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2024-06-08

国会図書館デジタルコレクションで見る明治時代新撰組の扱い

明治時代新撰組庶民からどのように思われていたのかを調べるために、庶民の目に触れていそうな(?)雑誌記事だとか読み物だとかを抜粋していく。

明治10年『昔今豪雄見競鑑』

こちらは明治10年頃の「番付表」を集めた書籍のようだ。

『昔今豪雄見競鑑』は歴史上の英雄明治期の英雄を対比したものだが「都ノ猛勇 悪源太義平」と並んで「脱走ノ勇士 近藤勇とある

近藤勇ってどっかから脱走したっけ?と思ったが、幕府瓦解後の旧幕府軍のことを「脱走方」と言ったらしいのでそのことだろう。

同じく「古今英雄競」「本朝今昔英雄鑑」「古今英雄三幅対」などにも近藤勇の名が挙がっている。

このような番付でよく名前が挙がる程度には知られていたらしい。

明治16年『徳川義臣伝』岡田霞船

まずは近藤勇について。

近藤勇武勇衆に秀で当時其英名尤も人に知られり新徴組の隊長となりて始め京師に在り又大坂に退き伏見の戦ひ幕兵乱るる中より取て返し迫る官兵を追捲り銃丸足に当ると雖も屈せず大ひに勇名を現し江戸に返りてより諸士を煽動して甲府に至り勝沼駅にて寄手を破りしが遂に衆寡せずして敗軍なし残兵を率いて走りたるが官軍厳重に探索を遂流山に於て勇(いさみ)を捕へんとす勇(いさみ)力戦して縛に就き板橋駅にて斬せらる

新徴組と間違えられとるやんけ!

新撰組時代よりもその後の甲陽鎮撫隊時代のほうに力点が置かれた説明のような気もする。

土方歳三も紹介されている。

土方歳三幕府の旗下にして始め京師にあり伏見鳥羽戦争破れしより江戸に返り諸士を募り主家を再興せんと謀り軍議を決して榎本永井の人々と共に品海を脱し函館に趣き尚ほ奥羽の士を募り官軍の来るを待受屡々寄手を脳す然れ共官兵は新手を入替無二無三に攻立たるに脱兵防戦に尤も苦む歳三毎も真先に進み敵を切る数十人に及ぶ後乱弾にあたりて死すといふ。

新撰組について何も触れられてねえ!

とはいえ「義臣」と銘打っているだけあって悪いようには書かれていない。

明治18年『汗血千里駒』坂崎紫瀾

『汗血千里駒』は坂本龍馬主人公として、その名を一躍有名にしたという小説。その龍馬暗殺犯として近藤勇が登場する。

縦令ひ其不意を打ちたるにもせよ鬼神と呼ばれし海援陸援の両隊長をば斯く容易く一挙に斃し負せる其の手練と謂ひ肝気と謂ひ天晴れ日本一の剛の者と思はるるも実に理りなり彼の刺客は当時徳川将軍の御内に其人ありと聞えたる新選組の旗頭近藤勇等にてありしと

近藤勇とその腹心の土方歳三が、二人で近江屋に討ち入り、坂本龍馬中岡慎太郎を斬って、「そのとき義経少しも騒がず…」と高らかに謡いながら出ていき、今際の際にそれを聴いた龍馬が「あの刺客は只者ではない、彼らのような豪胆さがあってこそ大事を成せるのだろう」と慎太郎に語る、という描写があり、これがのちの様々な作品踏襲されていったようだ。

当時幕府の亡びなんとするは天の命なり民の望なり社会自然の気運なれば今は百の勇(いさみ)ありとも亦之を如何ともすることなきをば思はずして健気にも唯忠を己が仕ふる所にのみ尽さんとしたるは愚かにも又哀れとや謂わん

