみに出ているもの陰謀、明確な根拠がないのに仮説をそのまま事実と主張するもの陰謀論、です。現在進行中で明るみに出ていない陰謀もあるかもしれませんが、明るみに出るか確実な証拠が見つかるまではそれも陰謀論範疇といえます。正しくないかもしれないけれど、間違いを回避するためにはこのスタンスを取ることが健全ではないかと考えます



 

 デモに行って欲しくない理由は主に二つです。


 ひとつめは、デモの主張内容の根底陰謀論があること。

 今回のデモの主張内容、ワクチン関連死の真相解明・超過死亡の原因究明・パンデミック条約反対、これら自体は真っ当な主張に見えます

 しかし、主催者発言などを見ていくと、おそらく陰謀論論理価値観を前提にしているのだろうと推測ができます。「日本を滅ぼしたい何者かがばら撒いた毒によって人がたくさん死んでいる」と言いたいのですよね。


 陰謀論は、科学的根拠を精査しておらず論理が飛躍していることにも違和感があるのですが、それ以上に「全ての事象には必ず明確な原因がある」という二元論姿勢こそに、問題本質があるように思います


 あなたは、デモ主催者陰謀論であるという私の指摘に対し、彼の言うことを全て信じているわけではないと言っていました。陰謀論には、荒唐無稽ものから真実に近そうなものまで多々ありますしかし、荒唐無稽ものは信じていないから、というのは、陰謀論を信じていないということにはなりません。

 「根拠の不確かな」「それっぽい説を真実と信じ込み」「善悪二元論帰結させ」「反論する相手のほうが間違っていると攻撃し」「自分の信じる真実理解しない者は反対勢力洗脳されていると憐れむ」「対話不可能な」言論に心当たりはありませんか。

 あなたの主張には、おそらく正しいもの現実に即したものも多々含まれる。しかしその根底にある信念(ディープステートによる世界支配)は、紛れもなく陰謀論のものです。ディープステート存在は、現時点ではあるともないとも証明のしようがない。それを「ある」と確信しているところに、危うさを感じます

 利権絡みで政治が歪むというのは普通にあることでしょう。歴史を紐解けば、そういった陰謀が実際に存在したこともありました。

 しかし、少子化報道感染症対策をはじめ、あらゆる現象がそこへ帰結するというのは、いくらなんでも飛躍しすぎです。ディープステートが本当にあると信じることが、認知を歪めてしまっていると感じます


 世の中には「わからない」ことがたくさんあります。答えが一つではないことも、立場が変われば意見が変わることもいくらだってあります

 ワクチン関連死の真相も、超過死亡の原因も、おそらく現時点では「わからない」のです。わからないなりに、未知の感染症になんとか対抗しようと手探りで行われた結果、思いもよらない被害が出てしまった。そんなところではないでしょうか。

 もちろん、それで良かったとは言いません。原因も究明されるべきでしょう。それでも、わからいかもしれない。科学の、医学の力なんてそんなものなのです。

 もし原因が判っても、今の政権は都合の悪いことを発表しないかもしれない。隠蔽を疑いたくなるのはごもっともです。だからデモで抗議する。理解できます


 しかし、それがなぜ「隠された陰謀によるもの」と結びつくのでしょうか。「明確な答えがないと不安」な気持ちを、絶対悪である何者かの所為にすることで安心したいのではないですか。


 カルトマルチ自己啓発セミナーと同じ構造です。不安を一発で拭い去ってくれる魅力的な何か、「気づき」、昨日までの自分とは違う覚醒したような気持ち。そういったもの陰謀論はもたらしてくれるのです。脳にとっては快楽です。だからハマる、依存性があるのです。

 真実からスッキリ納得がいくのではありません。スッキリするからそれを真実錯覚するのです。


 私は、陰謀論を広めようとする人たちの、自分たちの主張が絶対に正しいと信じて疑わない(ように見える)立ち振る舞いが苦手です。

 世の中に、絶対的な悪や完全な正義はないと思うからです。世界の仕組みも人間の行動も、数十分の動画簡単説明できるほど単純ではないと思うからです。理不尽で不可解な状況に置かれたときも、一旦は現状をありのまま受け止めることからしか理解は始まらないと思っているからです。この点において、陰謀論スタンスとは相容れないのです。

 そもそも、隠された世界的な陰謀本当にあったとして、それを一般市民YouTubeで手軽に知ることができるなんて、おかしいと思いませんか。



 もうひとつは、エコーチェンバー問題

 デモに集まるのは、陰謀論的な価値観の人、それに疑問を感じていない人たちだと思います。同じような意見の人に囲まれていると、その意見多数派正義のように思えてくる。リアル陰謀論コミュニティに参加することで、あなたがそちらの世界ますます傾倒してしまうことを恐れています

 デモはきっと楽しいでしょう。同じ意見の人たちと語り合い、声を上げ、この国の未来のために行動しているという実感が得られるわけですから。せめて、ここまで読んでもらって、陰謀論の「おかしさ」に少しでも疑問をもってくれていたらと思います

 また、陰謀論スピリチュアル自然派マルチカルト親和性が高いです。これらは、日常生活人間関係に大きく影響します。コミュニティの内側にいると気づきにくいものですから、引きずられないよう気を付けてほしいです。



 「陰謀論と言われても負けない」「陰謀論なんて信じてないけどこれは真実」「正しい情報は隠されているか自分で調べなければならない」これらは陰謀論に飲み込まれる人が必ずと言っていいほど口にする言葉です。

 あなた政治・経済に詳しい。それは誰もが認めるところです。けれど、政治に関心が高い人ほど陰謀論を信じやすく、逆に教育の高さや政治立ち位置陰謀論への染まりやすさに影響しないということは知っていますか。

 ネットYouTubeだけでなく、ぜひ一度関連書籍も見てみてほしいと思いますあなたに勧められた動画を見ていない私が言える立場ではないとは思いますしその点は申し訳ないと思うのですが(実はいくつかは観ようとしました。しかし冒頭から何を言っているのか意味がわからず、苦痛で、すぐに観るのを止めてしまいました)、少なくとも誰でも好きなように公開できる動画よりは、ファクトチェック体制のある書籍のほうが信頼できると私は考えています


