はてなキーワード: 帰依とは
ほんまに、おもしろおすなあ。あんさんもこの世の皮肉を一手に引き受けてはるんどすなあ。ええなあ、他人のせいにして自分は高みの見物できるなんて。それとも、自分は全く責任がおまへんのやろか。なあんか、自分もその「誰も自ら政治の世界に飛び込んでまでして変えるつもりはありません」っちゅう人の一人に見えますえ。ほんまに、言うことだけは立派どすなあ。
でもまあ、あんさんが嘆いてるその状況、どっかのお偉いさんに聞こえても帰依れへんやろうけど、せめて友達や家族には愚痴ってスッキリするんどすえ。ほんで、自分もせめて一票ぐらいは投票箱に入れておくんなはれ。それが草の根運動っちゅうもんどすえ。いや、まぁ、やってはるかもしれへんけど、ほんのちょびっとでも自分にできることはないか考えてみるのも、悪くはないんちゃいますか。
なんで共同親権の話がネットの口汚い人たちの熱い関心を呼ぶのか、ウヨサヨの醜い争いのネタになるのかの理路がよくわからなかったのだが
「よっぽどの事情がない限り離婚時の親権は母親がデフォ」という慣習にまつわる既得権に対して挑戦的だからなんだな。
しかしその既得権だけをぶっ壊せば済むものではなく、養育費のとり方とかいろいろ併せて整備しなきゃいけないことは多そう。
慣習的に女親の権利が強いのと、慣習的に男親は「逃げてしまえばそれまで」なのはセットで機能していた
子育てと婚姻状態継続がセットなことの自明性を崩すのは正しい方向だと思う。
同性婚にも関わってくるだろう。既存の婚姻の枠内に入りたがるのはむしろ保守的な価値観への帰依であるとようやく気付く人が増える
雑語りをすると日本を左右に分断するイデオロギーの壁のようなものがあって、各世代ごとにホットなテーマがある
日米安保、学生運動、先の大戦による被害に対するアジア諸国への謝罪、従軍慰安婦問題、歴史教科書問題、日の丸君が代強制問題、自衛隊イラク派遣、少年法改正、派遣労働、etc.
そのどれかに強い関心を持ち、左右のどちらかに帰依してしまうとだいたい他のテーマも同じ方を支持するようになる傾向がある
左翼が騒ぐせいで電気料金が無駄に上がる、という認識というか本音はわりと多くの国民が持ってると思うから、しばらくは左翼政党は低調だと思う
それはそれとして昔、バブルが崩壊した後に銀行を救済するための法案をいわゆる右派政党である自民党が出したけど、それはモラルハザードを齎すといって左派の野党が反対した
そのうえ銀行による貸しはがしを問題視してくるし、とにかく人員整理をして自分の会社の経営を立て直さなきゃいけないのに雇用を守れといい、派遣労働改正にも抵抗してくる
肥前国の平戸には、勢力を伸ばし大名となっていた松浦隆信の庇護によって、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが住んでいた。彼らは南蛮貿易を通じて日本にキリスト教を伝えるとともに、日本の銀や刀などの商品を中国やヨーロッパに運んで交易を行っていた。また彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰や知識に魅了され、彼らからキリスト教や西洋の学問を学んでいた。
しかし、応慶の行動は寺院の目に留まり、不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。当時、一向宗に帰依していた土着の武士たちは応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教に改宗した武士や農民たちを集めて、反幕府の勢力を築いた。その勢力は応慶の名を取り「応慶軍」と呼ばれた。
幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍・足利義稙は大内弘興を総大将とする討伐軍を肥前国に派遣した。永正5年(1508年)、こうして肥前国で応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。松浦氏は応慶に僅かながら援助していたが、松浦氏は当時、大内氏の配下でもあったため表立って応慶への支援は行えなかった。応慶の軍は、当初は大内軍の軍勢と拮抗していたが、大内氏の軍勢は数や装備で勝っており、次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)、最後の決戦は、平戸城の南西に位置する川内峠で行われた(川内山合戦)。しかし、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなり、合戦は数時間で決した。
大内弘興は平戸に残る応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸松浦氏と縁戚関係のあった宇久氏が仲介に入った。宇久家当主であった宇久盛定は幕府と応慶軍の和睦を提案。当時、大内氏は京において細川氏や畠山氏との権力闘争の火種が残っていたため帰京を急いでおり、宇久盛定の説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。
応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和や幸運の象徴となった。応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸の宣教師たちにも伝わり、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。
