はてなキーワード: 犠牲とは
だって社会保障は国民の要望に従って今後じゃんじゃん削減するんだぜ?
お前らよく平気だよな
じわじわ真綿で首を締めるように金が減って苦しんで腹空かせながら高熱や体調不良になって死ぬんだぜ?
老人はもうこれから大量虐殺レベルで毎年苦しみぬいて死んでいく
それでもお前らは黙って会社行って価値が毎分減る円給与をもらうために時間と健康を犠牲にし続ける
お前らってバカじゃね?
女性が下方婚しないという話がまた盛り上がっていたけど、そもそも今の結婚制度自体が女性に不利すぎるので、下方婚も流行らないんだろうなと思った。
結婚すると女性は現実としてその身体も精神も供物として捧げないといけない。男は家事の一切を背負うつもりがないので女性がそれを背負わなければならず、背負ったとしたらキャリアなんて望むべくもないし、出産したらそれこそ趣味の時間、プライベートの時間は失われてしまう。それも数十年のスパンでそうなる。自分自身の人生そのものを犠牲にしないといけない。男を子供を永遠にお世話する係として人生が終わる。
男が結婚して失うものがなさすぎる。家事育児をやってくれて、セックスの道具が手に入るくらいにしか今だに思っていない。女性のために何一つ捨てるつもりがないと言い換えたほうがいいか。女性が失うものを想像もしないしそれを背負うことについても無頓着な態度を一貫して貫いてる。
男は結婚の非対称性に気づいてないから女性が下方婚しないと平然と文句を言える。まずは女性と同じものを失ってみろとしか言えない。
言いたいことはわかるし同意するところもあるけど、そんな理想論を言われてもなって話。
「論理より感情で動く」というけど、それは自分じゃなくて社会が感情で動くんだから仕方ない。
(間違っていたとしても)周りの常識に逆らった夫婦は最も損をしやすく、現実的にはその行動のコスパが悪いっていう話なんだよな。
常識への反論がいくら正論でも、SNSで大量の批判コメントが来ることが今の日本社会を物語っている。
あなただって「プーチンは正しい。ガーシーは正しい。なぜなら~」なんて言い出す人がいたら論理も考えず反射的に感情で反論するでしょ?
誰だって、論理をしっかり考えて反論できるのは自分が当事者のことだけなのよ(経営者は育休の当事者じゃないから関心がない)。
結果的に、(大企業とか制度の導入が進んでないところで)前例のない常識破りをすると色々不利益を与えられて、
夫婦で楽になるためにしたはずの行動が、結果的にもっと大変な目に巻き込まれるということだ。
社員は経営者次第で干すことも転勤させることもどうにでもされてしまう弱い立場だから、あなたが思ってるほど男性に選択権なんかない。
そういえば、男女平等のためにスカートを男子がはいてもいいって校則ができた学校があったらしいけど、
校則があるからと(性同一性障害でもない男子が)スカートをはいていったときに学校でどうみられるのかを考えればいいっていう例を唐突に思いついた。
もし自分が楽したいだけの身勝手な考えなら、多分思い通りに楽になることは無いと思うからやめた方がいいと思うけど、
どれだけ大変な目に遭っても常識を乗り越える道を夫婦で選ぶ覚悟があるなら「頑張ってね」と言っておきたい。
そういう社会の犠牲になって頑張って変えようとする人が増えないと社会は変わらないので、矢面に立ってくれると助かる人はいるだろう。
女性が働いて男性が育児なら、女性は差別で下に見られやすい「女性」という属性で男社会で戦ってキャリアを上げていかないといけないし、
育児する男性もママ友コミュニティにうまくなじんで、自分の家庭がコミュニティから追い出されないようにしないといけない。
まぁ、今の世代が経営者になるころにはこういうことは放っておいてもなくなってると思うけどね。
「できるだけ楽に男女の負担を均等に」が目的だとすると、女性としては理解のある企業に勤めている人を探すのが最適解になるのかな。
出っ歯かつ下顎がちゃ歯の成人です。
真剣に調べてお金貯めてカウンセリングも行って、最終的に矯正はしないと決めた。
観測範囲の偏りかもだけど、最近歯列矯正はマナーみたいな書き込みを見かける。
歯並び悪いと印象悪いのになんで矯正しないの?とか簡単に言わないでほしい。
高額なのは前提だけど、生まれついた骨動かして再固定するんだからノーリスクなわけない。
大人の矯正費用の目安は100万円~。そんなに歯並び悪くないとかならもっと安いだろうけど、悪めなら最低これくらいかかる。100万だよ。簡単に出せる額じゃないよ。お金ないし、幼少期に保護者に金出してもらえなかったからって、マナーがなってないってことになるのか?あんまりだ。
出っ歯は抜歯するしかない。引っ込めるスペースがないんだから抜くしかない。場合によるけどがちゃ歯もそう。
軽度なら歯の間を削る方法もあるけど、印象悪いレベルで並びが悪いなら抜歯しかない。なお歯間を削るのだってエナメル質を多少犠牲にする。