時代の流れに逆らって忠を尽くした健気だが哀れな武人…といった感じで「敵役でありつつ悪役ではない」という扱いに思える。

明治22年『女侠松竹梅』奥村玄次郎

偖は其方が近藤なるか。其方幕府を笠に着て国を憂ふる正義の士を多く害せし大罪人。此処で遇しぞ僥倖なれこれまで其方の手にかかり不幸にも寃に死したる正義の志士の忠魂を弔ふための復讐せん

お松・お竹・お梅という三人の娘が勤王の志士を助けて新撰組と戦う、といった話らしい。

こうしたいかにも勧善懲悪な読み物では「典型的な悪役」として描かれていたようだ。

明治26年『活文字』鈴木力・佃信夫

近藤勇の話

江川太郎左衛門が琴の譚に比らべて、劣る事なきは、近藤勇の謡なりけり、以て幕臣中の双美とこそは為す可けれ、左に説かむ。

武勇と剛胆とは、麾下九万の士人中、勇(いさみ)ぞ其第一位を占めたりける、さればまだうら若き身を以て、新撰組の頭領として、海内動揺の中心たりし京城鎮護の命を稟げ、一時其独力をもて、鷙悍狂躁の浮浪はらを打鎮め、幕廷擁護干将莫耶とは成りたりけり。

めっちゃ褒めるやん。

土方歳三は、豪邁不屈、肝気非常の男なれども常に勇(いさみ)を相輔けて、死生を共にせむ事を約し、巴港戦死の時に至る迄、其生前の交義を追想し、風吹く日雨降る夜ども、寒窓の下に俛泣し、時世は既に望なし、片時も早く、泉下に亡友を尋ねましとぞ歎ちけるとぞ、其人をしらまく欲せば、先づ其の友を見るべかる、この一斑の譚を見ても、勇(いさみ)が全豹をぞ推すに足る。

国粋主義系の雑誌らしいんだけど朝敵をこんなに褒めていいのか。忠義を尽くして死ぬ話がやはり好きなのか。

コラムの後半では坂本龍馬暗殺の話が書かれていて、この頃はやはり「龍馬を殺した男」という印象が強かったようだ。

明治29年『近藤勇の少年時代』中野三鷹子

『家庭雑誌』という婦人向け雑誌掲載されたコラムらしい。

著者本人が古老に取材したもので、幼少期の勇が近藤周助の養子に迎えられて「近藤勇」と名乗るまでを紹介している。

是より後のことは明治維新の史にくはしく、今更いふべき要もなし、唯其妻の事継嗣のことおよび処刑後の事并びに近藤勇と尤も関係ふかき土方歳三ことなどは、世に知られざるふし多しそは又時をかへて語らん。

として次号に「近藤勇の妻及子」、また別の号に「土方歳三少年時代」が掲載されている。

婦人雑誌でも「今更いふべき要もなし」と言うほど近藤勇知名度は高かったのだろうか。

花を浮べし徳川の流れの末荒浪立ち騒ぎて、二百六十余年は名残の夢となりける時、武士道の意気地を立て貫きて、板橋の草に赤きこころの血を染めたる近藤勇の名を知る人は、函館の浦吹く風に露と消えたる土方歳三の名を忘れざるべし。

かっこいい。

明治30年『幕府名士近藤勇』松林伯知

松林伯知は、永倉新八から『浪士文久報国記事』を借りパクした疑惑があることで知られる講談師で、新撰組講談主人公とした最初期の人物だったという。

巻末に「夢物語」と題した短編が収録されていて、それは函館に入った土方歳三が「公武合体成功した新政府のもとで陸軍を率いる近藤勇海軍を率いる坂本龍馬が仲良く会話する」という夢を見る、というifルート的な内容のようだ。胸熱

