はてなキーワード: 犠牲とは
画面にやたらと出てくるウザい広告にウンザしないやつは少ない。
ネットを見ていれば、どこに行っても追いかけてくるあのバナー広告、うっとうしい。
第一に、Web広告は「ユーザーに価値を提供するべき」だ。見たことある?価値を提供する広告なんて。
広告ってのは、基本的にユーザーにとっては邪魔者。だからこそ、少しでも役に立つ情報を提供しなきゃならない、本当はね。でも現実は、欲しくもないものを無理やり売りつけるような広告ばかり。誰がそんなの見たいと思うのか。
美しく、さりげなく、邪魔にならないように配置することが大切なはずだ。
現実は、ページをスクロールするたびに目に飛び込んでくるド派手なバナー。特に動くな!追いかけてくるな。
これは、嫌がらせとしか言いようがない。少しはユーザーの気持ちを考えたデザインにしろよ。
広告がないと無料でコンテンツを提供できないんだって話があるのは分かる。広告収入は重要だ。
だが、そのためにユーザー体験を犠牲にしていいわけじゃない。広告がユーザーの邪魔をするんじゃなくて、自然に溶け込むように設計する。それができないなら、広告の在り方そのものを見直す必要がある。
そして、ターゲティングの問題。適切なユーザーに適切な広告を見せるのが理想だが、現実は?
一度でも関連するキーワードを検索したら、その後何度も同じ広告が出てくる。しかも、買った後も追いかけてくる。お前、俺がもう買ったの忘れたのか?何個買えば満足なんだ?こんな無駄な追跡広告、誰も望んでない。
でも過剰な追跡はプライバシー侵害だし、ユーザーを不快にさせるだけだ。もっとユーザーの行動を尊重した、適度なパーソナライズが必要だろう。
結局のところ、Web広告は「ユーザーのために存在するべき」、これに尽きる。ユーザーの体験を損なうことなく、価値を提供し、自然に溶け込むような広告。それが本来の在り方だ。広告主もプラットフォームも、そのことを忘れかけてる。ユーザーの信頼を得るためには、まずユーザーの視点に立つことが大切だってことを。
話を聞いていると、ひどい親、意味不明な兄弟、非常識な祖父母など家族から理不尽な負担を負わされている成人がいるが、皆、なぜか実家から離れようとしない。
普通に働いていて、自分一人が食べていく収入は十分得られる能力はあるにも関わらずだ。
他人の家族の問題に深入りしようとは思わないが、あまりにも酷い家族の愚痴をずっと聞かされて、いよいよ「実家と距離をとってみたら?」とか「そこまで自分を犠牲にしなきゃいけない義務は無いよ」とか言ってみると、
さっきまで饒舌に話していた相手が途端にポカンとして、なんだか要領を得ない返事しかしなくなる。
何度も言うが彼ら彼女らは客観的な能力から言えば実家を出て一人で暮らすだけの力はあるはずなのだ。
そりゃ家族と離れるのに抵抗があるのはわかるが、明らかに加害、家庭内でなければ明確に犯罪とされるような被害を受けながらもその環境に留まり続ける意味が分からなかった。
これまでの人生でそういう相手に二度三度出会うことがあって、不思議だったが、最近思うところがあり分かってきた気がする。
つまり、「子どもを独り立ちさせる」ということは、家族という集団の最終目標の一つであり、家族運営の成功の結果でしかないということだ。
十分に機能していない家族がこの「最終目標」を達成するのは、そうでない家族より難しいのは自明だ。
何らかの第三者からの強い介入があった、などの一部の例外パターンを除いて、子どもを能力的にも精神的にも独り立ちさせるのは困難なことなのだろう。
「人として接する」というのは普通のことではありません。トップコメの言うことは、正しいが、あなたには本当に難しいことです。
学校のクラスがあって、あなたが「人として接してきてくれたなぁ」という人はどれくらいいましたか?おそらくほとんどいませんね。学生時代は特に、自分に利益(面白いとか発言力あるとか)がない人には多くの人は冷たいものです。
不自由ない人からみた「人として接する」、それはその人たちが他の人達に普通に受け入れられ、普通に喧嘩し、普通に仲直りし、時には仲違いしたままになる、そんな「普通」のやりとりなんです。そりゃあ「普通にすればいいよ」といいます。その人たちは悪くない。だってその人たちには普通なんだもの。「変にセクハラみたいなことを【わざと】せずに、普通にすればいいんだよ」と思ってるんです。
