はてなキーワード: 意味とは
罪を犯したことのない一般男性として言うが、満員電車で密着していると犯罪者でなくてもどうしても性欲が刺激されるので、満員電車を解消できればふつうの街中程度に改善されるはず。
バイクやスポーツカーに全く興味のない平凡な一般人である私からすると、両方とも真っ赤な色で揃えてる時点で「(悪い意味で)普通じゃない」感じがしちゃってカッコいいとは思えないや。
でもスポーツカー好きの人たちのあいだではカッコいいと見なされるんだろうなぁというのは理解できなくもない。
うまい例えが見つからないけど、ファヲタの人が日常生活で奇抜なモード系の服を着てるみたいな感じ。
ファヲタのあいだではイケてると見做されるんだろうけど、平凡な一般人から見ると変わってる人というか個性的な人に見えてしまうし、カッコよくも見えない。
モノを大切にするって元のまま維持するって意味じゃないし
古着を切って別のものに作り変えてリメイクもモノを大切にする行為でしょ
大切にしたくても耐久性が無さ過ぎて無理
(元増田と思われるトラバが消えちゃったので、元増田に近い意見と思われるこのトラバにも返信しておきます)
だよね、そこだよね。
「森の中でわざわざ女の前に現れる男と、森の中でわざわざ女の前に現れる熊、で比較しないと意味ないでしょ」が、たぶん最大の前提条件の食い違いだと思う。
そちら側に寄り添ってより明確にするなら、
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れる男性との遭遇経験」と
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れるクマとの遭遇経験」とを比べるべきかもしれない。
この場合、山菜シーズンみたいなのを排除して、本当に人里離れた遭遇経験となると、本当に事件性のある少数事例しか残らない気もするけど。まあ方向性としてはそういう話なんだよね。
とは言え、クマのほうがマシでしょ派の多くは「完全にランダムにピックアップ」に近い条件を想定してると思うよ。そこ明確にするだけで、だいぶ違うと思う。
これは大元のツイート(?)の意図とは別に、クマ派がどう解釈してるかっていう話なので、クマ派が大元ツイートの意図を正しく把握してないのがけしからん、みたいな議論はまた別の問題としてほしい。
んで、「森の中でわざわざ現れる」の場合は、男性である私でさえ、どっちもめちゃくちゃ恐いよ。論点はズレちゃうけど、男性である私の前にわざわざ現れる、しかも人里離れた森でってことは、強盗とか怨恨(身に覚えはないけど!)とかで殺される可能性、十分高いもんね。クマなら(男だからこそなおのこと?)死を免れてどうにか追い払える・やり過ごせる可能性もあるし。
だよね、そこだよね。
別トラバに書かれてた「森の中でわざわざ女の前に現れる男と、森の中でわざわざ女の前に現れる熊、で比較しないと意味ないでしょ」が、たぶん最大の前提条件の食い違いだと思う。
そちら側に寄り添ってより明確にするなら、
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れる男性との遭遇経験」と
「過去の日本国内で実際に起きた女性1万人分の 、山の中の獣道での、森の中でわざわざ女の前に現れるクマとの遭遇経験」とを比べるべきかもしれない。
この場合、山菜シーズンみたいなのを排除して、本当に人里離れた遭遇経験となると、本当に事件性のある少数事例しか残らない気もするけど。まあ方向性としてはそういう話なんだよね。
とは言え、クマのほうがマシでしょ派の多くは「完全にランダムにピックアップ」に近い条件を想定してると思うよ。そこ明確にするだけで、だいぶ違うと思う。
これは大元のツイート(?)の意図とは別に、クマ派がどう解釈してるかっていう話なので、クマ派が大元ツイートの意図を正しく把握してないのがけしからん、みたいな議論はまた別の問題としてほしい。
んで、「森の中でわざわざ現れる」の場合は、男性である私でさえ、どっちもめちゃくちゃ恐いよ。論点はズレちゃうけど、男性である私の前にわざわざ現れる、しかも人里離れた森でってことは、強盗とか怨恨(身に覚えはないけど!)とかで殺される可能性、十分高いもんね。クマなら(男だからこそなおのこと?)死を免れてどうにか追い払える・やり過ごせる可能性もあるし。
本当にどういう意味?