 参考までに、陰謀論歴史やそれを信じるに至るメカニズムを、心理学的・統計的調査をもとに分析している書籍を挙げておきます

陰謀論入門」ジョセフ・E・ユージンスキ 作品社 2022年

情報パンデミック読売新聞大阪本社社会部 中央公論新社 2022 年

陰謀論」秦正樹 中公新書 2022年



 私は賛同できないけれど、陰謀論を信じること自体個人自由です。それなのになぜその世界観を否定するのかを、最後に書きます


 あなたは、「真実が一人でも多くの人に広まってほしい。生活が安定しなければ趣味も楽しめない。政治生活から政治のことを発信していく」と言っていましたね。

 しかし、まず大前提として、趣味SNSではみんな趣味の話をしたい。人の家の生活、たとえば晩ごはんメニューがどうでもいいのと同じように、人の政治的主張もどうでもいいのです。

 もちろん発言することは自由です。時には「あ、なるほど」と思い、時には「ちょっと面倒臭いな」と思い、多くはスルーされるでしょう。平和的な、現実に即した発言であれば、ですが。


 陰謀論本質は、全てを二元論帰結させがちなところにあります。つまり何かを語る時、一方的かつ断定的な物言いになる傾向があります。率直に言って「怖い」のです。反論なんかしたら百倍になって返ってきそうだし、話が通じなさそうに見えるのです。

 それを見た人はどう反応するか。同じ意見を持つ人は賛同を表し、ますます先鋭化していく。反対意見の人は、反論して不穏な空気になるか、黙って去る。そしてほとんどの人は、そっと離れる。だっていから。


 すると、いずれどうなると思いますか。あなたの周りには、同じように陰謀論を信じ広めたいと考える人が残り、先鋭化した思想についていけない大多数の人は離れていくのではないでしょうか。


 陰謀論を広めようとする人たちは、自分たちの主張を絶対に正しいものと信じ、否定するもの断罪し、自分たちの主張に都合のよい事実のみを根拠としてつまみ食いします。

 陰謀論思想から、言説を信じることで次第にその行動様式にも染まっていくのです。


 最近あなた言動が、これに近づいていることは自覚していますか。陰謀論ひとつの説として受け止めるにとどまらず、その善悪二元論的な考え方を自分の中へ取り込んでいることに気づいていますか。


 先月、攻撃的な言動非科学的な情報拡散を控えてほしいとお願いした頃、次第に過激化していくあなたの振る舞いをそばで見ていて、私はとてもしんどかったです。趣味アカウント積極的思想を発信し、周りからかに距離を置かれていることを察して切ない気持ちになっていました。非科学的な言説に対し、どう反応してよいのかわから困惑していました。


 しんどければミュート・ブロックしてくれとあなたは言いますが、実際にそれをしてしまえば、今後あなたと一緒に趣味を楽しむことはできなくなりますよね。

 受け止め方は人それぞれだから、と言うのは、一見、冷静な態度に思えます。離れてもどうでもいい他人ならばそれで構わないでしょう。

 しかし、私や親しい人たちに対してまで、気に入らないなら見なければいいと言ってしまうのは軽率ではありませんか。私はあなたにとってその程度の存在なのかと、悲しくなりました。


 趣味を楽しむために始めた発信なのに、一緒に趣味を楽しむはずだった人々が離れていく。そして孤立すればするほどこの傾向が加速する。

 信じることが自由であっても、思想を広めようと発信することには責任が伴います。その思想自体賛否があることはもちろん、その他の発言陰謀論的な価値観を持つ人の発言と受け取られるようになります。「結局、陰謀論を広めたいんでしょう?」「ヤベー奴の言うことはヤバい」となるのです。既に、趣味アカウントの一部のフォロワーの間ではそういう空気になっています

 陰謀論の主張内容や拡散方法に対して、不快感嫌悪感を抱く人がいることを想像していますか。第三者にそういった感情を抱かせる発信をする人から、離れたいと思う人がいることは想像できますか。


 陰謀論は、カルトマルチと同じように、思想に染まることで人格を変え、周りに広めようとすることで人間関係破壊するのです。



 初めにも書きましたが、もっと関係の薄い相手であれば、陰謀論にハマったと感じた時点で穏便に距離を置いていました。思想洗脳された人を見るのはしんどいし、説得することは困難だからです。

 それをせず、反感を買うかもしれないこんな長文をわざわざ送り付けたのは、私があなた失いたくないからです。あなたのためなんて言うつもりはありません。私のためです。嫌な女に彼氏を奪われそうになって焦る気持ちに似ています。結果としてどうにもならなかったとしても、黙って見ているのは耐え難い。


 どうか、これがあなたに見せる最後文章になりませんように。頭を冷やしてほしい。


anond:20240519123527

"妻が有業である世帯においても、夫の「家事関連時間なし」の割合が半数を超えています”(内閣府

https://wwwa.cao.go.jp/wlb/government/top/hyouka/report-19/h_pdf/s3-4-3.pdf

"6歳未満の子どもを持つ夫の育児・関連時間は、2011年から16分増加し83分2006年の結果と比較すると10年間で23分、1996年の結果と比較すると20年間で45分増加。”(内閣府

"共働き世帯で、約8割の男性家事を全く行っておらず、約7割の男性育児を全く行っていない”(内閣府

https://wwwa.cao.go.jp/wlb/government/top/hyouka/k_42/pdf/s1-2.pdf

上記は一例ですが、過去統計分析において政府公式に「妻(女)が働いてても夫(男)はろくに家事育児をしやがらねぇ」(意訳)と認めています。こうした傾向は現在も劇的には変わっていません。女性下方婚をしたがらない理由は様々でしょうが上記の「家事育児に関する男性の非協力姿勢」も前提としてあることは容易に想像できます

こうした事実がある以上、いくら専業主夫」を受け入れると主張する男性が増えてもそれがどこまで本気なのか、また実際の家庭生活においてどこまで頼りになるのか未知数な部分が多いのだと思います

ただ少しずつ変わる兆しは見えていて、特に若い世代意識は大きく変わっています。例えば令和5年版の男女共同参画白書はこんな感じです。

女性の8割以上、男性の7~8割が、女性家事育児等が集中していることが、職業生活において女性活躍が進まない理由と考えている。”

"子供がいる世帯では、女性家事育児時間を減らしたいと思い、男性は、仕事時間を減らし、家事育児時間を増やしたいと思う傾向にある。若い世代でその傾向が強い。”