本来抜歯は歯科治療における最終手段であり、完全に不可逆の措置だ。矯正では虫歯でもない使える歯を2~4本抜く。
生涯にかかわる決断だ。「永久歯より印象の向上を選ぶのがマナー」なんて健全じゃない。
矯正で歯の根が短くなることがある。歯根吸収という。誰でも起きうるが、歯の移動が大きいほど負担がかかると言われている。歯根吸収の程度は個人差も大きく、極端な問題になる可能性は低いが、歯周病や、歯の寿命を気にしている人にとっては全く軽視できない。
矯正期間はおおむね1~2年。その後の保定にも2〜3年程度。保定期間が終わっても後戻りを防ぐため、就寝時などは保定器具をつけるよう勧められる。
矯正期間は痛みもある。抜歯の場合はワイヤーになるが虫歯になりやすいので、メンテナンスの労力も高い。矯正期間も保定期間もクリニックに通う必要がある。3年以上かかる身体改造を気軽に勧めるものじゃない。
ただ、見た目以外のメリットは、永久歯抜いて歯根吸収のリスクもあって、矯正終わるまで口内ケアが大変なことを踏まえる必要があると思う。
私も矯正専門認定医から、歯の健康だけを考えるなら、矯正はしないで口内ケアを頑張る方がよいと言われた。
もちろんケースバイケースだと思う。
自覚してるしめちゃくちゃコンプレックスだよ。でもこれが私の歯なんだよ。
子どものときに矯正してくれなかったとかで親を恨みたくないよ。一生懸命折り合って生きてるよ。
うちの子は遺伝的父親(以下、Aとしよう)を全く覚えておらず、うちの妻もAとの接触は十数年間一度もなく、Aの両親から支払われていた養育費は再婚時に止めた。
なので我が家にとっては「Aなんて男は存在しない」っていう体で今まで平和に暮らしてる。
共同親権は既に離婚済みの夫婦でも適用できるらしいので、Aがそれを求めて申し立てを行うことも不可能ではなくなるだろう。
つまり、共同親権は我が家にとって特にメリットはなく、ほぼ心配ないとはいえリスクはある。
それでも俺は、共同親権が導入されることは正しいと考えてる。
自分の家庭の都合のために、「罪のない、親権を失った親」を犠牲にするのは間違っているからだ。
共同親権を推進する立場の運動家にはDV加害者が多いのかも知れない。
ただそいつらの罪は、「特にDVなどの非がないのに、配偶者と不仲になっただけで親権を失った親」には関係ないことだ。
彼らの中に「親権者として認められたい」ニーズがあるなら、それが仮に圧倒的少数派だったとしても、切り捨てることはできない。
共同親権が解禁されることで生じる新たな問題は、個別に対処していくしかない。DV加害者を見極めて親権を与えない仕組み、危険が生じたときに警察や司法が適切に介入する仕組みは必要だ。
「その仕組みを完璧に構築するのは難しいから、全ての別居親を潜在的DV加害者としてまとめて遮断しよう」という手法は許されない。
これは俺自身が、「シンママと結婚しようとする男なんて小児性愛者なんじゃないか」という偏見に苦しんだ経験に基づくものだ。
(リアルな知人にそんなことを言われたわけではない。ただネットでそれを公言するやつはとてつもなく多い)
シンママの交際相手が子供を虐待するニュースが出るたびに、「公的な審査を受けて認められなければシンママと結婚できないようにしろ」と主張するやつらが現れる。シンママとの交際を望む時点で、潜在的犯罪者として扱えという主張だ。
虐待は実父母によっても大量に行われているのに、親になるすべての人を疑うのではなく、「子供と血縁がないやつだけ疑え」というのだ。
自分と違う属性のやつが犯罪を犯したときだけ、その犯罪と属性を紐付ける。これが差別でなくてなんだというのだ。
そんなことを言うなら、シンママ自身による虐待だって発生率は高い。一度壊れた家庭は葛藤レベルが高く、人間関係の構築に失敗する例が多くなるのは仕方ないことで、それは再婚しようと再婚しなかろうと同じことだ。
この偏見に苦しんだことがあるから、俺は「すべての別居親をDV加害者と疑う」ことに反対する。
そうなれば自分のスタンスは「共同親権には賛成、だが適切な制度の整備と運用を求める」しかない。
それが自分にとって不利な方向への変化だとしても。
ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。
この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。
夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか。
まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。
ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿だ馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。
でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?
この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。
最初の場面にはただこう書かれている。
つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。
次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。
もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ。
spiritually
そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。
普通の向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。
これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。
environmentally correct
環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?
普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境に配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。
それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスをもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。
結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現の問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。
「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語の名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語の意味内容をそのまま適用して、その名詞の事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。
しかしここに何故、もっと皮肉なニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。
君たち的にはどう思う?
……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズの言葉に使われているからだよね。
でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般の形容詞を作る場合、特に外国語を訳して作られた言葉の場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数の意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。
こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来の意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉な意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧な意味ではない。
増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。
(紫龍の説明)
キズつき飢えて
今にも死にそうな旅人がいた
そこへ熊とキツネとウサギがでてきてその旅人をたすけようとした
熊はその力を生かし
魚や肉をもってきてあたえた
キツネは知恵を生かし
木の実や果実とってきてあたえた
なにもとれず旅人にあたえることができなかった
紫龍「そんなウサギはその
(紫龍の説明)
そうだ
みずから火の中へとびこみ
この劇中で紹介される
なおかつ自らの命を犠牲にしても、
思想的背景となっているので
仏説として有難がるのは間違いなのである
(ブコメ)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240510000324
(二階)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240510000324
電車止めたらいいと思うよ。なんで止めないの?触られたり触られたのを見るたびに車内車外問わず緊急ボタンを押すように鉄道会社が勧めるべき。ストライキと同じだよ
片っ端から通報して電車止めるのは良いアイデアだと思います。被害者が我慢してコスト負担する必要なんか一つも無いです。乗り合わせていれば協力します。
コストで動く人たちを動かすために電車止めまくった方がいいと思ってる。他人を犠牲にした幸せって突き詰めるとただの奴隷制度なのよ
世の女性たちが「よし分かったうちらで何とかするわ」ってなって片っ端から通報したら、電車止まりまくるけどそれはいいの? 女性が我慢することで既にかかってるはずのコストを見えなくしてるのが現状では。
なんか「電車止めたらいい」とか言いだす奴が出てきたが、自分に関わりのない出来事でホイホイ電車止められるなんて女でも女でなくてもイヤだろう。順法闘争やスト権ストの行き着く先は暴動だった。通勤電車に乗るのは主に同じ労働者だったはずだが、それで労働者同士の理解を得られたかといえばむしろ逆効果だった。
というか共同体のために自分が何かを負担したりするのを嫌うのはむしろ女の方だろう。少し前だが資生堂ショックというのがあった。あれは既婚子持ちの女性社員への独身女性によるフォローに対して反発が起きた構図だが、出産と育児という企業あるいは社会にとって「良い(正しい)こと」を実現するための負担を独身女性が嫌った結果、うまくいかなかったという実例だ。同じ女同士であっても「なんで私がそんなことまで負担しなければいけないのか」という形での対立は生じうるということだ。最近だと「子持ち様」という言葉にそういう反発がよく表れている。
好き嫌いや愛憎は、個人の価値観を反映する。価値観は快・不快と損得(利益と損失)を二軸とするマトリクス図で表せる。マトリクス図には「快く、利益を得る」「不快で、損失を受ける」「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」という四つの区分ができる。このうち「快く、利益になる」が好き、「不快で、損失を受ける」が嫌いに分類される。ちなみに快・不快は生まれつきの性格によって決まり、損得は目的意識によって決まる。すなわち価値観は先天的な性格と後天的な人生の目的の二つが揃って初めて確かなものとなる。
快・不快と損得の正負が一致せず、好き嫌いに分類することのできない矛盾した感情がある。「快いが、損失を受ける」「不快だが、利益を得る」の2つである。この2つの感情は、個人の内面では明確に区別されない、ほぼ同一のものである。この感情を元にした行動が対象の利益になる場合、その感情は愛と呼ばれ、行動が対象に損害を与える場合は憎しみと呼ばれる。
すなわち愛憎は自己と他者(あるいは行動主体と対象)の快・不快や損得が対立する場合のみ生じる。対象の快や利益が自らの不快や損失となる場合、あるいはその逆の場合に、どちらを選んでどちらを犠牲にするかを選択した場合にのみ、愛や憎しみは生じる。
また、一人の人間の内面にも対立する快・不快や損得が存在するため、しばしば自己への愛と自己への憎しみが同時発生する。いわゆるトレードオフである。この対立は、意識して調整する必要がある。
例えば食事について、食べ過ぎて太ることに悩む人がいるとする。食べることが快いのは先天的なことなので簡単には変化しない。太ることにより利益を得ていればそれは「食べることが好き」であり、問題は生じない。しかし太ることにより損失を受けると感じる場合は、自己への愛と自己への憎しみが同時に生じる状態となる。この時、調整の方針は3つある。一つは、愛憎を逆さまにすること、すなわち食べないという不快を選び、太るという損失を受けない状態にすることである。二つ目は、快を得たまま利益を得られる方法を考えることである。三つ目は、食べることの快さそのものを否定するものであるが、これは生まれつきの性格を否定するため実現は難しい。そして現実には、一つ目の方針として食事制限や拒食、二つ目の方針として有酸素運動または過食嘔吐を選ぶ人がいる。そして愛と憎しみを調整せず、好きなだけ食べて自分の体型を嫌悪する人もいる。
愛憎の調整は難しいが、放置はやがて破滅を招く。どの方針を取ってもうまく調整できない場合は、損得の軸を見直す必要がある。すなわち人生の目的を見直し、場合によっては変更する必要が出てくる。しかし人生の目的を変え、損得の軸を変更することは、既存の価値観全体が変わることであり、好き嫌いの変化が生じることもある。一人の人間にとって多大なストレスであるため、このような転換はそれを上回るストレスに遭遇しない限りは滅多に行われない。
最近は依存先を増やすといって、損得の軸を増やして複数の価値観を行き来する方法が紹介されている。価値観の切り替えには、アスリートが用いるルーティンの手法が参考になる。