あなたは違う。これまであなたに「人として接してきた人」なんていうのは、本当に少ない。されてない事はわからない。教わってもいないし。あいつ等が楽しそうに喋ってるのはたしかによくある光景だけど、それはこちらにはやり方は分からない。やってないから。やってないし、じーっとなんて見ないから。じーっと見てたら、「気持ち悪い、あいつは人に人として接しないやつ」と思われる。少なくともこちらは思われると思う。だって経験してきたから、そういうことを。分かるから、プロだから(笑)まあもっとも、見てるだけでできるなら誰だって大リーガーになれるわけで。
あなたにとって、人に対して一般的に言う「人として接する」というのは、とてもハードルの高いことなんです。だから、一つ一つ登っていかないといけない。全て網羅的に言うことはできないけど、大事だと思うことから順に書いていきます。
これは当然だと思うだろうし、「あなたは何考えてるか分からない」とさえ言われたこともあるでしょう。こちらの考えがわかってもらえずヤキモキしたり不本意に責任をふっかけられたことも一度や二度ではないはずです。
でもね、同時に、あなたはあなたの本心が見透かされてると思うこともあるんじゃないかと思うんです。下心が見透かされてるのではないかとかね。
あのね、実際のところ相手には分かりませんから。相手は単に、あなたがキモいからそう思うだけです。仮に本当にあなたに下心があっても、下心があると思われるのは、あなたがキモいからです。(てかそもそも下心があることが悪いことじゃないし。そこがズレてんだよなぁアドバイザー(笑)さんは。)カップルになる連中は、下心があって、下心を許容して、それでカップルになってるだけですから。「下心をなくせ」というアドバイスは下の下、何も見えてない。下心なくしてあなたが行く先は、ぬいぐるみですから。
下心はあってもいいのです。相手はあなたな下心なんて本当の意味では見透かせません。問題は「見た目と話し方」なんです。そして幸い、どちらもなんとかなります。
2. 見た目を整える
以下をやってください。
・服を全部捨てる
・季節ごとに服を買う(凄く凄く頑張って、店員を捕まえて、全身をコーデしてもらってください。ここ、残念ながら頑張りどころです)
・月ごとに美容院に行く(ここは予約さえ取れれば、あとは「いい感じにしてください」でなんとかなります)
3. 話し方を整える
オンラインでいいので、人と話すトレーニングをしてください。教えてくれる環境で。
「話し方講座」と調べると出てきます。
これらをしてやっとあなたに「人として人に接する権利」が与えられます。今はあなたには権利がありません。不公平はしょうがない。戦争のない国に産まれただけありがたいと思うしかない。足があるとか目が見えるとか、ありがたいと思うことはたくさんあるのでそう思って自分をなんとか誤魔化してください。権利を得るまでの辛抱です。もしあなたが権利もちになったら、これはもう素晴らしいことであり、最初から持ってる有象無象とあなたは違うということになります。逆に権利を持つところまで行けなかったら、あなたはいつまでもそいつ等以下。誰がなんと言おうと、見えない世間の目はそうあなたを判断します。もちろん奴らは「そんなことはない」というけれど、クマが出てきて誰を犠牲にするかといえば、あなたですよ。なぜならキモいから。理屈で考えりゃ、これまでいい思いをしてきた連中が食われるべきなんですよ。それが公平ってもんだ。でもそうしない。なぜか?あなたを下に見てるんですよ、結局。そんで逃げ切ったところで「良かったね、あの人可哀想だったね」とか言って女が泣いて、男が慰めて、まあその夜にでもセックスするんじゃないですか。こんな不条理あるか?と。あるんですね。まあ不条理がない方がおかしいんですよ、別にだれかが上手くバランス取るみたいなゲームみたいなことはないわけで。
人として人に接するには、まず権利が必要。で、その権利を得るためには、人は不要な努力をする必要がある。まあ見た目は他の人も努力してるかもしれない、そこはあなたのこれまでの努力不足とはみられるかもしれない。でも話し方は違いますね、割と持ってるものってところかなと。
あとは、権利を持ったあとに濫用しないことは注意ですね。それによって、あなたの行動が本心に沿ってしまう。その時は、キモさとは異なり、本当に本心が表に出てしまい見えてしまうから。そこだけは気を付けてください。
俺の場合、ユニクロのTシャツを3枚重ねして着てもまだポッチリとした突起物がポコっと出ててる。
この頑固なポッチリを完全に無くすための下着というのは確かに存在すると思う。
ただどう考えても、そのためには何らかの快適性が犠牲になっているはずだ。
市販されているポッチリ対策が売り物の下着を買ってみたりしているが、いまだ「これだ!」というものにたどり着けない。
これなら、もういっそラインが見えてもいいからブラをつけたほうがいいんじゃないか?と思えるようなもののほうが多い。
結局はもう諦めるしかないのだろうか?