"家事育児等について、女性では年代が高い方が、男性では年代が低い方が、「自分が率先してするべきことである」と回答する割合が大きい傾向にある。同年代の男女で比較すると、50~60代では男女で10ポイント以上差異があるが、年代が低くなるほど男女の差異が小さくなり、20代では、ほとんど差異が見られない(女性70.1%、男性69.8%)”

"「男性による育児家事などについて、職場における上司や周囲の理解を進めること」、「労働時間の短縮や休暇制度テレワークなどのICTを利用した多様な働き方を普及することで、仕事以外の時間をより多く持てるようにすること」は、男女ともに、年代が低い方が割合が大きい傾向にある。”

"男性は年齢が低いほど、家事育児参加に関しては抵抗を感じておらず、職場等、周囲の環境を改めることがより必要と考えている。”

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/gian_hokoku/20230616danjogaiyo.pdf/$File/20230616danjogaiyo.pdf

このように若い世代であるほど男性女性ともに現在問題点を的確に捉えていることがわかります

なので「女性結婚を躊躇う理由ひとつとして育児休暇の取得なども含めた男性側の家事育児負担の低さがあるよ。現状は女性にその負担デメリットが重くのしかかってる状況だよ。」という指摘に対して「女は下方婚をしたがらない」みたいな的外れな反応をしてしまミソジニー丸出しのお馬鹿の認識と実社会のそれはどんどんズレたものになっていくのだと思います

2024-05-19

上川外相発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、

ちゃんと指摘しておかないと日本はどんどんおかしくなる。

生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。

候補当選によって新たな知事誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。

一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現

こうして、「出産を願ってもできない人」というグループ示唆することで、それらが何かしら傷つきやすメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現いか配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的脆弱性分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)

実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。

単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナー出会えないなど、

要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的問題で躓いているひともいるはずだ。

じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?

体や心の障害に起因して、ある意味病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?

そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮必要っていう、潜在意識ますます透けてくる。

でも心身の問題出産できないというのを、自分はいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合

それって社会経済的理由出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。

例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。

出産を願ってもできない人」

産みの苦しみとかい表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたか存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。

そういうの、すごく傲慢上から目線だと思わないのかね。

障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範空気として押し付けてくることだ。

そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。

実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定グループを過度に保護し、そのグループ弱者として固定化する結果を招きかねない。

抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け [東京都]:朝日新聞デジタル

これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。


出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?

これは、戦時中の、「兵隊さんご苦労さん」っていって兵隊を敬わせて背中を押し、銃後の守りを頑張らせようとするのと近い話で、マスコミ世間空気をつくることができるのだから気を付けてもらいたい。

配慮に欠ける可能性がある」という、世論規範的に誘導する表現は、プロパガンダとしても機能してしまうので、正直、よっぽどのことがない限り使ってもらいたくない。

必要だとすれば、なぜ必要だと認識しているのか、マスメディアにはよくよく考えてもらいたい。

とりわけ政治家発言については、言論多様性重要だ。

言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。

浄化できるというのも幻想しかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。

政治家発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来意図文脈が歪められる恐れがある。

特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。

自由表現が妨げられることで、社会全体の健全議論が損なわれることになる、ということの不利益ちゃんマスメディア理解しておくべきだ。

下手な商売して何が悪いんだ

店のオーナーでも大家でも何でもないのに、客が来ない原因を勝手分析して批判しすぎてる人なんなんだ

放っておいてあげればいいのに

経営者でもなんでもないのに勝手コンサル気取りで酔ってたかって叩きまくって

自分関係のないことで怒り過ぎてる

誹謗中傷するほどのことか

客来て欲しいっていいながらうまく商売できてないのはそんなに悪いか

人を殺したわけでもなし、好きに生きさせてくれや

2024-05-18

anond:20240518173815

実際、ほぼ運ゲーファン分析が当たればいいけどなぁ。

[] 2024-05-18

githubでなにか作ったものアップロードするのは、自分向きではないことに気がついた。

私が仕事で作っているようなwebアプリケーションというのは、誰でも使える一般性の高いものではなく、もっと特定ビジネス依存した特殊ものである

から一般的な誰でも使えるようなものを作るというのにはあまり慣れていないのだ。

なにか作る場合はkaggleのほうが遊び場として向いていると思っている。

kaggleで「コンペ」に参加するつもりはないし、あれはBERTが出現したぐらいからは、少なくともNLP(自然言語処理)界隈は不毛な場となってしまった。

指標があれば不毛なハックがある。それが現実というものである

それに業務実用レベルで使えるモデルというのは、もっと運用のしやすシンプルモデルである

モンスターアンサンブルで精度がSOTAでーすピロローン!なんてことには興味がないが、コンペはそれを目指している。

ではなぜkaggleが良いかと言うと、データセットが転がっていて、notebookも簡単作成できるからである

「このデータをこうやって使うとこういうツールが作れる」「このデータをこうやって分析するとこういう知見が得られる」というのは、「web開発用のMVCフレームワークを作ります」よりも具体性がある。

そして特定データに対するモデリングをするために論文を調べるようなことになった場合は、勉強にもなる。

私は昔、自然言語処理ブログを書いていたが、実験したことコードを載せるタイプ記事が多かった。

ところが自称データサイエンティスト自称NLPエンジニアツイッター上で「ゴミのようなブログを書くな」と言っていて、自分が言われている気がして怖くなったのでブログを閉鎖した。

そういう「政治おじさん」との接触を最大限減らすには、ブログというフォーマットではダメだと思うわけである

私のマグカップには"Talk is cheap, show me the code."と書かれている。

これはリーナストーバルズの名言だが、政治おじさんが近寄らない場所というのは、具体的なコード存在する場所であると言えよう。

anond:20240517223047

ゴールデンカムイ』の分析・鑑賞で”アイヌ差別をする登場人物悪者(敵)だけ”という指摘があったが、それとの対比

法曹界への女性進出を後押しする立場であるリベラル派の教授弁護士がしっかりと性差別をしていてフェミニズムにおける父権問題提示していたりもして、本当に痒い所にまで手に届く配慮がされている。セリフやシーンの伏線もとても豊かでドラマとして見ていて普通に面白い