その後、宣教師たちは平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。宣教師たちは自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。その言葉が日本の文化や歴史に関係することを説明し、その言葉を使うことで日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を手紙や書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。
やがて、その言葉は、ポルトガルやスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語に翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その本来の意味は変わらなかった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉の語源である。
はてなでは味の素=科学=正義であり、味の素を使えば使うほど正しいとされる。
重要なのは味の素に対する帰依を表明しているかどうかであり、味ではない。たとえ素材の旨味を引き出していたとしても、はてなの教義においては味の素を使った料理より劣るし、なんなら素材の旨味を活用するやり方は味の素に対する攻撃と見做され、反科学と同列に置かれさえする。
味の素=ワクチンであり、ワクチンを打たないことが罪であるように、味の素を賞賛しない者は反ワク同様に非科学の悪である。
ちなみにリュウジを大好きなはてなーはレシピ動画なんか見ないので、リュウジ=ニンニクではなくリュウジ=味の素だと思ってたりする。これもまた、実践より信仰告白を優先する、文字列情報を有り難がるはてなーの悪癖である。
運良くお金をいただいて大学に通うことができているのに、自分の不甲斐なさに絶望する日々。その不甲斐なさを外部要因のせいにしてなんとか乗り切ろうとする癖までついてきているからもう手遅れかも。
大体がお金持ちで大体が素敵なご両親を持つ人間どもに一年以上囲まれることがここまで不愉快だとは想像もしなかった。小中はそこら辺の適度に荒れた公立で、一度入ったエリート高校も半年で家族が体調を崩したから、働くためにやめた。その後入りなおした公立通信は居心地の良さでは一番だったかもしれない。どこの親も大体うちと同じように虐待の気があったりお金がなかったり、そうでなければ生徒本人が壊れかけていたりする。そんな人しかいないから、自分の親を虐待で通告した後も、数少ない高校の顔見知りに施設住まいを公言しても特に何かが変わることはなかった。それが普通だから。
そういえばいい学校に行って勉強するの楽しかったな、と施設で思い出した時から、いろんな人間を見返してやろうと、あまり良くない動機で勉強し始めた。今の世の中は便利なもので、大手予備校レベルの映像授業が毎月の通信料以下で手に入る。とにかく成績を上げ、奨学金に引っ掛かるように努力し続けた。そしたら、なんか上手く行った。周りの人たちの支えがなかったら、大学どころか高校まで出ていたのか、そもそも生きていたのかすら怪しいのに。
大学に入って、1年も経つと「身の丈に合った教育」という切り抜きから生まれたあの言葉が的を射ていることに気づいた。
まず、みんなお金持ち。こちとら経済的支援をくれるような身寄りは1人もいないというのに、親や親戚からの支援で暮らしてる人間が多いこと。卒業後に最悪実家に帰れて幸せですね。実家を捨てる決断をしたのは自分自身だけど。「小さくて言葉が通じないうちは動物と一緒だから叩いて痛みでわからせる」親と暮らしたくないのはわがままですか。
それにみんな家族がいる。頼れる誰かがいる。これは毒親持ちとか縁を切りたい人にも共通するのかもしれないけど、親も親戚も頼れないと絶対的に信頼できる、戻れる場所がない。それを選んだのは自分自身だけど、結構苦しい。心のどこかで自分がされてきたような虐待を肯定している歪んだ人間がまともな人間と惹かれ合うわけもなく、この先ずっと孤独であることが見えてる。これについては愛玩動物と暮らすのが一番いいかもしれない、でも独り身に飼われる動物がかわいそう。もし飼い主が死んだらどうするんだろう。仏教にでも帰依するか?
こんなことを考えていると今まで友達と思っていたものが全て敵に見えて、ある日突然発狂した。その日以来中高時代までに築き上げられた人間関係はなかったものとして生きてる。SNSには懲りた。
ここまで強いコンプレックス?を抱えているくせに、お金持ちになりたいとか家族が欲しいという強い衝動もない。なんとなく、無意識のうちに、惨めで貧乏でいることが一番性に合っていることを知っているのかもしれない。惨めで貧乏な生活は、やってるうちはそんなに惨めじゃないし貧乏じゃないけどふとした瞬間に生きる意味を見失うからやばい。でもどう足掻いてもこのキモい人間性は変わらないし、キモい未熟さを抱えたまま上辺だけ取り繕って、明日からも家族と電話した、今度実家に帰ったら何をする、みたいなありふれた話題を笑顔で受け流していくんだろうな。多数派の普通の意見で勝手に傷つき、勝手にストレスを溜めネットにお気持ち放流すること以上にキモいことはない、分かってる。分かってるけどどうしようもない。