本編では、坂本龍馬暗殺したのは近藤勇ということになっているし、新撰組結成前に江戸近藤勇坂本龍馬が手合わせをしていた、というような場面も描かれている。

明治30年『坂本龍馬(名士伝)』竹林巌

少年世界』という、その名のとおりの少年向け雑誌掲載された坂本龍馬の伝記で、そこに近藤勇が登場する。

人と為り魁夷、斗酒を嗜なみ、勇悍独歩肝臼の如し。幕の末路に当り新選組の長となりて徳川氏の為め新日本の活舞台上に仇すること実に巨多なりとす。彼は常に歩百歩の外に潜行して西郷大久保坂本等を暗殺せんと睨むこと茲に年ありき。就中龍馬が大勇は向に新選組百有余人をして全く色なからしめ、以て其長たる勇(いさむ)の面目を天下に唾し去り。(中略)勇(いさむ)は今や血燃え、涙滾りて自から禁ずる能わず。すなわち刎頸の友、土方歳三を招きて何をか耳語すること久し。忽ち相頷きつつ頗る決色ありき。

として近藤勇土方歳三は、二人して坂本龍馬暗殺に向かうのだった、という筋立てになっている。暗殺の場面は『汗血千里駒』を踏襲している。

明治31年『新撰組十勇士伝』松林伯知

こちらも松林伯知の講談を筆記したもの

前述の『幕府名士近藤勇』には沖田総司永倉新八は出てこないが、こちらの『新撰組勇士伝』には登場する。

ただし、沖田が天才剣士だとか、そういうキャラクター付けはまだ無く、せいぜい「名前のある脇役」くらいの立ち位置のようだ。

芹沢鴨暗殺山南敬助切腹伊東甲子太郎との敵対池田屋事件などのエピソードはある。

また、こちらでは龍馬暗殺近藤本人ではなく「近藤勇の命を受けた佐々木只三郎」によるものということになっている。

京都見廻組佐々木只三郎らが龍馬暗殺したという説は明治2年には出ていたようなのでそれを取り入れたものか。

明治41年『二十世紀之京都』

京都観光ガイドブックらしいが、壬生寺についての紹介で新撰組言及がある。

節分には疫除祈祷の為め参詣者群れを為せり、去れば維新前後天誅組と称し近藤勇土方歳三など当寺に立籠り壬生浪士といへば婦人子供の戦慄せし当時を思へば御代太平を喜こばぬ者はない

当時の京都人の認識がうかがえるものの、「天誅組」といえば倒幕派武装集団なので新撰組とは正反対存在である

単なる勘違いなのか、それとも庶民あいだでは混同されていたのか。

明治44年『幕府名士近藤勇』『怪勇後の近藤』玉田玉秀斎

松林伯知のものと同じタイトルだが別の講談師によるものらしい。

こちらには沖田総司永倉新八斎藤一らも登場するが、池田屋事件の場面において、

中にも沖田惣司の働きに至っては実に目ざましい、此処彼処と戦ふて居りまする中に、最う最後と思ふ、折りしも何処からか一人の敵が、惣司の袖の下を潜って逃げんとする 沖田「己れッ………」と云ひながら躍りかかつて、エイッ……只だ一刀に斬って落とした、其の時に急に持病の肺患が起つて其の場に気絶をした

とあり、喀血ではないが、沖田総司の発病の描写があるのが興味深い。

同じ明治44年に刊行された鹿島淑男『新選組実戦史』(デジタルコレクションには1975年の復刊版しかない)にも同様の記述があり、そちらは新聞連載をまとめたものだというので、講談師が紙面で読んで取り入れたものか。