2024-05-17

フェミニスト大嫌いな人こそ、特権階級の女様が主人公ドラマ、虎と翼を見るといい

なぜなら主人公は「ひたすら恵まれている」ハイポジションリベラル女子」だから。日頃から女はズルいと怒り呆れがちな人たちが真っ先に鼻で笑うタイプの恵まれた女だから

ドラマ主人公の寅子は、投資銀行に勤める父と良妻賢母の母という大正昭和初期のアッパークラスの、それもリベラル色の強い理解あるご家庭に生まれて、その潤沢な社会資本を余すことな享受して弁護士の道を自由に邁進している。そして勉強大好きで周囲が態度を変えるほど頭が良く生まれついてもいる。そして子供のころから正義感がある。家柄が良くまっすぐ育った明るい優等生

大学に行っても目立つタイプ、拗らせミソジニーを発動する拗らせエリート同級生男子が、いつの間にかそのまっすぐな人柄にやられて好意を抱いたりする程度にはモテる

寅子の家には、父が面倒を見ている司法試験合格を目指す書生がいて(アッパークラスのご家庭ならでは)この書生とも「私たち同じ道を進む仲間よね」という異性友達ムーブをぶちかましているが、書生は寅子に片思いである。そしてこの書生よりも寅子の方が圧倒的学力がある。要するに立場的にも、恋愛的にも経済的にも非対称性が生じている年上の男性を寅子は「異性の友人」として遇している。中々のタマである

寅子は、前述した好意を抱かれていた拗らせエリートに「彼女結婚してくれとはいえない、彼女の夢を奪うことになるから」と思われて振られてしまうのだが、それまでどっちつかずの態度だったくせにいざ振られるとショックを受けたりするし、せっかく弁護士になったのに依頼が来ないのは私が結婚していない(社会的信用がない)からだ、と思いつき慌てて縁談を探してもらうがうまく行かない。そりゃそうだ。

ところが助け舟で、寅子に片思いしていた家の書生から結婚をしたいと言われる。渡りに船逃げ恥のような「条件偽結婚」だと思い込みスピード結婚を承諾するが、前述のとおり書生は寅子に片思いしていたわけで、初夜にぬいペニ状態となる。かわいそうな仲野太賀…。

と、寅子の痛さを中心に4月ドラマが始まって今日までの1カ月半を振り返った。フェミニスト嫌いの諸氏や、女はずるいと常々思っている諸氏が叩き放題の「豊かさという下駄を履いて産まれた恵まれた女様」それが寅子である伊藤沙莉が演じていなかったら大変なことになっていたと思う。

だが伊藤沙莉の演じる寅子はとっても魅力的である

「虎と翼」は、現代問題昭和初期の物語に練り込んでいる疑似歴史感が臭うドラマだが、一方でモデルになっている三淵嘉子は実在の人で、ドラマにおける寅子のキャリアや背景はモデルのそれをなぞっている。恵まれリベラルな家に生まれ弁護士になり、戦争時代突入し、色々あって戦後日本初の裁判官になるスーパーウーマンである

ドラマの寅子も恵まれた家に生まれ、厳然とした性差別がある世界を、明るく、元気に、強気に突き進んでいく。そして突き進む中で彼女は、自分が周囲と比べ恵まれていること、「自由選択ができるという」下駄を履いて生まれてきたことを徐々に自覚していく。

寅子が持って生まれた豊かな資源は、裏返せば、女に人権がなかった時代には、ここまで特権的に恵まれてなければ法曹界で働く道を切り拓くことができなかった、ということの証左だ。そしてこれを現在に照らせば、形式上男女平等になった現在の女は寅子に比べれば矜持や頑張りが足りない、という振り返りもできるし、現在でもまだまだ形式的しか男女の機会平等は達成されていないよなと振り返ることもできる(医大入試における性差別不正はつい最近出来事だが、あの時は差別だと批判する意見と、女はズルいから消耗が強い診療科を選ばないため合理的配慮だという意見に二分されていた)。

これは、女性人権がなかった頃を引き摺って今も残る男性優位の古い価値観を、改めてマーカーでなぞっていく作業であり、同時に現代の女が抱える特権性の問題も照らし出す作業でもある。

そしてドラマの中では、現代にもしっかり残っている、個人幸福を削るような価値観を改めて再発見することになる。

結婚しなければ社会的信用が得られない」、「エリート男が生きていくには従順に従う女が必要」、「女の弁護士なんて信用できない」、「自分より優秀な女は生意気で目障りだ」、「適齢期を過ぎると縁談がない」、「人は生まれた国や家や身分に縛られる」、「平等を求める声は不平等利益享受する側には届かない」、「上品批判下品な妬みには勝てない」、「お金がないと社会的意義の高い仕事につけない」などなど。昨日どこかのSNSでだれかがぼやいていそうな内容である

これらは女だけではなく、男も同様に削られる呪い価値観である。学友たちはこの呪い価値観によって法曹界で働くという夢を立たれていき、寅子は弱い立場に置かれた人を助けたいという正義実践に加えて、諦めなくてはならなかった仲間への思いを「使命」として背負う人生を選ぶことになる。

平等と戦うに十分な恵まれ武器を持って生まれて、更に先駆者の使命を背負った寅子は、おそらく来週から戦争ターンではどんどん「恵まれていたもの」を奪われていくことになるのだと思う。世紀の愚戦・負け戦の太平洋戦争ってそういうものだったから。男は戦争に行くし残った老人や女子供は空爆さらされる。男も女も人がたくさん死に経済活動は退潮する。

その時でも寅子は「正義」と「使命」をもって生きていくのだろうと思う。モデルの三淵さんは生き残ったし、何しろドラマ主人公なので正義や使命は捨てないだろう笑。

たくさんのものを奪われてなお「正義」と「使命」を失わない女がどんな生き方をするのかのドラマを私はとても楽しみにしている。

そして、形式上の機会が平等になった世界で、これまでずっと恵まれていたはずのものをどんどん奪われ不満が溜まっている人たち、「女は狡い」、「現代の女は特権階級だ」と思っている人こそ、奪われても正義と使命を捨てなかった人のドラマを見てほしいと思う。

フェミニズムドラマくっさー、と思う人も多かろうが、お勧めしたいのには、単純にドラマとして良くできているのもある。

寅子は「戦う女戦士」みたいな感じではまったくなく、前述通りそこそこの空気読めないわがままな、脇の甘い生き方をしていて、いちいちナレーションに突っ込まれている。ナレーション尾野真千子で、芝居がかったナレーションだがコメディの良い味付けになっている。