どちらも「これだけやったんだから」とそれまでにかけたコストを考えて離脱しにくくなる心理が働く。
新興宗教の教祖には、熱心な信奉者がいる一方、反発する信者もいる。
総じて信者からは、「変人だけどおもしろいおじさん」のように思われているらしい。
ソシャゲにもプロデューサーがおり、従順に従うプレイヤーもいればクソ運営などと反発するプレイヤーもいる。
しかしどちらも、ツイッターをフォローするなどしてプロデューサーの一挙手一投足に注目するし、インタビュー記事が出れば精読される。
プロデューサーは時々罵倒されながらも、あだ名で呼ばれるなど、結局「変人だけどおもしろいおじさん」という立場になっている。
https://mainichi.jp/articles/20230819/k00/00m/040/080000c
有料部分は読んでないけど、学術的論拠に基づいた正確な情報に難癖つけるのは報道の敗北みたいなブコメがトップコメだった
科学的にほぼ真水と変わらないレベルに薄まった糞尿下水があります
たまった下水を処理するためにこれをあなたの家の庭で常時スプリンクラーで撒きます
これを以前バキュームカーで事故を起こして糞尿をあたり一帯にぶちまけた業者と行政が言ってきました
これに科学的に正しいのだったら存分に撒いてくださいって皆が皆言えるかといったらそうではないでしょう
科学的に問題なくても元うんこは絶対に飲みたくないし自分の敷地には撒かれたくないって人は大勢いるよ
ここにあるのは「穢れ」への忌避感だ
科学的に得体がしれないから拒否してるのではなく、放射性物質に感じるのはそうした「穢れ」の感情であり、そういう感情を持つ人にとっては科学的正しさのみで帰依はできない
霊魂はいないと分かってても死んだ祖母の入る墓を邪魔だからという理由だけでなぎ倒せるかって話ですよ
そして、社会生活を送る以上そうした人たちと好む好まざるに関わらず共存するしかないのです
科学的正しさで帰依できないのはおまえが馬鹿だからだと分断を煽ってどうするんですがねえ
もともと自分の母方は姫路に本拠地があるので3歳から六甲おろしを歌わせてもらえる家庭でした
でも自分は物心ついたときから町田か町田の近くで育ってて 自分の中心になる球団ってやっぱり遠かったんです
それでも阪神ファンは心の拠り所でな(なんJの影響もある) ずっと視界のどこかで彼らの動向を追うてました
ある日 奇跡的に仕事が休みになる日があったんで「そうや!阪神の試合観に行こう!」ってなったんすわ
夜行バス往復とって でも行きの晩(昨日の晩)寝坊してね 朝始発で新幹線乗って行きました
関西に住んでる友達と会うて 宝塚で散歩してな 別れて で西宮のライト外野におったわけです
昔買うた平鍔のキャップ被って 黄色と黒のかわいいアウター来て 夢中で試合にかぶりついてました
ボールを打ってる人たちが僧侶や菩薩のように見えて ずっと手を合わせていました 応援歌も聴きかじりのを精一杯歌ってね 真言のように繰り返していたんです
そしたらね 急に天から言われたんです
「お前は今まで阪神ファンのファンやった。でもお前は今日ヅカに行ったやろ タワマンの中に美しい水の光る武庫川をお前の目で見た。それは洗礼と一緒や。お前はもう許され、お前の血は祖先の魂とともに一つの川に注ぎ込んだ。阪神ファンになってええ。甲子園にいるあいだはどこにも東京を感じなくていい。明日から関西弁を喋り 誰よりも選手名鑑を読み込んでな 家電を買うんやったら鶴川のJoshinに行け」
そう
もう元には戻られへんわけです
試合はボロ負けですわ あの野郎2発もホームラン打たれてな ホンマどないしよんねんもう
全ての人と悔しさを分かち合いたかった でもその瞬間が美しかった みんなが同じ気持ちになっているあの時間がきらきらしていた
試合のあと喫煙所に雪崩込んで知らないお兄さんと喋りました 叫びたくなったのでキャップを地面になんべんも叩きつけました
そして素戔嗚神社に手を合わせて怒鳴り込みました
「お願いします!!!!!あなたはずっと甲子園のそばにいて 私たちをずっと見守ってくれた やから絶望の底にあっても発破をかけてくれるのはあなたが一番やと思うんです どうか!!!!!!!
𝑯𝑨𝑵𝑺𝑯𝑰𝑵 𝑻𝑰𝑮𝑬𝑹𝑺を
日本で一番強い球団にしてください!!!!!!!!!!!!!」
本気で神様に祈ったことは 生まれて初めてだった 今日は救いの日だ 雨に打たれた後のようにずぶ濡れになって(全て自分の汗やった) 大声をあげて泣きました
ぎゅうぎゅうに詰まった甲子園駅に向かう群衆のなかで 僕は鳥取に住んでる仲のいい男の子に衝動的に電話をしました 電話越しの介抱も大変やったと思う わしはベロベロに酔っててな もうめちゃくちゃになってた すぐに電話を切って電車に詰め込まれました
あんなにスイスイ歩けてたはずなのになんにもわからなくて泣きそうでした どこからかジャズの音が聴こえてきて踊ってしまいました 魂のそこからわいてくる踊りです トランペットを吹いていたお兄さんに財布の小銭を全部わたして
日本じゅうの𝑯𝑨𝑵𝑺𝑯𝑰𝑵 𝑻𝑰𝑮𝑬𝑹𝑺ファンのみなさん 見えますか?聞こえていますか?
今日僕は 私は ワイは 全ての人格が あなたたちと同じく大いなる武庫川に帰依しました
佛 この土地と
いやお前なに神社に祈ってんねんという話ですけれどもね
愛しています
また戻ってきます
そしてその西、市川沿いに静かに暮らす私の祖母と、書写山の遠くの空に眠る祖父、散り散りになっても関西弁を話しつづける従兄弟たちに思いを馳せます
武庫川の、向こう側……w
光ARE