はてなキーワード: 矛盾とは
リアルの巡査が何考えているかと言うととにかく自分の事しか考えていないので、背理法とかでいなすやり方がある。自分の事しか考えていないから、何かをやろうと思っても、やること自体によって
同時にそいつの世界の公理系に矛盾したらそいつの世界がぶち壊れるから、出来ないときがある。
巡査は、対象者に関する公的記録を裏に持っていて、 スパコンで目から光線を出して対象者を次第にその状態になったときを狙って近寄ってくるから、 そうならないように注意して行動
していればよい。
巡査がそういうことをしているときに当然、世間の人間はババアだろうが見殺しとしているが、 現実的にいうと、長谷川のような状態になって行動していれば被害を受けることはない。
世間は、 舌打ちをするだけ。
自分自身、つい数年前まで似たような生活をしていたが、なんとなく周りに流されるようにして正社員として就職してしまった
毎日の仕事は楽しいけど、それでもこれまでのように有り余る時間があって、平日気軽にブックオフや公園を散歩することはできなくなった
昔、インディーズの漫画家がSNSに投稿した漫画に対して、「この漫画、〇〇な人にはめっちゃ刺さると思います」的なコメントを残したことがある。
すごく喜ばれたし、そのコメントを見た他の人もいいね的なものをくれた。
言語化できなかったが、俺も気分が良かった。
はてなでも、「その意見賛成です」「気に病まないで欲しい」的なコメントを残すようにしている。
やっぱり、なんとなく気分が良い。
正直、はてなの投稿には気持ちの良いコメントを残す人が少ない。
自分の話に持っていく人、全然関係ないところで議論を始める人、言葉の矛盾や間違いを指摘したがる人が気になる。
人の欲求に「優越したい」というものがある。誰かに対して自分が勝ったとき、人は快楽を得る。
これは勉強やスポーツ、仕事などにおいて強い力を持つが、人格に問題を抱えたり、人間関係が歪になってしまってトータルでマイナスになる可能性がある。
もし「優越したい」という欲求を持って人を貶めるようなコメントをしている人がいたら、気持ちの良いコメントに置き換えるかコメントしない方が良いんじゃないかな、と思う。
やっぱ理想を元に働いて
つってる割には
だいたい学生アルバイトは親の金で生活してるからその時給で働けてるだけで
ケーキ屋は親のインフラに一部タダ乗りして安くあげてるわけじゃん
「実力がある私(ケーキ屋)は稼げるべき」だけど「いないと困る販売員は安くてもいい」ってなんか矛盾してなーい?
じゃあお前も稼げない側でもいいんじゃない?って思った。
【追記】
人件費をうかせる事で店を維持したり職人に給与払ってるってことは純粋な技術だけで儲けてないやん。そこに夢や理想の限界を見てしまうから、幻滅!!っていいたかった。
職人の誇り!!っていう割には誇れてない感じになってますやん?だから萎えるっていったんよ
夢だけで食えてない。夢がないなって。
慶応義塾長の伊藤公平氏が「国立大の学費を年150万円に」と提言し、大学関係者に波紋を呼んでいる。この提言に対し、国立大学協会の『国立大学の授業料のあり方について』(平成5年)から、「国立大学の授業料は、本来、受益者である国が費用を負担すべきものである」という主張を引用し、同氏に批判的なツイートが流れてきた。
ttps://x.com/MaihaiStyle/status/1791449766070808602
ttps://x.com/gomaaaaaoil/status/1791269984351797652
ttps://x.com/kmoooooog/status/1780813111601373203
そもそも、「大学教育・研究には外部経済性がある」というならともかく、「その受益者が国である」とまで言い切ってしまっていいのかは疑問であるが(学問の自由とも矛盾しうるのでは?)、百歩譲ってその主張を認めた場合、国立大のみならず私大の授業料も受益者である国が負担すべきという話になるのではないかという疑問を感じた。しかし、そこは天下の国立大学協会、なぜ「私大の授業料も国が負担すべき」とはいわないのか、その理由をしっかり説明している。
P.3(※太字は引用者による。以下同。Claude AIでPDFのスクリーンショットをテキストデータに変換したので誤字あり)
国が直接責任を負っている高等教育の存在理由については、私立大学との対比で教育面と研究面の両面から見る必要がある。
教育面については、専門分野別の入学者数をみると、国立大学は自然科学系および教育系を中心に、一方私立大学は人文社会系が中心になっている。大学入学者を地域別にみると、私立大学は関東・近畿の大都市圏に入学者全体の64%を抱えているのに対し、国立大学はほぼ全国均等に入学者を受け入れている。地域別分布のみならず出身家庭の収入別からみても、国立大学は依然として教育の機会均等に寄与している。
研究面については、まず研究者養成にしめる役割について、ついで研究実績についても述べる。研究者養成を大学院への平成4年度入学状況でみると、国立大学の修士課程への入学者が私立に比して約2倍であり、博士課程では2.6倍に達している。大学院生の分野別分布をみると、人文社会系では国立の約2倍の学生が私立に入学しているが、施設・設備に経費のかかる理系では一部の私立大学を除けば、国立大学が主要な役割を果たしている。
この事実は研究実績に反映している。これまでに行われたいくつかの調査によると、理系分野では一部の私立大学を除くと、論文数のみならず、論文の総引用数でも国立大学は私立大学を凌駕している。ただしこの場合、国立大学には理系研究者の絶対数が多い点も勘案すべきであろう。
