はてなキーワード: 万引きとは
新宿区で生まれ、その後は23区外に引っ越したが、ずっと東京都内から出たことはなかった。
小学校受験をし、私立の小学校を卒業し、そのまま中学受験をして、いわゆる御三家に合格し、中高一貫の女子校を卒業した。
まさかそこでここまで大きなカルチャーショックを受けるとは思っていなかった。
私は自分がいかに世間知らずだったかということを全く知らなかった。
まず、初めに、医学部生同士での「親って医者なの?」という会話に驚いた。
喉元まで出かかって飲み込んだ。
私の周りの医学部志望生は、7〜8割は親が医者であり、親が医者であるかどうかを確認する文化がなかった。また、親が医者でなかろうと、会社の社長だの外交官だのばかりなので、「あ、そうなんだ。」くらいで終わりだったのであるが、ここでは違った。
非常に面食らった。
まず今までの人生で親の所得の話になったことが一切なかったことに気がついた。
なんとなくタブーのような、下品なような、お金の話をするという文化が存在しなかったし、他人を「金持ちだから羨む」という人に初めて出会った。
そして気がついてしまった。私が今まで通ってきた道は、『子供の教育費に月7-8万の学費を払い、かつ年100万近くかかる塾に通わせることのできる所得の親を持つ人間しかいない世界』であったということに。
加えていうと中高一貫の女子校ではバイトが禁止されていた。(している人は一人もいなかった。)
私自身小4〜6まで塾に通い、高2〜浪人1年間もまるまる予備校通いをしている。
かかった学費のことを親は何も言わない。
「医学部に受かってよかった。」
それだけである。
またさらにびっくりしたのが、
どこかに遊びに行こう!となった時に
と言われたことだ。
「お金がない」という理由を遊ぶ時に持ち出すという文化に触れてこなかったように思う。
遊ぶ時にかかるお金は、その思い出に対して支払うものであり、いくらになろうと楽しければ構わないし、やりたいことをしてきたと思う。(というと高級ホテルでランチビュッフェに行きまくっていたかのような印象だがそういう意味ではない。)
遊びたい時に、「何をしたいか」ではなく「予算」が先に来る文化。
そんな文化があることも知らなかった。
というかむしろ、うちの親は常に「うちは開業医でもないし貧乏だから節約しないと」と言っていたので、私はどっちかというと貧乏なんだな。と思って生きてきていたのである。
現にユニクロ大好きだし、特売も大好きだし、ポイントカードもめちゃくちゃ持っていて端からポイントを貯めている。
田舎とはいえ、本気の田舎では多分ないのだろうが、はっきり言って今の暮らしは本当に耐えられない。
友達と遊ぶ時はテレビか雑誌で特集していた店に行き、大きくなってからは食べログの評価が高い店を探し、予備校終わりに疲れたら伊勢丹に寄って化粧品を買ったり、ルミネセールで爆買いしてみたり。
レビューがなさすぎることで、食べログで店を探すことがこんなに困難になるとは知らなかった。
地方都市なんだからデパートくらいあるでしょうというが、私は新宿伊勢丹で先行発売の化粧品を、エムアイカードのポイント10%還元を利用して購入したいのであり、そのついでにフェラガモの靴を物色したり、グッチの新作にケチつけたりしたいのである。
前にトリーバーチの靴(一番スタンダードな、黒の革靴に金のトリーバーチのロゴが大きく付いているやつ)を飲み会に履いて行ったら、「その靴イトーヨーカドーで売ってるみたいだなww」と男子に言われて本当に驚いた記憶がある。
他人の持ち物(しかも靴などという少しこだわっていそうなもの)を平然とけなす神経と、トリーバーチすら知らないということに対する、二重の驚きである。
地元でずっと一番で、県で一番の高校を出て、この医学部に入ってきていた。
小さい頃からずっと「頭いいね!」「すごいね!」と言われ続けて、ピノキオみたいに鼻が伸びて育ってきている子ばかりなのだ。
何か言えば尊敬され、常にリーダー格として君臨してきた人たちばかりなのだ。
でも私は知っている。
たかだか地方の医学部に、賢い人間なんていないのだ。本当に賢い人は、理三だの、ハーバードだの、そういうところにいるのであり、
医者になるとか、ならないとか、そんな次元のところにはいない。