俺の頑固なポッチリくん。
マッマに犠牲になってもらうやで
正しいんじゃなく外面だけを気にしてるだけ。身内の扱いをおざなりにして外の評価を上げているだけ。電車とか街中のエピソードばっかで家庭内の話がまったくねーじゃん。親を旅行に連れていったとか、親にプレゼント上げるとかさ。普通あるでしょ
典型的な内弁慶。周りからどう見られているかがものすごく大事だから、疲れ切ってる彼女を立たせてもなんとも思わないし、彼女が寂しい思いをしていても何も感じないだけ。
彼氏にとって身内の評価なんて上げても、外的評価につながらない。価値が低い。
イベントで彼女と楽しい時間を過ごして彼女から好かれるよりも、店の中で泣きわめいて注目を集めてるガキに整理券を渡して注目を集めたほうがよりたくさんの人から良い人だと思われるじゃん。でもお前なんかに気を使って集められる好感度はお前ひとり。それって俺にとってなんか得になんの?
彼女に対して善性を要求してるのではなく、彼氏の外的評価を上げるためにお前も我慢しろ。さらに言えば俺の評価がもっと上がるようにお前も自分を犠牲にして、他人に奉仕しろ、でも俺がお前に尽くすことにはリソース避けられないからって言ってるだけ。
そう言う男は人から見られてない空間だと人に対して冷酷。人から評価されることが全てで他人に普段身を削って尽くしている分、家庭とか身内に対してはすごくセコくなる。外面が良い男ほど過程では経済DVしたり暴力振るうってのはよくある話。
これな!
なんか元増田を読んだ時に感じたモヤモヤ感をうまく言語化してくれた感じがする。
困っている人を放っておけないというのは美徳だとは思うんだが、そのために身近な人が当然のように犠牲を強いられるのは長続きしないと思うんだな。
元増田はいいことをしたんだと思うけど、彼女からしてみればどちらも増田の我儘に付き合わされていただけ。
元増田が一人ならおばあちゃんが心配だからと15分待つのは構わないと思う。でも、彼女は15分時間を無駄にしただけかもしれない。
そして、その一つ一つの積み重ねが「自分を大事にしてくれない」って感じさせる理由なんだろうな。
少なくとも、デート中に人助けをするのは彼女との時間は大事にしてないからな。
...と書きながら「となりのチカラ」というドラマで灯が感じたのはそういうことなんだろうなって思った。灯はかなり許容範囲が広い人だったけれど、そんな人でも切れちゃった。
あれは厳しい税を課して自分たちを苦しめている領主に貧しさを馬鹿にされる農民の気持ちなんだよ
コンサートやっても客が来ないと成立しないし
絵を飾っても見る人がいないと何にも意味がない
消費者が多いとニッチな商売も成立するから文化に広がりも厚みも出るよね
じゃあ地方は?