さらに国際的義務として推進が求められている先端的重要基礎研究の多くが、主として国立大学と大学共同利用機関で進められているという現状がある。
なるほど。要するに国立大学は一般に私大より優れているのだから、国立大学に「選択と集中」をせよ、ということですね。国立大学に見劣りするのだから、私大の授業料も国が負担すべき、とは主張しないのも納得。
30年前の国立大学の先生方は「選択と集中」がお好きだったんですね。
実に面白い( )。
行政事件訴訟法は、 行政処分の取り消しと、都道府県知事の裁決決定の取り消しなどに関する法律であり、 前者は行政庁の処分(Vermaltungsact)の取り消しと裁決の取り消し
は、客観的併合によって追加的併合される。 この場合、 同法律は民事訴訟法のほとんどの規定を準用することによって構成されているが、民事訴訟法は、事件の簡易迅速な解決
というなまなましい目的と、法律の設定という一見矛盾するものの間に関係を見出さんとする専門的な知見が必要であり、そのためにいかなる概念を措定しなければならないかが問題になる
さらにそれを技術的にやって論理的に相互の規定が破綻しないように調整して条文案を官僚が考えてから、 国会に提出する
よって、 令和5年行510号、 本年行146号にあたり、 行政事件訴訟法の立法過程と立法技術がいかなる内容であるかを検討し、 行政事件訴訟法7条、民事訴訟法333条
本件では、 自立更生免除が、生活保護法63条の規定とどのような技術的助言は、 厚生労働省課長通知によってなされているもので、
会計検査院実地検査のために、地区担当員の、ぽち脇が確認したところ、令和元年12月25日に、精神障害加算を12万円余計に支払っていたので、63条の類推適用により
令和2年2月10日に正式に処分をしたがその後に取り消した。 自立更生免除は、 昭和35年厚生労働課長通知により設定されたもので、 受給者の支弁中で、極めて限定的な範囲内
で生活に有益な支弁がある場合は、免除を認める。 2017年生活保護運用事例集、運用マニュアルであって、 令和4年に、地区担当員の、小股が面倒くさそうに引いていて横に、
令和3年だったか、たかとしの嫁が、大貫のたんぼに出てきて、ここはうちの畑じゃ、と枯れた声でいうた、ということです。たかとしというのは延岡のでぶです。しかし、たかとしともめて
それを延岡の消防指令補が見ていたのは、3年前とかになるので、延岡労基署の前で、警察官補がけんかをみて引き離したのもはるか昔の話なので記憶にない。
民事訴訟法は定めてあるもので、大体、定めてしまうこと自体が、簡易迅速な事件解決と矛盾するので、法律を定める場合に つまり、現代法というのは、子供から見たら、めんどくせーな
おい
という感想をもよおすものである。なぜなら、 人を殺した者は、死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役に処する、と書いているが、子供がみたら、悪いことをした奴はその場で殺せばいいだろ
糞が、と思わせるところが、 まずは、警察の捜査、被疑事実で逮捕、勾留、取り調べ、押送(送検)、取り調べ、起訴、拘置所移送、 口頭弁論期日の設定、 判決期日、控訴、口頭弁論、
判決、 上訴、 最高裁判決、 再審といった面倒な構造を経由する
しかし、 法律の規定を、そもそも、 民事訴訟法の目的と、社会的な論理的関係と矛盾しないように、定めることはむずかしく、 民事訴訟法の全ての規定同士が相互に論理的に
矛盾しないように様々な概念を考えだし、規定として構成し、そこに置いておかねばならない
従って、 行(ウ)510号、146号などを処理する以前に、 行政事件訴訟法自体がどのように作られているのかから議論しなければならない。
例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。
そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。
そこが問題なのである。と云うといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。
まず私の考では相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。
もっとも実際やってみなければ分らない話だからどっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。
どうしてこう云う結果の相違を来すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだと言わなければならない。
すなわち西洋人が相手の場合には私の卑陋のふるまいを一図に徳義的に解釈して不徳義――何も不徳義と云うほどの事もないでしょうが、
とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかも知れません。
ところが日本人だと存外単純に見做して、徳義的の批判を下す前にまず滑稽を感じて噴き出すだろうと思うのです。
私のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、
突然人前では憚るべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。
この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡げる余地を見出し得ない訳ですから、
たとい道徳的批判を下すべき分子が混入してくる事件についても、これを徳義的に解釈しないで、