はてなキーワード: 大往生とは
やっぱりトップバリュのルウはまずいなあ
辛口だと辛さでごまかして本当にギリギリ食えるレベル つーかギリギリアウト
んで1週間ぶりのシャワー
がんばった
やっぱり気持ちいいな
頭がかゆくない・からだがくさくないのはいいことだとわかってるんだ
今せんたっきまわしてる
いまから干したら乾かないとは思うけど
いや無理かなー昨日雨だったしなー
きょうも くもり だし
まあやるだけやおう
せんたっきまわさないよりマシだ
それにしても洗濯3週間ぶりだけど、
ヒャッキンでパンツ買わなきゃ
ユニクロだと3枚1000円が最安だし、どうせ使い素手だからヒャッキンでいいんだよな
いまのもそうだし
でもいまのとこひっこして2,3年でだめになったのは、
ほしっぱでいたんじゃった可能性が高いと思ってる
かわいたとおもったら、もしくはもう少しで乾きそうくらいになったら、
しごといくまえにとりこんだほうがいいな
偶にではあるが、5年程前に亡くなった実家の犬が亡くなった時のことを考える。
大型犬の14才という大往生で、繊細で優しい紳士ぼくちゃんだった。
オヤツをもらう時や夜のお散歩で帰宅中の私と鉢合わせたとき等の、優しいビビりちゃんならではの、線の細い穏やかなニコニコ顔に今でも救われている。
ぼくちゃんは、私が横にマットを敷いて様子を見つつうたた寝をしている間に静かに亡くなっており、なんなら硬直も少し始まっていた。
今思うと静かに逝きたかったのか、寝ている隙を狙われた気がする。。
何にせよその瞬間、大きな何かが底なしの先へ落ち続けていく感覚になり、自分が空洞になったようだった。
今はその時の事を筒か空の容れ物で例えている。
その時の感覚を反芻するうち、何かがなくなったということは、そこにあの子がいたという何よりの証拠じゃないかと思い至った。
悲しい寂しいという気持ちも、それだけあの子が自分にとってかけがえの無い存在の証明で、それがどれだけ尊いことなのかと。
もにょもにょ考えるうち、この感情もあの子がこの世にいた確かな証だと思うと愛おしく感じ、悲しい気持ちも大切にしようと思った。
飛躍した所もあるが、自分としては綺麗に気持ちの整理ができたというか纏まってくれて、そこに思い至った時に自分でも驚いた。
今までもこれからも、この感覚を大事にして、わたしは大切なものと出会いたいし、それらの容れ物でありたい。
ちゃんと寝よ。
喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
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戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
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一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?
猿も木から落ちる、みたいな、たしかにそういう現象あるよね、そこから教訓が導き出せるかもね、ってタイプの根拠のあることわざはまあわかるんだが。
可愛い子には旅をさせよ、みたいななんの根拠もないことわざが好きなんだよな。
根拠が無いのにことわざのフォーマットを利用してるから説得力だけはあってバグっちゃってる感じが好きなんだわ。
可愛い子を旅に出しても実際は殺されるかもしれないし、家でていねいな教育を施したほうが出世するかもしれないわけじゃん。
チンパンタラコの言い方を借りれば「なんかそういうデータあるんですか」って話だよな。
実際、「可愛い子には旅をさせよ」って思わない人も多いから警句としてそういうことわざがあるわけでしょ?
だったらデータで話をすべきであって、ことわざに頼るべきじゃないよな。
これがことわざなのかはわからないけど「天網恢恢疎にして漏らさず」も好きだなあ。
天の網は抜け穴があるように見えるけど実際は通すべきでないものを通さないようにできている、つまり悪人にはかならず報いがある、みたいな意味だな。
なのに見てきたかのように「疎にして漏らさず」とか言ってるわけでしょ。空想の二段重ねじゃん。
めっちゃ好きだわ。
まあ天網ってのが比喩なのはわかるんだけど、それにしたって極悪人が大往生する例なんていくらでもあるわけで、根拠もなければ事実でもないわけじゃん。
「天網恢恢疎にして漏らさず」みたいな思考って公正世界仮説って名前が付いていて、歪んだ思考の典型だよな。
老子とかいう中国の謎のオッサンの言葉らしいけど俺からすればワンパンだろwって思うわ。
「二度あることは三度ある」とかな。普通に二度で終わるパターンもあるだろ。
繰り返しになるけど、なんの根拠も無いのにことわざのフォーマットを使ってるから説得力だけあってバグっちゃってる感じが好きなんだよな。
そういうのあったらおしえて。
祖父は私のことが大好きだった。
小さい頃は近所の公園まで連れて行ってくれて、もう少し歳が大きくなると自転車の後ろに乗せてイオンまで連れて行ってくれたり、お祭りに連れて行ってくれたりしたことをよく覚えている。
夏休みはほとんど親の実家に帰る家だったから、子供の頃の夏の思い出は大体がこんな感じだ。
私が20歳くらいの頃だ。
祖父祖母父母私で食事に行った。4人乗りの車だったので、私だけ自転車で店まで行き帰りをすることになった。店も自転車で20分くらいだし、仕方ないことなので特に何も思わなかったのだが、車で帰ったはずの祖父は私の帰りを道の途中で待っていてくれた。