ちなみに『新選組実戦史』は吉島力『新選組顛末記』の元ネタで、『新選組顛末記』は子母澤寛新選組始末記』の元ネタらしい。

まとめ

明治の始めにはまず「近藤勇個人が知られ、「新撰組」はそれに従属する情報にすぎなかった。

・『汗血千里駒』によって坂本龍馬の人気が高まるにつれて、「坂本龍馬暗殺した男」として近藤知名度を上げた。

近藤の腹心として土方歳三が登場することは多かったが、それ以外の隊士たちはほとんど取り上げられなかった。

近藤は概ね「維新志士の敵ではあったが立派な剣士だった」と捉えられていた。

しかエンタメ寄りの勧善懲悪ものでは典型的な悪役を演じることもあった。

・やがて永倉新八の『浪士文久報国記事』などをもとに、近藤勇主人公とした講談が演じられるようになった。

明治末にはさまざまな証言資料が揃ってきてディテールが深まり近藤土方以外の隊士が取り上げられることも増えていった。

・やっぱり京都からの評判は悪かったらしい。

2024-03-27

anond:20240327202506

子供いるの?

石川五右衛門は「親子ともども釜茹での刑」に処されたというが、実際には油を敷いて煮た炒り煮であり、最初は子を抱いて自分は耐えていたが、火が強まるにつれて辛抱できず我が子を足の下に敷いてしまったらしい、という話が講談にて広められた

2024-02-28

anond:20240228120236

岡田さんの語りはとても優れた講談だと思います

元の作品見るより面白おかしく語っているのを聞く方が楽しめる時があります

2023-10-24

anond:20231024112440

BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。

後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。

経歴

出自は不詳である尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。

前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。

転生後

武将同士の一騎打ちとかスパチャしまくってよくBANになっている。

2023-06-08

anond:20230608164916

古典文学を探せばゴロゴロあるな(発表当時は純文ではなく大衆文学だったものも同様)

NHKラジオの「朗読」を聴く元増田が好みそうなものが割と出てくる

最近だと、織田作之助「雪の夜」とか、講談金子みすゞの生涯』とか、新田次郎「おとし穴」とか

2023-04-07

anond:20230407145209

キャラが立つ」というのはフィクションの基本中の基本なんやから

ラノベだろうが漫画だろうが映画だろうが講談だろうが神話だろうが

キャラおもしろくないと作品もおもろくないわな。

別に奇抜な設定をつけろとかそういう話ちゃうで。

キャラが型にハマらず生き生きと動けてるかっちゅう話や。

もちろん地の文だけで読者を楽しませる自信があるならやればええわ。

秋山瑞人みたいに文章が上手すぎてそれだけで読ませてしま作品もあれば

奈須きのこみたいに設定語りだけで楽しい作品っていうのもあるわけやしな。

ただ、文体に特徴がない、キャラが立ってない、

設定にオリジナリティがない、展開が予想どおりで起伏がない、

というのをグダグダやってたらそら読まれへんやろな。

2022-06-24

犯罪者物語にする意味わからん

平井権八

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB

1655年

死没 延宝7年11月3日

1679年12月5日(満23-24歳没)

別名 白井 権八 (しらい ごんぱち)

墓所 瀧泉寺 (比翼塚)

幕府 江戸幕府

主君 池田光仲

鳥取藩

小紫

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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本武士である[1][2][3][4][5][6]。講談浄瑠璃歌舞伎映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。

明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。

因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄太夫須藤太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原三浦屋の遊女小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたこから自首したとされる[7]。