私たちはちょっとだけ努力するのが上手だったか、ちょっとだけ記憶力が良かっただけなのだ。
夜になると一人暮らしの部屋で本当に世界から取り残されたような気持ちになる。
私が今まで「当たり前」だと思ってきたことは、当たり前ではなかったのだと思う。
うちの親が「危ないから、事故った時に死なないように、強度のある車を」と言ってくれたから乗っている車でも、「目立つこと」の方が悪なのだ。
「昨日、コンビニにいたね」
いちゃダメなんだろうか。どこで何してもいいでしょう。万引きしてるわけじゃないんだから。
東京は、何をしてもいい。
何をしても、誰も何も言わない。
近くに住んでいても、知り合いに会うこともない。
早く卒業したい。
早く東京に帰りたい。
生まれ育った土地が自分には一番合っているというだけなのに、田舎と東京の話に置き換えている私はきっと性格が良くないのだと思う。
だからこっそり、ここに書く。
特にフェミニストが弱者男性に対する解像度が低過ぎるまま弱者男性を叩いてる人が多いので、どんな人間なのかサンプルの一例として自己紹介するわ
最近ハマってるのは学園アイドルマスターとブルアカ(どっちも弱者男性御用達コンテンツ)
スニーカーも好き
オタク趣味は飽きっぽく長く続かないが、身体を鍛える趣味は緩く長く続いてる
理由は無駄に攻撃的で俺のような人間をよく差別して罵倒してくるから
虐待の内容は言葉による物は日常として、虐待内容は風呂や洗面台等に力付くで溺れさせる、高いところから落とす、刃物を含めた様々な物を投げつける、どこかで車から降ろされて迷いながら歩いて5時間かけて家に帰る、氷点下20度以下の気温なのにジャージ姿に裸足で地面凍ってるのに四時間外に締め出す等あげたら多すぎる
もらったお年玉などの大半を勝手に使い法律相談所とかいう番組て得た知識を披露し「親は子どもの金なら勝手に使ってもいい」とよく言っていた
些細なトラブルが起きた程度で部活も辞めさせられた(顧問や友人からもそんな事でと言われた)
俺が何をしても母は殴るか罵倒するが妹には一切行わない等扱いの差が露骨
小2〜小3の頃からストレスで白髪だらけになったが、中学の途中からは白髪染めをずっと使ってる
母は自分の都合が悪いと無かったことにしたり周りを言いくるめた上で自分の記憶を都合よく改変する悪癖がある
俺のような周りを囲い込むのが苦手な子供にはどうしようもなかった
今の母親はスピリチュアルに傾倒しているし昔のことを無かったかのように振る舞い良い母親ぶっている
当時の事は未だにフラッシュバックする事もあるが他人事のようにも思ってる
学生時代は中学時代にほとんど話したこともない女から何故か教科書に死ね等と落書きされたり靴を隠されたりしたが、母からの仕打ちに比べたらカスみたいなものなので何も思わなかった
女友達というのは今まで存在しなく友達の彼女という程度の知人との人付き合いはあるが、女には苦手意識が強く関わることを避けてきた
医者から彼女を作ることで俺の症状は緩和すると言われたが、なかなか難しい
仕事では女が多いと上手く関わることが難しいので職場で不利になるから転職した
正直に言えば女に良い思い出は全くない
男友達は昔は不良じみた連中で小学生にして万引きシンナーやってた奴だったけど、年齢が上がるごとに学年上位の優等生タイプたちに何故か層が切り替わり良く遊んでいた
このタイミングでオタク趣味を覚えるが、露骨にオタク感ある人は一人を除いて友達にいなかった
ヤンキーはあまり好きではないし仲良くないが、チー牛(あの外見に似てる人かつオタク趣味の人)からは接点薄いにも関わらず謎に嫌われる事が度々あった
ヤンキーにイジメられたことはないが、チー牛系からの謎の陰口の方が多かった。友達にチー牛が一人いたので、チー牛という属性に対する悪感情はなかった
通じやすいからチー牛って言葉使ってるけど、この言葉も本当は好きではない
チー牛オタクというよりは社会ドロップアウト組の方が俺の存在を適切に現していると思うが、ネットではなぜかチー牛眼鏡オタク扱い度々されるのは謎
俺の外見はあまりそっち系ではないと思うトリプルカラーで明るく髪染めてるウルフヘアの筋トレ好きってチー牛オタク男のイメージではないでしょ?弱者男性だけど
俺のイメージって君らが想像してる物とどれだけ合致してるか知らんけど、一体弱者男性ってどんな奴だと思ってるのさ適当に喋ってない?
