はてなキーワード: 物故者とは
はじめに言っておくが、この内容全体が狂人の思考だから、一切共感は得られないと思う。自分が思考の整理のために書いている。できない理由探しにも捉えられられる文章なので、苛立つ人もいるだろう。というか大多数だと思う。
それでも許せる人だけが読んで欲しい。なお、この先「音楽ライブやフェス」をまとめて「ライブ」と書く。
私はライブに行くことができない。人混みだとか、環境や財力とかは問題ではない。あえて言うなら、私は私のことを「どのライブにも行くに値しない人間である」というふうに考えている。
音楽ライブに行くためには、どのようなアーティストに行くかの選定と、そこに対する深い知識が必要だ。
いくら優れたミュージシャン、自分のお気に入りのミュージシャンであっても、知名度や同世代(筆者は所謂Z世代に分類されるようだ)からの評価的にその名前を出して場が盛下がるのであればリソースを割くべきではないと感じる。
そして、私にとってより大きな問題なのが、「ライブに行く人間たるものそのアーティストの全てを知らねばならない」と言う感覚である。
ライブではどのような曲が演奏されるかは、その瞬間まで完璧には予想不可能である。ゆえに、可能な限り、すべての楽曲を把握していなければならない、と思っている。前で述べた、盛り上がる有名な大物アーティストほど、この傾向は強まる。少し大袈裟に言えば、そのアーティストの(せめてA面)全曲に聞き覚えがないと楽しめない気がする。しかしこれは時間的にとても難しい。
(余談だが、SNS上でセトリが公開される文化と言うのは、追いつこうとしているからでは、知らない曲が出る対策ではと言うふうに私は解釈している。絶対に違う)
若者に人気のアーティストは大概発表された曲数が多く追いつけず、曲数が少ないアーティストはそもそも盛り下がる。そんなジレンマがある。有名かつ物故者の場合は追いつけるが、そもそももうライブがない。
知らない曲を知ることができる、新しいアーティストに出会えると言うのはよくある言い分だと思うが、そもそもそんな無知な状態で、ライブに行って良いものか、ミュージシャンとその全ての曲を知るファン(絶対に存在する)への明確な侮辱ではないだろうか。
ヒット曲だけを追った「にわかファン」がライブという参加できる人数が限られる聖域に来ることは、単にサブスクで聞くことと違い、心の奥でしかめ面をされるのではないかと思ってしまう。実際ノることもできないで間違え、冷ややかな目で見られることも容易に想像がつく。
おまけに、このような私にとって、チケット代は高い。平気で安くても5000、6000円取ってくる。おまけに交通費などもかかる。全曲知らない確証がある状態で、そんな大博打をできるか?私にはできない。
ここまで言っていて、意外と思われるかもしれないが、別にライブなどのノリ、空気は嫌いではない。別のジャンルのそうした会にも行った経験はある。しかし、ことこうした音楽では、全てのコンテンツを聞くことができない。むしろどう頑張っても全て追いきれないジャンルの方が、受けは悪いが気楽だ。
元子役「50代被害者」が顔出し告発…別事務所のタレントがジャニー喜多川氏に献上されていた!
この記事なんかで明白だけど、権力者にそいつの大好物を献上して、権力のおこぼれに与ろうって輩もきっと大勢いたよね。
組織の外部にも、内部にも。
事務所のスタッフだって、社長から「イキのいいのを連れてこい」と命じられていたとしても何ら不思議はない。特別チームの報告を見る限り、スタッフは「見て見ぬふり」どころではなく、Jrからの相談に対して受け入れた方が得策だと助言するほど積極的だった。
所属タレントだってそう。社長の性的関心からはずれる年齢に達してしまったタレントたちも、業界へのプッシュを交換条件として上納金(美少年)を求められていたとしても不思議はない。
あの事務所が社長に生贄を供給し続けることで駆動していた生態系だと考えると、すでに物故者である社長ひとりの断罪で済む話ではない。直接的・間接的に性加害に関与した者全員が断罪されるべきだろう。
タイトルを見て何の話か察したひとも多いだろう。ちなみに自分はわからなかった。
「友人葬」とは創価学会特有の葬儀の方式のことである。亡くなった親族は配偶者が熱心な信徒であり、本人も一応入会していたらしく、そのこともあって葬儀も友人葬で執り行われた。そして、実際にそれに参加してみたら、創価学会が一定の信者と、一定の反発を呼び起こす理由を体感することができた。
通常の仏教式の葬儀(といっても増田自身まともに知らないのだけれど)と、友人葬の違いはいくつかある。
一つ目。葬儀は創価学会員が全部仕切る。遺族とか親族とかの意見は特に聞くことなく、葬儀の段取りを全部創価学会のメンバーがやる。
二つ目。前の方で読経するひとが複数人いる。勝手なイメージだけど、仏教式の葬儀はお坊さんが一人で前の方に座るものだと思っていた。友人葬では「導師」が2-3人前に座って読経する。
三つ目。参列者の創価学会員が全員一緒に読経する。よくある葬儀では、お坊さんが一人で読経するだけである。しかし、友人葬は参列する創価学会員全員で読経する。もっと言えば、おそらく物故者本人とそれほど交友があるわけでもない人たちがやってきて、読経して帰る。
四つ目。関係者から弔文とかが届く。たとえば、「導師」の言葉の中で、池田大作名誉会長と原田実会長からの言葉が読み上げられる。あとは国会議員・市議会議員とかからも。
参列する前から、よくある仏教式の葬儀だと思ってたんですよ。それがこれ。色々な思いが脳裡を通りすぎていった。
まず、「意外と普通だな」ということ。基本的に仏教だから、読経の内容自体はただのお経である。あと簡単。「南妙法蓮華経」って三回唱える・あるいは何度も繰り返し読み上げる。方式の簡略化。難しい教義とかなしに同じ言葉唱えていればいいんだからそりゃ信徒獲得するわなと。
その次に思ったのは「なんだこいつら」ってことです。物故者はもうボケてて、友人が遊びにきたりすることはまずなかった。だから参列者とか絶対知らない人なんですよ。なのにいきなり葬儀に集団でやってきて何から何まで仕切り始めるの、はっきりとむかつきますよね。お前ら他人だろ、死ねよ、くらいの気持ちです。
でも、その後に思ったのは、「これはこれでありがたい人もいるんだろうなぁ」ということです。まず、遺族にとっては煩わしい葬儀の手続きを全部学会員がやってくれるの、そりゃ楽ですよ。受付に座ったり、葬儀における各種手続きを全部、本当に全部学会員が勝手にやってくれる。この簡便さは、一つのメリットなんだろう。学会員がいきなり押し寄せてくるのも、見方を変えれば「淋しい葬儀にはならない」という利点がある。みんなで読経するのも一緒だ。見ず知らずという意味では普通の仏教式の葬儀でも別に住職さんとかと普段から仲が良かったり会ってたりするわけでもないのに、それをありがたがるのも不思議な話で、そういった特権的存在一人が読経するより「仲間」(物故者の配偶者の言葉を借りた)が一緒にお経を唱えてくれる方が嬉しい、と感じる人がいるんだろう。