森の中でわざわざ女の前に現れる男と、森の中でわざわざ女の前に現れる熊、で比較しないと意味ないでしょ
野球部の男の子がポンと出てきても野球の話で盛り上がって終わりだよ
女性の生活には夜道で現れる男とか人気のないところで現れる男とか突然にじり寄ってくる男とかスッと胸や尻を痴漢する男とか森の中のクマよりヤベェ男が出現する機会がいっぱいあんだよ
でもその野球部の男の子だって、覗きや盗撮で男同士盛り上がってても性犯罪は犯罪じゃないから通報しないで仲間に入ってるかもしれないね
恋愛的な意味で人を好きになったことがないので、人を好きになりすぎてアホになったりその人のことが頭から離れなくなったりしたことない。
同じ人を好きになるでも恋愛と親愛と尊敬では性質が違うだろうから「(恋愛経験ではなく)「人を好きになる経験」の話に言い換えられる』」はあんまりしっくりこない
これも個人差がある話だろうけど
馬鹿な女と馬鹿な男を取り上げて互いにこんな馬鹿なゴミがと罵倒し合ってるのマジで意味なくて
そもそもここまで馬鹿な連中は社会で大きな役割持ってないんだからそんな馬鹿な女、馬鹿な男にはならないように気をつけましょうってだけなんだよな
趣味だろうと生活だろうと、お金を使わないに越したことないわけで
その無駄金使って追っている価値を、金のために折り曲げて安い品で満足するというのが
意味ないなと
現にプチプラもけっこう使ってる
フェルナンダのコロンも安価だけどモモなんかまんまの良い香りだし
ジャンヌアルテスもいくつか持ってるけどまあ悪くないと思う、
だけど好きなものを探す時に、プチプラでと決めて探すのはなんか違うと思う
ちょっと落ち着きたいところ…
女の子に貢いだ方がよほど有意義な使われ方するし、お金も喜んでるよ。
どうせそのまま持ってても、
カメラか
風俗か
車か
バイクか
釣りか
ギターか
アイドルか
鉄道か
漫画本か
アニメか
ゲームか
ラーメンでしょ
女の子に渡せその金
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
https://anond.hatelabo.jp/20240509195934
街中の変質者ならともかく電車の痴漢みたいな決まった空間での犯罪がなんでいまだに無くせないのか本当に疑問に思う
被害に遭う女性は言うまでもなく男性だって冤罪もあるし男女の不信と分断を招く社会的な害がめちゃめちゃ大きい犯罪じゃない?
監視カメラが必要なのか満員電車を解消すればいいのかもう個室にでもするべきなのか痴漢は晒し首にすべきなのかわからないけど万難を廃して対策してよ
何かこいつのこの言い方って
全部一方的要求というか自分以外の誰かが負担するという前提を感じる
なんかすげえふんぞり返った牽制と乞食を同時にやってて感心するけど
え?まずお前は?
自分がまずこれをするとかそういうのは無いの?何も?
本気でやれよ
誰に命令してるの?
お前誰?
これだけ語気粗いのに結論が「してくれてた」 なのマジ女だよね。
これだけ偉そうにイキリ狂ったのに当たり前のように受け身。
「自分がまず身を切る。自分が率先垂範する。みんなもついて来てくれ」とか絶対言わないのな。
男だったらわかると思うけど、
すげー語気粗くイキがってるのに結論が依頼で自分からは何一つやらないっていうの、
カスの中のカスとして呆れられて軽蔑されてマジであらゆる意味でボコボコの目に遭う。
男でこれだけ強い態度に出る奴なら、当然その責任もわかってる。
一番きつくて一番危険なところ、一番しんどいところをまず引き受ける。
他の男たちは「あ、これだけやれるやつなら」と意気に感じる。手を貸すようになる。
男に尊敬されるのはそういう男。
逆に自分から動けないのに人におねだりばっかしてる男はゴミであって
みんな薄笑いしながら相手しなくなる。あこいつは話にならない。カスだな。ゴミ。女かよ。
ゴミの分際で攻撃的な雰囲気なんてちょっとでも出したら誰かがしばく。
他の奴等もあれはしばかないとしょうがないと思うからほっとく。
おねだりしか出来ない奴は控えめな態度で弁えろ。
昔の女って多分そういうことは理解してて身の程を弁えてたんだよね。
偉そうな口や攻撃的な口は利かなかった。