物を盗むことに抵抗はない。映ってたり見られたりするのが怖い、さらに言えばバレて逮捕はされたくない。
一時期自転車のライト盗んで転売してたり、足がつきたくないから盗んだチャリを使っていたことがあるが、これは問題なかった。
駐輪上に人がいて自転車を触っているという状況は、側から見ても不自然ではないからだ。持ち主に見られた場合は知らんが。
チャリの荷物盗むのも一度だけやったがあれもまあいい。見られてないと確実に分かるところだし、そもそもカメラに映ってようが駐輪場のカメラ程度の画質なら問題ないから
今時はカメラだらけだし、外と違って店内にはそんな人がいない、いたらいたで客にバレる。
欲しいものはもっぱら店にあるのに情けない話だ
Rの支払いでLのコンビニコーヒーを飲むと数百円の差額で懲戒免職になるという。1900万円の不正支出や自殺への追い込みはどれほどの懲罰になったのだろうか。
職場の中における同調圧力が強すぎて本人の意志とは半ば無関係に同和利権を容認するような書類を処理してしまうのは、職務における真剣さや勇気の欠如ではあるが、それは個人の生存戦略と社会通念上のモラルのどちらを優先するかの話であって、その人間を明確な悪と断ずるのはいささか求めるハードルが高くないか?
対してコーヒーの値段をちょろまかす行為は、明確な自由意志に寄る明白な詐欺・窃盗行為であり、100%自由に自分の行動が選べる状況において、完全に自己の利益のみを目的として、他者に不当で不誠実な取引、というよりハッキリ言って差額分の万引きと等しい行為を行っているわけで、判断力の低下を招くような追い詰められている状況でもなければ、本人以外の意思が介在するようなシチュエーションでもないわけだから、明確にその人間が悪党であると断ずることが出来るんじゃないのか?
扱った額の大小に注目してどっちが重い罪をなしたかではなく、どちらがより「自分の自由意志をもって犯罪行為に手を染めることを選んだのか。犯罪行為に手を染めない道を選択できる自由がどれぐらいあったのか」で判断すべきじゃないのか?
というかそもそも、この2つを比較するのが完全におかしいというか、状況が違いすぎないか?
対面の俺は信号を律儀に守ってそれを見ていたが、彼らは俺の存在などないかのように笑顔で談笑しながら横を過ぎ去っていった。
俺は悲しくなったが、それと同時にこれこそが幸せなのかもしれないと思った。
幸せのコツとは、自分と自分の近しい人々の利益・幸福の最大化と、「今」の利益・幸福の最大化を目指すことなんじゃないかなと思った。
彼らは社会のルールとか、対面で信号待ちしている俺の道徳心、道徳心の陵辱とかは考えない。自分たちが立ち止まらず時間を無駄にせず移動できれば良いと考える。
俺は俺が信号無視したら漠然と見えないみんながルールを守るモチベが下がるとか、視界内の人が嫌な思いをするとか考えるから信号無視はできない。少なくとも隣や対面に人が居ると。俺は俺じゃない他人のことで俺の行動を決めているから彼らのように幸せな気分で信号無視できていない。不幸せだ。
同じく、俺は結婚もしてないが、俺が信号無視してたら自分の子供にどうやって信号を守らせるように説けるか悩むことがある。自分ができてないことを他人にさせるなんて、と考える。決して訪れない未来だ。つまり仮に子供が出来ても、俺は信号無視できない。未来を考えているからだ。
彼らは違う。ベビーカーに乗ってる子供はロクにルールや両親の行動を理解できない赤子であって、子供が認識できない今は何をしても彼に影響がないことをちゃんと理解している。罰せられないという前提なら子供の前で万引きだって殺人だってできるのだろう。ちゃんと「今」にのっとって行動しているのだ。彼らがベビーカーを覗くときはよき父とよき母であり、子供が成長したあとは子供の前ではそう振舞うのだろう。
今、自分たちが快いように行動する。それで結婚でき、子供ができ、笑顔でいられるのだろう。
困ったことに、幸せになれるコツはつかめたが、俺が実践できるかというと難しい。言ってしまえば俺の価値観での「悪」に染まれということだから。
赤の他人に嫌われようと平気な人間になれたとしても、内面の自分に嫌われるのはしんどい。かなり過酷な実践的トレーニングで鍛えていくか、催眠おじさんに人格改変してもらうか。
確実に俺はそんな苦行をする人間ではないので、俺の思考は変わらず、幸福度がそこそこ低いままあまたの信号無視を見送りひそやかに傷ついていくのだ。