1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。

これおかしいだろ。130人の未来を奪っておいて英雄気取りか。

2022-06-16

anond:20220616094607

講談社とか仲間内でキャッキャやってるのはいいんだよ。第三者が「講X社は暴力団」なんて書いたら完全アウト

スマイリーキクチネット中傷した奴も、愛の葉GIRLの遺族をネット中傷した奴も損害賠償請求されてる。

がんぼ ナニワ悪道編 - 東風孝広/田島隆 / 第七十三五代目 ...https://comic-days.com › episode

大阪講談

anond:20220616094146

講談組が登場する漫画が回収になったら考える

2022-04-26

たわわ問題の言いぶん完全に理解した

たわわ広告の件、問題あり側の言いぶんを完全に理解した

なお理解はしても言いぶんが通るとは言っていない。

まず第一にこれは差別問題として考えるべきなのだと思う。

ここももちろん異論があるだろうと思うけど

少なくとも問題あり側としては前提条件としてそう考えているのではないだろうか。

ここで、差別問題として考える参考に別のケースを示したい。

アイヌ民族について、講談家かなんかが謎かけを披露して大問題になったケースだ。

アイヌ民族とかけて、四足歩行動物がそこにいたことに気付いた言い方を絡めてしまった。

テレビ局社長までもが平謝りする大問題

ネット逆張り芸人にも発言擁護する意見が見られないほどの非難一色。

完全にクロ、ド直球の差別発言認定されたといっていい。

でもこれ、四足歩行動物がそこにいたことに気付いた言い方そのものは、もちろん放送禁止でも何でもない。

ただただ、


この2点がともなって、満場一致差別発言だったということになる。

ここで大事なのは、単体では問題にならない表現文脈次第では擁護不能差別表現になり得るという点だ。

若干強引に要約すると、


ということになるが、これをたわわの件に当てはめてみよう。


とやや強引に問題点を補強せざるをえないのだが、

単体では問題にならない表現文脈次第では擁護不能差別表現になり得ることを踏まえると、

問題視しない方がおかしいという意見理解できると思えないでもない。

たわわどころか宇崎ちゃんも含めて、この手の案件のすべての根底にある、

女性側の"被差別意識"のようなものの基盤が見えてくるような気がしないだろうか。

特に女性差別に敏感な女性としてみれば、

という点で相似形にあたるのではないだろうか。

それにしても無理筋だと思っていることはくれぐれも誤解しないでもらいたい。

だが、差別問題として捉えていればこそ引けないという点はわからなくもない。

広告ダメとか媒体ダメとか理念ダメとか主張は様々あったが、

特定の条件下で不適切とされるケースがあることもあることは確かで、

広告や、媒体や、理念不適切だという意見個別撃破したところですべての言いぶんを否定できるものでもない。

さて、ここまで問題あり側の考えを想像して書いてきたけど、

問題なし側というか、問題にされても困るよ側としても同様のことが言える。

上の理屈苦し紛れ場所定義を追加しているわけだが、

宇崎ちゃんしろたわわにしろ漫画の内容にまで踏み込む人が少ないことの説明が付かない。

さすがにド直球の表現規制にあたることがわかっているのか、

大部分はオタク文化の中でやってる分には問題視しないという暗黙の了解を持っているようだけど、

コミュニティの中でなら問題にならないことを

コミュニティの外に持ち出してくるなというのはまさに差別によくある言いようだ。

オタクの側からしてみれば、

オタクこそが現在進行形で(しばしば認識すらされずに)差別されているという意識が少なからずあるので

やはり引くわけにはいかないのだ。

ともかく、相手側にも一定の理があるという理解必要だと思うんだ。

意見が合わないことは致し方ないにしても、お互いの理解が一分でも進むように議論を進めていければいいなと思っている。

いろいろつっこみどころもあると思うけど、面倒になったのでここまで。

ちゃん筋道立てて結論まで書くの難しいな。

2022-02-24

anond:20220224222029

俺らのバックには集英組がいるんやでと名乗るチンピラ講談組がいるんやでと名乗るチンピラケンカしてる

のと

集英組組長が直々に抗争を宣言した

の違い

2022-01-17

オーディオブックもっと一般的になって欲しい

デスクワークマンなので作業に目を使う関係上、目を使うコンテンツは集中して楽しめない問題があるので、目を使わないコンテンツオーディオブックもっと一般化してくれないと困る。