「そこまで言うならやれんだな」って言われたら困っちゃうから。
今はそういうこと何も教えなくなったから
男のように振る舞えない癖に態度だけ最も粗暴な男みたいになるバカの極みみたいな女が現れるようになった。
それで強い女とか言ってる。
女は誰にもシバいてもらえないのかもね。
一生おねだりイキリ中学生やるのかな。
花が意味するものを後付けで決めるなって話だし、統一されてなくて多過ぎるのも気持ち悪い。
はっきり言って花言葉は感受性が欠落した風流気取りのカス向けの概念。
口にした時点で見下す。
「俺が愛しているのだからこの人も俺を愛してくれているはずだし、なんとなく俺は愛されている気がするのでそれはきっと真実のはずだ」
↑
これが自分の思い込みでしかない可能性に気付けてない内は自分中心の世界にしか住んでだことがない。
一次元蟻は自分が一次元の世界しか知らないことを知らないから「ここ以外の空間が存在する」ということをそもそも知覚してないわけ。
「自分の主観は全て思い込みなのでは?俺の考える愛は本当に愛か?俺は本当に愛されているのか?思い込みでは?」
↑
こう考えられるようになって初めて、「俺にとって今までの世界は自分の主観しか無かったんだ!俺は本当の意味で客観的視点に立ったことがない!」と理解できるようになるわけなんだよね。
一次元の線の上で「俺はずいぶんと端まで来たな。きっと俺はこの世界の全てを知ってしまったんだ」みたいな勘違いをしているうちは、まだ世界の表層のうちほんの僅かな部分しか知らないんだな。
世界の広さを本当に知らないから、世界というものを簡単に見いだせた気になっているんだ。
二次元蟻達はそうじゃない。
二次元の世界があるな三次元の世界もあるかも知れないし、三次元の上には四次元があるという可能性を知っている。
だから謙虚に「こう考えている俺もまだまだ自分の主観の中にいて、客観的な視点に辿り着いたと思い込みながら俺というカメラがちょっと立ち位置を変えているだけでは?カメラのレンズそのものを変えなければ結局それは自分の見知った世界しか映らないのでは?だが俺にそれができるのか?」と考えられる。
ヤマトはとりあえず、ガンダムに関してはファンタジーが強い気がする
なんでかって、やっぱり富野由悠季という作家性が強い作品だし、彼の作品は基本ファンタジーだから
彼自身がSFですって言おうが、ダンバインでなくとも、イデオンだってSFというよりファンタジーの印象が強い
岡田斗司夫はガンダムをSFだと言ってたけど、自分はどちらかと言えばスペースオペラ、ファンタジーだと思ってる
というか、アルタード・ステーツをSFと分類するかもちょっと自分はためらう
富野氏がアルタード・ステーツのようなオカルトからヒントを得たのは疑いがないと思う
当時、アイソレーションタンクなどによる無重力下で、人体になんらかの変化が起こる、というオカルトは流行していた
富野氏は、人類が宇宙に進出することと合体させ、だったら宇宙に出た人類は無重力下で人体になんらかの変化が起きる、
進化が起きる、ニュータイプになる、ということを考えたのだろう
エヴァの生命のスープだのL.C.Lなども同様のアイソレーションタンクである、その証拠にパイロットは溶けた
なんとなくだが、単なるLSD中毒のジャンキーだったジョン・C・リリーのたわ言は長い間信じられてきた
イルカやクジラの脳は人間並みかそれより高度だとか、イルカやクジラ同士のコミュニケーションによって地球レベルのネットワークが形成されているとか、
彼のWikipediaを読むだけでも、流石に現代では噴飯もののオカルトがテンコ盛りなわけだけど、
富野氏はマジで信じてたタイプなのではないか、富野氏のインタビューとかを眺めるたびにそう思うのである
オカルトをかなりマジで信じてた、かなり、ぶっ飛んでる御仁ではないかと思うのだ
結論からすれば、仮に富野氏がガンダムはSFだと仰ったとしても、自分にはかなりオカルト色の強いファンタジーにしか思えない
そういう視点からすれば、オウムとか新興宗教が制作したアニメと紙一重なのかもしれないが、
ガンダムは最初からフィクションだと言ってるわけだし、新興宗教のクソアニメなんかより、よっぽど面白いわけで、面白ければいいのである、フィクションなんだから良心的である