はてなキーワード: 咀嚼とは
好きだったものもたくさんあるけど、何を吸収するにも脳が疲弊していて受け付けなくなった
そんな老い萎びた俺だったが、あるときKPOPに出会って、日々の生活にわずかな癒しが生まれた
今、俺はKPOPが大好きだ
歌詞のすべてが何言ってんのかさっぱりわからないから、言葉の意味を考えようとしなくて済み脳が疲れない
邦楽も洋楽も、歌詞の意味を脳が咀嚼しようとするから2,3曲聴くだけでもうぐったり
かといってインスト曲はつまらないから聴く気はしないし(個人の感想です)
KPOPは若者が聴くものだと思って敬遠していたけど、俺のような疲れきったジジイにも向いていることが分かった
たまにグローバル進出したアイドルが日本語曲や英語曲を出してるので、それは聴かないようにしている
疲れるから
はてなブックマーク、浅薄で声の大きい人が増えすぎ、早期に登録されスターを集めたコメントだけ目立って、低レベルのイデオロギー対立の場になってるんだね。情報を咀嚼しない・知識もない・思い込みの書き込みが多く独特の息苦しさがある。
特に男女対立のトピックは悪い意味で盛り上がるようになってきてるね。
余裕のないユーザーが増えてるんだろうか。金銭にというより、精神的に。家族を持つことが贅沢になって、加齢で行き詰まりを感じている孤独な高年齢のユーザーが多いのだろうか。分断工作もあるのだろうか。
昔は、ニュースサイトだけじゃ見えてこない見解、多面的だったり深掘りだったりする情報に手軽に触れられる場だと思ってた。私のような情報のツテが少ない人間には価値があったんだけどなあ。
増田にいる奴らは知らないかもしれないが、Minecraftっていうゲームがあって、そこにはピストンっていうブロックがある
ガシャガシャ鳴るのが特徴なブロックなのだが、今回のアップデートでこの音が変わった
https://x.com/abc_kuma1025/status/1790746910074282061
んで、この音、大規模な装置で動かすとこんな感じの音になる。水音とか咀嚼音っぽい感じ?
https://x.com/TomcoYT/status/1790759528675397991
これがまぁ不評寄りで、「シープマシーン(羊のケツを掘る機械)が強化されるアプデ」だの「オナニーみたいな音」とか、「ついにマイクラにセックスアプデが来たか」とか散々な言われようである。
だが意外と好きな人もいるらしく、「前より好き」 「マイクラは懐古厨ばっかりだからいい変更でも反発される」 「最高のアプデ」とか言ってる人もいるので正直分からない。
自分はまぁ変更するのはいいけど、技術的な観点から前の音は残しておいてほしいし、あと今の音はちょっと水音っぽすぎるのでちょっと考え直してほしい
神座というラーメン屋でゆずラーメンと半チャーハンと餃子を食べた
最近ってラーメンだけで1000円行って合計1500円もしたわ
ラーメンは野菜も蒸し鶏も多く、ボリュームがあったのでラーメンだけで十分だったかもしれない
なんとか汁も含めて完食できた
ゆずが爽やかでおいしい
咀嚼していると普通のチャーハンなのだが、口に入ってすぐが妙に甘みを感じさせる
なんだろうこの甘さはと思いめぐらせ、ミスドのオールドファッションに近いかもしれないと思った
なんか一口目、口に含んだ瞬間に妙な甘さがある
あれはなんだろう、チャーハンを食べてあの甘味を感じたのははじめてだ
ゆずとか、餃子のラー油とか、そこらへんの後味と結びついたことで生まれた甘さなのか?