心配だったのだろうか?まさか待ってくれているとは思わなかった。いいのに、と思うが同時になんて優しいんだろうと感動した。かなり印象深い思い出の一つだ。
そんな祖父も、近年は認知症を患って周りの人間のことを忘れたり、思い出したりしていた。詳しくないが、進行はかなりゆっくりだったのではないかな、と思っている。
私はもうアラサーになっており、さらに一人暮らしをしている。なかなか祖父と祖母に会いに行くのは難しくなっていたので母が実家に帰ったタイミングでビデオ電話で少し話したりしていた。
母が祖父に「この人誰だか分かる?」と聞いた。私のことだ。「わからん。綺麗だなあ」と言った。
私のことを忘れていたことが辛かったのもあるが、それでもまだ私を褒めてくれるんだなという思いでグチャグチャになって通話を切ってからおいおい泣いた。
私の名前は覚えているけど…と言っていたところもまた嬉しいような悲しいような気持ちになった。
去年会いにいった時は私のことを時々思い出していて、テレビ電話と実際に会うのでは違ったりするのかな?と思った。よく分からないが、たまにでも思い出してくれてたのは嬉しかった。
周りの人のことを忘れたり思い出したりする祖父は、性格こそ穏やかだったし前と変わらなかったように思うが、私と遊んでくれていた頃の前の祖父とは厳密には違う人だったのかもしれない。
でも、あの頃の祖父と会えなくなることと、もう祖父とは会えないことはやはり全く違う。
詳細は聞けてないが、おそらく老衰のような感じなのではないかと思っている。大きな病気はしていなかったはずだ。
それで90近くまで生きられるのはなかなかにすごい事だ。
なので、良かったなあと言う感情で悲しみを和らげることができるのはありがたいことだ。
まだ心の整理はついてないし、ふとした時に祖父との思い出を思い出して涙ぐんでしまう。本当にかわいがってくれていたなあと改めて思う。私も祖父のことが大好きだった。
お葬式には行けなかったが、今祭壇に囲まれる祖父の遺影なんて見ようものなら号泣してしまうだろうから行けなくて良かったと言う気持ちが少しある。四十九日には行く。
父方の祖父は私が小さい頃に、祖母は中学生の頃に亡くなったので、親族が亡くなるのはかなりひさしぶりのことだった。友人や知人を亡くしたこともない。ペットも金魚しか飼ったことがない。それも小学生の時だ。
人と比べたことがないからわからないが、どっちかと言うと死に触れることが少ない人生のような気がする。
私はもういい大人だが、大人になったからと言って辛い事や悲しい事とうまく折り合いがつけられるようにはなってない。
自分は自分の地続きでしかないんだなあと強く思った。当然のことなんだろうが、考えたことがなかった。
50になっても80になっても同じように大切な人の死はつらいんだろう。
だから毎日を大事に生きようとか周りの人を大切にしようとか、やっぱりそう言う結論になるんだけどそれがなかなか。前者は特に。仕事をしてたら無感情のまま1日が終わっている。難しいな。
今の気持ちを書き起こしておこうと思ったので、めちゃくちゃだが終わり。
間違い電話の折り返しで母と話したとき,祖母が数か月前に亡くなっていたと教えられた.
祖父はかなり前に他界している.祖母は一人暮らしで痴呆症も進行し,介護施設に預けてから大分経っていた.
最期は呼吸が困難になり苦痛でのたうち回った.母は何度も病院に呼び出され最終的に看取りはしたが,火葬などの手続きは叔母に任せたそうだ.
年齢的には大往生と言ってよいのだろう.祖母には末っ子の一人っ子として幼少の頃は大分可愛がられた.
母から伝え聞いた話によると医者を志していた才女だったようだが,時代や親族がそれを許さなかったそうだ.
おぼろげながら思い出せる会話からも教養の片鱗は覗かせていた.
2DKの狭い実家にほぼ毎年帰省してはいたが,親子間の関係はかなり冷え切っていたように思える.
理由ははっきりしていて,母は幼いころ大叔父にレイプされたそうだ.
母は我慢強い性質ではあるものの,全てを隠しとおせるほど強靭ではない.
当時も周囲に告発したものの,祖母,つまり実の母には「お前が股を開いたんだろ」と言い捨てられたらしい.
そのときの母の絶望は想像に難くないが,当然ながらそのやり取りは姉弟にも知られ,親子関係は破滅した.
私はその経緯を学生の頃,母から涙ながらに電話で教わる.まさに青天の霹靂だった.
因果関係は不明だが,母は障碍者手帳を持つ程度には重度の双極性障害で,私は虐待を受けていた.
短気で仕事に没頭しがちだった父と母は相性が悪く,離婚していないことが不思議なくらい夫婦仲はよろしくない.
小学生の頃,母に連れられ不倫相手の家に泊まったこともある.当時はポケモンカードを買ってもらい口封じされる程度には単純だった.
いつしかその行為も終わったが当時専業主婦だった母は精神を病み,私を風呂場に閉じ込め,叩き,包丁でお気に入りの自転車のサドルをめった刺しにした.
私は逃げるように県外に進学した.小中高大院と全て国公立だったが塾に行かせ,学費も負担してくれる程度には父は稼いでいた.
勉強や研究は楽しかった.指導教員にも恵まれ,JASSOの奨学金も返済免除となる程度には業績も評価された.そこに件の電話が来た.
私は病んだ.祖母を憎悪し,母を憎み,父を恨んだ.祖母に無邪気に懐いていた自身も悍ましく思った.
ほどなくして不登校となり,カフェインのLD50を調べエスタロンモカをがぶ飲みした.ブルーシートを敷きドアノブを使って首を括ったが死ねなかった.