寅子の両親や兄夫婦明治家族観(男が働き女は家を守る)できわめて円満夫婦関係に描かれている。一方で嫁姑ちょっとしたストレスも描かれたり。父は帝人事件(疑獄事件)の当事者になり、リベラルエリート父親会社での立場に縛られる姿をシリアスに描いてもいる。

また、法曹界への女性進出を後押しする立場であるリベラル派の教授弁護士がしっかりと性差別をしていてフェミニズムにおける父権問題提示していたりもして、本当に痒い所にまで手に届く配慮がされている。セリフやシーンの伏線もとても豊かでドラマとして見ていて普通に面白い出演者はみな手練れの俳優だらけで演技へのストレスはほぼない。

単にドラマとしても面白いので、ぜひ。

フェミニズムドラマとしての側面については、あまりブコメが集まっていなかったがこの記事分析がとても分かり易かったhttps://bunshun.jp/articles/-/70764 これ読むと「女のためだけのドラマ」じゃないことがよくわかると思う。

ところで最後全然話は変わるのだが、昭和初期というのは実はWWIIジャンプして戦後と地続きになっていたかなり民主的かつ退廃的な時代だったらしい。「富国強兵」を叫んで強国を目指していた大日本帝国から現代にいたるGDPの推計推移をみると「戦争が無かったらこグラフの線が素直に上がっていたのではないだろうか」と感じさせるラインが描かれる(https://www.nippon.com/ja/in-depth/a04003/ 中ほどのグラフ)。まあ実際は戦争しないと色々糞づまっていたわけで後付けの皮算用しかないが。

ともかく、人が自由を求めそして退廃を享受できる程度の十分な豊かさが生まれていたのが大正末期から昭和初期の時代。ちょうど朝ドラで描かれているこの時代は、結構現代に近い時代だったりもする。

しかし、このニッポンドットコム笹川財団由来のかなり右寄り情報サイトなのだが、それでも「高度成長期ストック90年代で尽きてその後の策がねえぞ」という分析になっているのが、ちょっとだけ面白いですね。

初デートサイゼ論争が噛み合わない理由

初デートサイゼ論争はことごとく議論が噛み合っていない様子である

サイゼ論争を眺めるにつけ、みんな明後日の方を向きながら演説しているだけなのに距離が近いか議論ぽく見えてしまっている……といった印象を毎回抱いている

この噛み合わなさの要因は一体何なのか

議論を観察するうちに気づいたことだが、実は「初デートサイゼ」という事象には3つの捉え方があるようなのだ

初デートサイゼを語っている人間は大きく3つのグループに分類され、それぞれ常識経験世界観が全く異なっているために同じ「初デートサイゼ」を語っているように見えても実は全く異なるデート事象を取り上げている

ここでは初デートサイゼ論争を繰り広げる層を3つに分類し、それぞれの層が指す初デートサイゼの正体について深堀りしてみようと思う

それぞれの誤解が解きほぐされ「初デートサイゼ」にまつわる相互理解に少しでも繋がれることを願っている

層1.婚活女性の思う初デートサイゼ

まずは初デートサイゼに対して激烈な嫌悪感を示している層である

概ね下記のプロファイリングに該当する層であり、初デートサイゼ論争においては否定派に回っている

20代後半から40代女性

マッチングアプリ婚活アプリ結婚相談所等の利用者

結婚願望が強い

恋愛経験豊富とは言えない

恋愛経験があったとしても自分理想恋愛経験ができた経験はなく、過去恋愛黒歴史だと思い込む節がある

自身ハードルを越えてこない男に対して嫌悪感を持つ

相対的価値観幸せを感じる傾向がある(自分が好きかどうかではなく周りからどう見られるかを重要視している)

・「〇〇すべき」「〇〇しないとみっともない」といった「べき思考」を内面化している

自己肯定感は低いがプライドは高い

こういった層が想定する「デート」とは、マッチングアプリ等によって知り合った人間との初めての顔合わせである

婚活をしない層からすると信じられないことだろうが、彼女らの思うデートとは「相手スペックを品定めするための場」であり、純粋恋愛過程を楽しむためのものではない

さながら、事前に定められた規格に対してその製品合格できるかどうかを確認する試験のようなモノなのだ

そういった層からすれば当然のことながら「初デートサイゼ」はナシとなる

この層における初デートサイゼとは、「相手男性給料は相当低い」「自分を魅力的に見せる努力を怠っている無能力者」「こちらを舐めている、足元を見ている」「こちらを楽しませようという甲斐性は一切ない」などといったことを意味する符牒となるのだ

故に初デートサイゼ肯定派を見たとき彼女らは自身価値毀損させられたかのごとく怒り狂うし、あるいは「初デートサイゼ悪くないじゃん」的なことを言う女性に対しては「穴モテのクソ女!!」といった反応を寄越すのである

層2.チー牛非モテ弱者男性の思う初デートサイゼ

初デートサイゼを支持する層ではあるが、こちらもこちらでデートに対する認知は歪みまくっている

プロファイリングは下記の通り

10から50代くらいまでの男性

恋愛経験はない、陰キャ

リアル恋愛事情等には疎い

基本的恋愛知識ネットアニメ漫画から得たものしかない

他人気持ちを読むことが苦手

ルーティンから外れることを嫌う特性がある上に周りの目を過度に気にする

・そのため外食はもっぱら通い慣れたチェーン店しか利用しておらず、恥をかくのが怖すぎてひとりで行きつけのお店を開拓することができない

恋愛幸せに対する考え方が幼稚で独善的自分が好きなことと相手の好きなことが一致することが幸せだと思っている、相手の喜ぶことに合わせるといった思考がない)

自己肯定感は低いがプライドは高い

この層はデートを「恋愛関係に至ったあとにする行為」だと思ってる

より正確に言うなら、「好きです!付き合ってください!」などという告白によって交際スタートし、その後初めてふたりで出かける行為を「初デート」だと思っている

しかも、基本的女性に対して歪んだ幼児的な見方しかしておらず0か100かでモノを考えているうえ、「ありのまま自分をそのまま認めてもらえるのが良い恋愛」だという幼児的な世界観脳みそ支配されている