水で一旦リセットしてまたチャーハン口に含むと、やはり入れた瞬間だけ甘い
なんだろうこれ
前回のブコメでオススメしてくださったゲームは遊んでいるものもあれば、遊んでいないものもありますが、どれも参考にしていますし、いつか遊ぶと思います。
なので、また何かオススメがあれば書いてくださると嬉しいです。
51〜65はこの記事
ダンガンロンパシリーズ完結作で、突然集められた超高校級の才能を持つ面々が殺し合いゲームを強要されるデスゲームものにして、その殺し合いの加害者クロを見つける学級裁判で謎を解くミステリゲーム。
テキストを主体としたゲームとしては3作目とマンネリし始めるナンバリングだが、全くもってそんなことはなく「嘘」をテーマにした幾つかの事件を今まで以上の絶望さで描いている。
特に超高校級の総督王馬小吉にまつわるエピソードは圧巻で、歴代作品を踏まえて「絶望対希望」は「嘘対真実」の言い換えだと無邪気に信じていた気持ちを粉砕させられた。
ダンガンロンパシリーズはこの作品以降はファンディスクのようなものしかリリースされていないが、なるほど確かにこの後に単純な4やV4をリリースするのは難しさがわかるのもシリーズファンには賛否がわかれる内容だった。
このシリーズはアニメ版の「3」で絶望して少し身を引いていたのだが、改めてこのV3を遊んで、やっぱりダンガンロンパは最高だなと思いを改めた。
公称ジャンルは百合要素を含むミステリーで、物静かで落ち着いた女性のサチと、元気で朗らかなタカコのカップルの関係値の変遷を追うノベルゲーム。
日常の動作、食事、自然の豊かさ、季節感などなどの風景や情景の描写に文量が大きく割かれているのが特徴的で、淡々と進む中で彼女たちが何を感じたのかを、咀嚼するように読み解いていく。
そんな平和で楽しい内容が、あるタイミングで突然ガラッと風景を変え、死と向き合うことの難しさ、生き続けることの意味などを問いかける哲学的で幻想的なストーリーに変化していく。
ものすごく大好きで愛してる作品だけど、面白いというよりは、考えさせられるというか、このキャラ達のことをずっと延々に頭の隅で思い続けることになっているような、それぐらい大きな作品だった。
文明が崩壊した世界で何故か稼働中のVRMMORPG「アーキタイプ・アーカディア」を遊ぶ人達の思想がぶつかり合う、火傷しそうな熱意が伝わってくる熱血ノベルゲーム。
ゲームは遊んでおらず食糧も水も希少な世界で必死に暮らしているルストと、その妹でラスモス・ゾティーラ・トゥーラッカという独自の挨拶でゲーム内で仲間を増そうと頑張っている妹のクリスティンの二人で始まった旅がどんどんと広がっていく壮大さが魅力的。
テーマの「ゲームは楽しい」を伝えるために様々なプレイヤーと対決していくのが、まさに楽しいゲームで、ゲームを遊ぶゲームというメタ構造になっている云々と言った小賢しい理屈を跳ね除ける沸る激情が最高に楽しいゲーム。
可愛いヒロインも沢山登場するのでそういう方面でも面白く、特に僕はコロネちゃんがダントツに大好きで、専用ルートのその先を妄想して悦に入ることがある。
1980年代後半近代化が進み発展する街「三咲町」を舞台に、電話すら知らないほど田舎から引っ越してきた静希草十郎が、魔法使いを自称する二人の少女と出会うボーイ・ミーツ・ガールもののノベルゲーム。
まず目を引くのが非常に作り込まれたルックで、立ち絵と背景絵、その上にかぶさるテキストウィンドウという一般的なノベルゲームでありながら、表現の幅がとても広い。
ストーリーも田舎に住んでいた主人公が、街に慣れることを通じて、近代的な社会とそうでなかった時代を浮き彫りにしていき、当たり前に享受している一般的な水道や電気や貨幣すらも、近代化の恩恵であり当たり前ではないエピソードが手を変え品を変え繰り返し語られるのが、情緒的な染みるように楽しい。