若者を吸い取られ続けて市場は小さくなるし文化も発展しないし人が減ってどんどん衰退してんだよ
その状況で東京には地方と違って文化資本があるとか言われたらムカつくだろ
ムカつくんだよ
別に地方の暮らしに不満を持ってるわけでも東京に憧れたり嫉妬したりしてるわけでもないんだよ
なんなら、東京の方が仕事多いから、地方でそれなりの収入が得られる仕事探すより東京で仕事探す方が簡単なんだ
それでも東京に住むのなんて嫌だから地方で仕事見つけて地方で面白おかしく暮らしてんだよ
でもムカつくんだ
地方から吸い上げた若者を養分にして築き上げた文化資本とやらで地方を殴りにくるから
東京の文化資本がすごいことは認めるから、地方馬鹿にすんのはやめろ
ムカつくから
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/002615620030226004.htm
次に、東京集中は自然に起こっているんだ、これは経済の流れであると言う人がおりますが、これは全く間違いでございます。
戦後、昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。
そのやり方というのは、まず、産業、経済の中枢管理機能を全部東京に移す。
そのために、全国的な産業団体の事務局は東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。
だから、もともと大阪にありました繊維業界の団体も、強引に、あの日米繊維交渉のときに無理やり東京に移しました。
十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。
団体が東京に移りますと、団体の長になるような大企業の社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから、地方に本社を置いていられない。
二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本だけが東京一極集中いたしました。
例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております。
今これがまた問題になっておりますけれども、東京にしか日販とかトーハンとかいう元売会社はございません。
したがって、関西で出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。
大阪で印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております。
これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌の場合は締め切りが一日早くなる。
これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。
これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府、官僚の方は頑固に譲りません。
香川県や長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。
また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局は東京にしか許されていない。
そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京都スルーの情報しか流れないようになっています。
だから、特定目的の施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますとかいうのは、補助金の関係で東京にしかつくれないようになっています。
これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。
あるいはプロレス団体も、東北地方にみちのくプロレス、大阪に大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。
さらに、最近は、BS放送七局を全部東京にしか許可しないという制度になっています。
こういった官僚の強引な、コストを無視した集中制度によって東京に集まっている、このことも重要なことだと思っております。
https://www5.cao.go.jp/99/e/kgiji/19990531chiiki.html
ここにも記述してありますが、日本の地域政策は、昭和初め、昭和16年ごろの決定がございまして、日本全体を有機型地域構造にするというような決定がございました。
有機型というのは、人間の体のようにするということです。人間の体であれば頭は1つだということで、全国の頭脳機能を1つに集める。それは首都東京でなければいけない。
頭脳機能というのは、産業・経済の中枢管理機能と、情報発信機能と、文化創造活動である、こう定めました。
そして、各地に地方中核都市をつくりまして、北海道なら札幌、東北6県なら仙台、中国なら広島とする。
ここは地方限りの頭脳機能をもつ。各県限りのものは、県庁所在地に置くという、段階的なヒエラルキーをつくりました。
そして、すべての文化創造活動、情報発信機能、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めることにする。その手法として様々なことがとられました。
例えば、産業・経済の中枢管理機能を東京に集めるためには、各産業別、職業別に全国団体を作り、この全国団体の本部事務局は東京都に置かせるという政策をとりました。
私が通産省に入りました1960年代は、まさにこの政策を継続し、強化する真っ最中でございました。
この方針に反して地方に、東京以外に、全国団体の本部があると、一日も早く東京へ来なければいけない。
その対象になりましたのが、大阪にありました繊維業界、名古屋にありました陶磁器業界の2つでございまして、繊維業界については再三圧力をかけておりましたけれども、なかなか成功しませんでした。
ところが、うまい具合に68年に、あの日米繊維交渉、これを折衝するにあたって、まずアメリカと折衝する前の条件は、紡績協会が、各種団体が東京に本部を移すことだ、こういう話をいたしました。
当時の局長室に、「敵は米国にあらず、大阪なり」という有名な看板を掲げられて、新聞にも出たことがあります。
いろいろ折衝したのですが、なかなか職員も大勢おられてそう簡単にいきませんで、日本繊維工業連合会という屋上屋の団体をつくりました。
銀行協会などもずっと東京にあったのですが、銀行協会長は東京にある銀行からしか出さないということがずっと続いて、三和と住友はダメということになっておりました。
それが、70何年でしたか、本社機能を東京に移すことを条件に、まず住友銀行、次いで三和銀行が会長銀行になりました。
「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」
そもそも、誰かがそう主張すること自体は自由です。その主張を議論の俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権を保障するために1人の人権を犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活を犠牲にすることによる解決は、少数意見を尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見を封殺することは非民主的な行いです。
従って、
という態度は望ましくありません。意見が荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性を奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義を標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢が必要です。もちろん、相手がマサカリで武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権と民主主義を尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手を人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論を封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者」男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。
差別主義とは何か。それは、社会に、本来は存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合でしかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナーを提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行・ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行・ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるものは実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇を引き起こします。「文化・伝統」「宗教・信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来は信仰の守り手として受益者であるはずの行為の宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。
ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考が差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。
同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります。一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的な利益や権力を得る、そんな行いだからです。人権も民主主義も、この社会の構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考法から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。
私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分が民主的で人権を尊重する人間であると自負していたとしても、私たちは不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか、再確認する必要があるでしょう。人権や民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用の最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。