そのため初デートサイゼに連れていくという行為について、

初デートサイゼになるのは仕方ない(他にお店を知らないし怖いから)」

理解のある彼女ならこちらの事情を察して初デートサイゼ文句は言わない」

「っていうか初デートで高い飯奢られようとするとか普通に性悪ビッチなのでは?」

サイゼうまいんだし普通文句言わないでしょ」

初デートサイゼは何もおかしくない!むしろ初デートサイゼ文句言ってんのは性悪のクソビッチ!」

と思っている

彼らからすれば層1の主張をする人はみんなビッチになるというわけだ

層3.一般人の思う初デートサイゼ

ネット上の初デートサイゼ論争は主に層1と層2が噛み合わない議論を延々と繰り返すことによって形作られている

が、実は層1も層2もノイジーマイノリティであり大半の人間が思う一般的初デートサイゼの印象からはだいぶ外している

ではここでいう一般人とはどんな人なのかというと、

・ある程度の恋愛経験があり恋愛の酸いも甘いも知っている

大人として成熟しており自と他の区別ちゃんとついている

自己肯定感もそれなりにある

といった人だ(逆に言えば層1と層2にこのような要素はない)

この層3は初デートサイゼと聞いた時、

中学とか高校デートだとどうしてもそうなるよね」

趣味で知り合った間柄だと初デートサイゼ普通にあるよね、好きなバンドライブ行ったとき食事とか簡単ものになりがちだし」

「あとから振り返って「そういえば俺達の初デートってサイゼだったねー」ってなることあるよね、友達以上恋人未満ときにノリでファミレス行ったりすることあるじゃん」

などと、個々の事情次第でそういうのもあるよね、といった反応になる

層1や層2と異なり「こうなるべき!!」といった思考には支配されていない

またそうであるが故にネットレスバに参加することも少なく、仮に参加しても過激なことは言わないので意見は埋没しがちである

しか社会一般普通感覚といえば層3だと言っていいだろう

結論相手立場になって考えよう

サイゼ論争を実りあるものにしたいならまずは相手過去ツイートなどを漁って相手の人柄が何なのかを把握するべきだ

また、その姿勢自分に向けて「なんで私は初デートサイゼにここまで感情が高ぶっているのか」を分析することも重要だろう

ここで紹介したプロファイリングも全部が全部当たるわけではなく、例えばこの間話題に乗っていた「女性サイゼに連れて行って試すことの何が悪いんだ!」みたいなこと言っていた人は層1の異性版といえる

いずれにせよ、初デートサイゼに口角泡を飛ばしている時点で恋愛に対して歪んだ認知を持っていると言えるのでカウンセリングを受けたほうがいいかもしれない

2024-05-16

TVドラマIT描写稚拙すぎて見てられない

なんか監視カメラ映像をワンクリック分析して、カタカタッターンで身元を照合しちゃってみせたりとかさ。恥ずかしいったらありゃしない。

個人的に1番見てて恥ずかしかったのは大病院占拠分析官。共感性羞恥とかそんなレベルじゃなかった。

anond:20240516164944

開業以外にも、突然「=」を文章のなかで出してくるとか、文章のつなぎ言葉を換えてるとか、独特の表現が落とされてるよ。

よくよく読まないとわからない微小な習性だけど、それだけでだいぶ印象が変わる。

ここから何故キモいと感じるのかを分析するのは結構おもしろいかも。

anond:20240515130736

この件のブコメ見ててそりゃ売れ残るわって奴が多いな

>>>

blue_night_blue 女も試してくるから〜という意見があるが、初回デート社会コードとしてハレの日であり、そこでサイゼ選ぶ時点で男女関係なくセンスがねえわ。デートしたこともないような奴がコメントしてて悲しくなってくる…

<<<

婚活なんか1020代デートと違って30代や40前半の売れ残りがメインなのにゴミみたいなデート規則要求してる行動が分からない。

30代なんか基本的に男女問わず多少なりとも老化がでてきて自他共に劣化を受け入れる時期だぞ。

「私を安く値踏みしないで!」ってのは20代以前の考えであって

あなたはここ劣化してますね。私はここ劣化してます。お互いに許容可能範囲かな。」みたいな許容を確認し会うフェーズだぞ。

あなたちょっとデブですね。でもかわいいからオーケーです。」

あなたちょっとはげてますね。でも年収めだから許します。」みたいな。

許容フェーズはいってもサイゼぐらいでガタガタ言ってる女は許容能力分析能力も低くてこどおばムーヴ全開なのでさらに売れ残ることは間違いない。

2024-05-15

anond:20240512152055

20年前から同人やってるっていう割に、界隈のことを何も知らんのな。大手や壁のスペースにはレイヤーの売り子の一人や二人はいるのが普通光景でしょ

俺はもう同人活動から引退してるし、コロナ以降はイベントにも出てないから最新情報は知らんけど、少なくとも俺がバリバリやってた10年前でもそれは普通光景だったはず

で、イケメンには「お前の人生にはアニメ漫画なんて必要ねーだろ」だって? 勝手に決めつけるんじゃねーよ

アニメ漫画社会不適合者が最後に逃げ込むオアシスだったんだよ」だって? これまた勝手に決めつけてるんじゃねーよ

ウザいだろうが少し自分語りさせてもらおう。俺は子供の頃からスポーツも好きだったけど、同じぐらいアニメマンガゲームが好きだった。DB星矢勇者シリーズガンダムカプコンSNK格ゲーFF、どれも大好きだった

そしてこう言っちゃなんだが、足も速くて顔もイケメンとまではいかないがまずまずで、コミュ力も高かった俺はまぁまぁ女子からモテてた。妹もいたか女子の扱いには慣れてたってのもあるだろう

そんなある日、当時大学生だった従兄弟が、たぶんふざけて俺に見せてきたものがある。従兄弟は俺にとってのオタク趣味の先輩、先生みたいなところがあって、それまでにも俺の知らない世界をいろいろと教えてくれたのだが、この時はレベルが違った

その日、従兄弟が俺に見せてきたのは「エロ同人誌」だった

それはセラムン薄い本だったのだけど、俺はめちゃくちゃな衝撃を受けた。もちろんエロ本ぐらいは見たことはあったが、「アニメキャラクターエロいことをする」というエロ同人には度肝を抜かれた。こんなもの存在するのか、存在していいのか。いったい誰がこんなのを描いたのか、などなど、混乱しながらも目が離せなかったのを覚えている