ASMRもいいけど、女子もっと書を読んで講談に励んでくれたりしないだろうか。普通に需要あるぞ。

2022-01-13

ASMRでシチュエーションボイスやるよりも、単にアニメ声講談聞きたい

秘密日記を延々読むようなタイプのASMRを聞きたい。そういうのない? 兄妹ものだともっといい。

2021-12-19

anond:20211219215023

今年の正月の新春お笑い特番で、講談源平合戦那須与一が弓で平家方の船上の扇を射抜く場面の語り芸を、林家三平(前半部)と神田伯山(後半部)の二人にやらせていたけれど、素人目にも雲泥の差だった。もちろん、雲の方が神田伯山。

あれは、おそらく林家三平の実力がいかに低いのかを衆目に知らしめるために仕組んだ演目だと思う。

笑点メンバーに選ばれたのも海老名家の政治力があったからで、元々落語界の現場では低評価で、笑点メンバーから拒否されたんだと思う。

2021-10-24

実際問題として、(六代目)神田伯山が弟子に「伯」の字を含んだ名を付ける事は可能なのか?

2006年に死去した六代目神田伯龍の遺志で「伯龍及び、伯の字のつく名は、止め名とされている。」という事実無視している事にならないか?と考える。

この事実を踏まえるならば、伯山は自分弟子に対しては「山」の字の付く名を与える事は出来ても「伯」の字の付く名は一切与えてはならないと解釈するしかない筈。

本人は直接この事に対して見解を述べているわけでは無いが、類似の「7代目圓生襲名問題」等の言及を見るに、「止め名」に対しては批判的なスタンスを取っている。

(代々受け継がれたてきた名跡を当代の勝手な都合で「死蔵」してしまう事は演芸界にとって良くない事...etc)よって、おそらくは「講談師としての伯龍先生尊重するけど

止め名」という処しには講談界の行く末に際し責任を持つ立場にある者としては賛同しかねる。」というスタンスだと考えられる。ゆくゆくはこの件について一言及あるやも

知れない注目している次第である

2021-05-12

anond:20210512143613

ずっとクライマックスから結果的プロットに対する感情的応答がフラット(というより、プラトー)になる、ということではないのかなあ。書き手側は意識して読み手快感を刺激し続けるように物語素を羅列してると思う。

それはそれとして「神話叙事詩、あるいは講談に近い」という対比はとても面白いね。なろう系サイトで、構造主義的な意味での物語の変換が繰り返されてると思えば楽しくなってくる。テンプレ系をメタ化するやつとかも、この変換に近いところがあるのかな。

anond:20210512142906

なろう系はむしろクライマックスが少なくてずーっとフラットでロングスパン物語だよ。それこそ神話叙事詩、あるいは講談なんかに近い。短い話をいくつも繋ぎ合わせて毎日聞かせるための形式

2021-04-30

本牧亭講談が聴けないのはおかし

俺の婆ちゃんが好きだった小金井芦州の国定忠治伝とかさ、宝井馬琴寛永馬術とかさ、講釈場がもうないし寄席の客席の雰囲気込みでもう聴けないワケよ。

2021-03-08

anond:20210308191320

増田です。

増田の主張は結構一理あるんだが因果が多分逆で、増田の言うバカ教育を受ける機会に十分に恵まれない人)でも文章が読み書きできるようするために言文一致が求められたのではないだろうか。

明治時代の「国民」創出の中での義務教育で、日本漢文に近い読みは効果的ではなく、その時代の発話に近く、かつ公用で使える表現が求められたのだと思う。

からむし小説講談よりも、新聞雑誌などが言文一致を担ったのだと思う。そうしたフォーマットを用意することで、初めてバカ教育を受ける機会に十分に恵まれない人)は書く機会に恵まれる。

形式がないと、増田の言うバカ教育を受ける機会に十分に恵まれない人)は自分から書けないのだと推測します。

そして事態を難しくさせていることは、以外に文語文が時代の洗練を経て便利だったと言うこと。結構生き延びる。

こちらもまた、高等教育になるのだろうけれども形式に慣れてしまえば文語文もまた利便性があったのだろう。

専門じゃないけどそんなふうに思っています

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