さすがに従兄弟もそれ以上は見せてくれなかったし、詳しいことも教えてくれなかった。が、その日俺は知ってしまった。エロ同人誌というもの存在

そこから俺は自力で調べて、エロ同人についてある程度の知識を得た。だいたいは捨ててあったエロ漫画雑誌からだが、そこでエロ同人通販というもの存在することも知った。コミケイベントに行っても良かったのだろうが、さすがに小学生には売ってはくれないだろうと諦めかけていた矢先に、通販という手段を知れたのは僥倖だった。通販なら顔も年齢も知られる恐れがないからだ

そして同人サークルと直接やり取りをするのではなく、とらやメロンのような会社の先駆けとも言うべき存在の「LLパレス」という店があることも知った。カタログを取り寄せてみると、そこにはまさに目くるめく広がるエロ同人パラダイスがあった

さっそくお年玉を取り崩して為替に変え、何冊かを注文してLパレに送る。一週間ほどしてからだっただろうか、送られてきたセラムンナコルルエロ同人誌に俺の興奮はMAXに達した。本当に送られてくるまで、実はまだ詐欺可能性も考えていたからだ。だがエロ同人誌は実在したのだ。ラピュタ本当にあったんだ!

そこから俺は小遣いやお年玉をやりくりして、Lパレからエロ同人を買い求め続けた。一方で俺はこんなことを友人にも話したりはしなかった。もうすぐ中学生とはいえ、こんな本を持っているなどバレたら何を言われるか分かったもんではないからだ。学校ではクラスの良きリーダーとして振る舞い、勉強にも習い事もしっかりやっていた。そしてそれは中学生になっても同じだった

しかしある日、その平穏が破られた。母親エロ同人存在がバレたのだ。

俺の愛したエロ同人誌はすべて捨てられた。いちおうこんな事もあろうかと、多少の対策はしてあったのだが、それも無駄だった。俺は絶望した

だが、同時に俺はあることに思い至った。「だったら自分で描いたらいいのでは?」と

自分で描ければ、仮に捨てられてもまた描けばいいだけだ。ノートに描けば、まさかそこにエロマンガが描かれてあるなど親の想像埒外だろう。これも捨てられる可能性を低くする

そう思いついた俺はそこからひたすら絵を練習することにした。ジャンプ系は親の監視が緩く、あっても不自然ではないため、ぬ~べ~桂正和先生マンガを参考に美少女練習した。拾ってきたエロマンガキャラ身体トレスして、顔だけ自分の描いた綾波にするとかした。そして俺は決心した。将来、俺はエロ同人作家になろう、と

高校への進学は、オナニー猿だった割には上等なところに入り込めた。何度も言って恐縮だが、俺は外面はまぁまぁいい。そしてこの頃から俺はコミケイベントに実際に行くようになった。しか未成年だとバレたら売ってくれないという不安、下手をしたら通報されるのではないかとさえ恐れていた。なので、俺はまぁまぁの外面をさらに磨くことにした。具体的に言うと「大人っぽくみせる服装」や身だしなみ、髪型や振る舞い、口調を意識するようになった

声変わりはしていたものの、さらに低く、大人っぽくしゃべる。僕とは言わない。私という。それまでも続けていた(親にやらされていた)習い事というのはある武道なのだけど、大人っぽい体格を目指して、絵の練習の合間に筋トレなどもするようにした。顔だけはどうにもならなかったので、イベントではサングラスを常に付けていた

もっとも、こんな微笑ましい努力など、当時のサークル関係者の皆様方にはバレバレで、「色気づいたガキがまた来たよwww でも可哀想から売ってやるかwww」と思われていたかもしれないが(後に自分がその立場になったから分かるのだ)、通報されることなく3年間を無事に乗り切った。そして余談ながら、こうした俺の偽装効果クラス女子にも及んだ。いや、クラスだけではなく部活や別学年の女子にもだった

そしていよいよ大学入試が迫ってきた。大学に入りさえすれば、ついにエロ同人作家としてデビューできる。それだけを信じて、嫌だった勉強も嫌々ながらにエロ絵の練習の合間に頑張った。おかげでまずまずの大学に入ることに成功した。親を納得させるために、ある程度の知名度があり、偏差値もまぁまぁの私立大学だ。実家から微妙距離で、状況次第では一人暮らしも許されるかも知れない。そんな大学だった

大学入学した俺は、せっかくなのでマンガ部とかアニメ部とかそういうのに入ろうと思っていた。中学高校と違って、ここでは昔の俺を知る人はほとんどいない(いちおう一人だけ同じ高校出身はいた)ので、外面を気にする必要はない。学友とオタク話に花を咲かせるというのも夢だったのだ。なんならいわゆるキモオタ的な振る舞いや言動を共有し実行したい。「デュフフ」とか「拙者は~ござるよ!」とか言い合いたい。そんな風にも思ってたのだ

そして俺はマンガ部の門を自分から叩いた。アニメ部(アニ研)も行ってみたのだが、そこはやはり批評とか分析が主で、絵を描く人はほとんどいなかったので、これは違うな、と感じてしまった。俺はアニメマンガは当然好きだが、分析とかはあまり興味がなかったのだ

エロ同人部というのがあればベストだったのだが、残念ながらそんなものがあるはずもなく、エロとは言えマンガを描こうとしている自分には、まだマンガ部の方が合っているのではないか。そう思って俺はマンガ部の門を叩いた

すみません。続きます。。。

なろう系が流行した理由って結局何なの

色んな分析批評を見掛けたけどやっぱりピンとこない

人生の全ての問題面白くないとやる気がないに収束する。

積極的に楽しもうとする姿勢を持つよう努めよう、面白いと感じられるもの主体的に探していこう、そうやってその楽しみを糧にちょっとずつでもやる気を出していこう。

なんて原因の分析に基づいた解決策はとっくの昔に分かりきってるけど、それを実行するやる気がない。

やる気なんてやってる内に出てくる、やりながら出すしかないんだよとか言われた所で、そのやり始めるやる気がない。

面白くないからやる気が出ないし、やる気が出ないか面白いことを探せないし、面白くないから生きている意味がない。

ちょっとした刹那的な楽しみはあるけど、こう人生の意義を感じられるような、人生の芯になってくるようなものを持ってない。そんな快楽区別意味があるのか、そもそも妥当区別かどうかだって分かりゃしない。

面白くもないなら死んだ方がマジだろ、とどうせ死ぬ根性もないしな、を無限に反復横跳びしてる気がする。身体を動かしてみたらまあ少しはスッキリするけど、それはそれとして頭にまとわりつく実存不安が解消されるかと言ったら全くそんな事はない。

人生の本当の面白みは家庭でも持って他人人生に食い込んでみたり、他人との関わりの中でしか見つからない。なんてありきたりなもの自分にも当てはまるかどうかなんて分からない。

まあ何やかんや言っても自分にもそれが当てはまる蓋然性は高いような気もするが、そういう生き方志向して実行に移すほどのやる気がない。

出来ないと諦めてかかって逃げてるだけだろ、なんてありきたりな言葉もあるけど、そういう出来そう出来なさそうとかの問題ではなくマジでやる気が出ない。

鬱病とか学習性無気力とか色々と言葉はあるけど、そんなのはただの言葉で何の解決にもならない。 あるあるネタにラベルを貼るだけだ。ロクな取扱説明書がついてない。

anond:20240513174540

いじめはいじめる側にだけ問題があって、いじめられる側には問題がないという風潮だが、この増田からハブられた理由垣間見える。

増田本人はそこはどう分析しているのだろう。

ハブられたという事実だけに着目して、その理由についてはまったく言及していない。

自分には一切非がないというスタンスなのだろうか。読む限り、人に好かれるような性格ではなさそうだが。

 

一つ病名が出てくるけど、ハブられたことで精神障害を患ったのであって、精神障害があったかハブられたわけじゃないよね?

2024-05-14

anond:20240514021736

好きにも嫌いにも理由がある。

そして増田は「興味ない」=「嫌い」としているが、私は興味ないものは好きでも嫌いでもなく、文字通り「興味がない」。そして興味がないものこそ理由がない。

世の中のあまねく色々なものに対して理由なく興味がなく、0点なのがデフォルト

そして

何らかの理由があって好きになり(加点)、

何らかの理由があって嫌いになる(減点)。

「好き」は不快ではない感情なので、そのままにしておいて問題ない。

なので好きな理由について分析言語化を行わない。

「人に勧めたいほど好き」とかの場合に初めて言語化する。

「嫌い」は不快感情なので、そのままだと心身に支障をきたす。

何が嫌なのかを分析して解き明かし、自分が「納得」していい落とし所に落とし込まないと、いつまでもぐるぐるうじうじと気にして(障って)しまう。

なのでほぼ必ず言語化する。

という訳で、好きも嫌いも理由があるが、口から出るのは嫌いな話ばっかり。

それとは別に期待値」というものがあって、基本的プラスの値なんだけど(0以下は「見ない」「読まない」「やらない」になるので)、それが大体低め設定の人は実際の感想期待値を超えやすいので「好きな理由」が出やすいし、大体高め設定の人は「嫌いな理由」が出やすいんじゃないかと思う。

で、期待値が高い(低い)からどうなんだというのはマジ人による(高望みなのか低すぎて失礼なのかおまいうなのか)ので、結論そいつ性格だろで終わり。

と私は考えます

ポスト構造主義マルクス主義は、構造主義マルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会経済分析を行う理論的枠組みです。このアプローチ代表する重要思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます

### ジャック・デリダ弟子

1. **スラヴォイ・ジジェク**

- ジジェクは、ラカン精神分析ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代イデオロギー政治批判的に分析しています。彼の思想ポスト構造主義マルクス主義の影響を強く受けています

2. **ジャックランシエール**

- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自政治哲学を展開し、平等民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義マルクス主義の融合を感じさせるものです。

3. **エルネストラクラウ**

- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーポピュリズム概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義批判的に再解釈しました。

4. **ガヤトリ・チャクラヴォルティスピヴァク**

- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています彼女研究ポスト構造主義マルクス主義に関連しています

これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義マルクス主義対話を通じて現代社会の諸問題分析しています

anond:20240514023036

だって好きの理由をわざわざ分析して言語化する必要なんてなくない?

いやあるだろ。俺は自分が好きを言語化して

他人に語りたいオタクだよ。

anond:20240514023036

好き/嫌いの理由をわざわざ分析して言語化する「必要」はないけど、そこに意義や面白みを見つけることは可能

それがつまり批評

好き嫌いの延長線上にはない、別次元の何か」のフリをしてお高くとまった批評面白くもなんともない

漱石的な、ポリコレ的な、国語

 ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。

 この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。

 夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないもの馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか

 まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。

 

精神的な向上心、あるいは向上心精神的にないって何だ?

 「精神的に向上心のないもの馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。

 ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。

 でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?

 その答を見るために、この言葉が使われた文脈を見てみよう。

 この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。

 最初の場面にはただこう書かれている。

Kは昨日自分の方からしかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。

 つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。

 次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。

Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。

 ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。

 もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ

 最後に、だめ押しで「精神的に」を英訳してみよう。

 spiritually

 そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。

 普通向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。

 

政治的な正しさと、環境的な正しさ

 同じ切り口で、「政治的に正しい」についても分析してみよう。

 つまり、「政治的」以外の正しさには何があるのか?

 これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。

 environmentally correct

 環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?

 普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。

 それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。

 

 結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。

 

オレ的オマエ的な解釈を持ち込むな

 「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語意味内容をそのまま適用して、その名詞事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。

 しかしここに何故、もっと皮肉ニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。

 君たち的にはどう思う?

 

 ……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズ言葉に使われているからだよね。

 でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般形容詞を作る場合特に外国語を訳して作られた言葉場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。

 こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧意味ではない。

 「的な」ほど、便利だけど危険表現もないわけだ。

 

 増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。

 

anond:20240514021736

理由って結局は後付けの言語化でしょ?

まず最初感覚的なふわっとした「好き」か「嫌い」があって、そこから必要に応じて理由を考えるわけじゃん。

俺は「好きに理由は無い/嫌いな理由はある」派だけど、なんでそうなるかっえいうと言語化必要性ってところが大きい。

だって好きの理由をわざわざ分析して言語化する必要なんてなくない?

逆に嫌いな理由ちゃんと考えて言語化する。

俺が嫌いなもの好きな人もいるだろうから、そこを頭ごなしに否定したくないから。マナーみたいなもんだね。

2024-05-13

なんで老後2000万が4000万になんだよ!教えはどうなってんだ教えは!くそったれ!

「老後2000万円問題」もはや「4000万円」と専門家分析 円安物価高が直撃【もっと知りたい!】【グッド!モーニング】(2024年5月13日)

https://www.youtube.com/watch?v=EsN7DPvr6Kc

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