この情緒的ながら近代日本では当たり前のストーリーと、新伝奇ものらしい魔術を使った異能バトルのストーリーとが、静希草十郎にとっては同じだけ異質なものなのが、面白かった。
(なお、ちょうどまさに今このとき、スマートフォンで遊べるガチャ形式の運営型ゲームFGOで、彼女たちのアフタストーリーが読めるそうなのだが「ガチャを我慢する」という脳の回路が焼け切れ、貯金や手を付けてはいけないお金をあっさり使い込んでしまった過去があるので、僕は遊べないのがモドカシイ)
怪盗、探偵、警察、盗人、泥棒と正義と悪が入り交じる登場人物たちの中、ハートとため息を盗む怪盗ミスアルテ共に盗みを行っていくクライムサスペンス。
フィクションらしい痛快さに振ったリアリティラインながら、この世界観の中でも丁寧に盗みを行う段取りを立てるパートがあるのが非常に好印象。
自分たちが犯罪者であることを認めながら、法では救えない大切な人のために死力を尽くす怪盗たちの生き様が格好よくて滾る最高に面白い作品。
そんな怪盗たちですら挽回不可能に思えた最後の盗みの仕掛けは、まさにハートとため息を盗まれた爽快さで、思わずコントローラを握る力が強くなりすぎて、スティックを壊してしまうほどだった。
○大好き
陽気なミスカと陰気なスバルの対照的な二人の友人関係が、無垢で人形のようなルウが転校してきたことから大きく変化することになるノベルゲーム。
学校で熟成される閉鎖的な人間関係と、思春期らしい堂々巡りを続ける自己言及を、丁寧な心理描写と情景が伝わってくる幻想的な精神世界の問答で文章を魅せるタイプの作品。
女の子同士の三角関係のように見えて、早々にミスカの好意は豪快に空回っており、スバルはミスカのことを全く好きではないと、二人の視点シーン毎に同じエピソードを描くことでそれがわかる構成が読んでいて辛い。
楽しいとか面白いような前向きな感情で読める作品ではなく、思春期の女子高生の自己問答の末に得られた後ろ向きで退廃的な選択が、三人の関係値を歪めていく悲劇を読ませる作品だった。
父親の実家がある田舎に帰省した羽藤佳が、その田舎にまつわる伝説とそれを取り巻く異能のものたちと交流していく、和風伝奇ジャンルで女の子同士の恋愛を表現するノベルゲーム。
まず伝奇ものとしては、歴史にまつわる蘊蓄や衒学趣向的なやり取りが多いが、それが少しづつ大きな設定の開示に繋がっていくのがワクワクする。
主人公の羽藤佳は異能こそあるものの直接的な戦闘能力はないため、ヒロインたちに頼ることになる恋愛の導入が、アカイイトらしさだ。
バッドエンドの豊富さも面白く、バッドと言いながらメインルートとは異なる選択を魅力的に描いており、最初から最後まで飽きずに楽しめた。
琴を演奏する筝曲部の熱血部活ものパートと、数十年前の女生徒同士の心中事件を追うサスペンスパートが混ざりあったノベルゲーム。
仲間との和を大切にする鈴と、演奏技術に重きを置く有華の二人の女性が対立しながらも関係値を育てていくのだが、こちらのパートは琴の演奏に関するやり取りが多く、甘い恋愛の要素は少なめ。
対して、数十年前の心中事件の方は、終わりが心中だからこそ、はっきりと恋愛の要素があり、そこに至るまでの過程は辛いシーンもあれば、甘いシーンもある。
主人公の保護者であり老齢の尼、十六夜妙蓮さんの大活躍はすごく印象に残り、もう一人の主役といっても過言ではないだろう。
ポケットモンスターの世界観をテキスト主体のアドベンチャーゲームに仕立てるシリーズで、2018年の名探偵ピカチュウから5年ぶりの続編にして、完結作品。
バトル以外の生活の場におけるポケモンの生息が魅力的で、それを映像でなく文章で楽しめるのは唯一無二だ。
これはもう他の作品と違って客観的な評価は完全に捨てるしかなく、ポケモンは実在する、ポケモンと生活したいなどと、ポケモンへの思い入れがあるからこそ楽しめる作品。
肝心のストーリーについては、実写映画版が先取りしていたせいで、サプライズ展開がサプライズになっていないのが気になるし、これほど間が空いてしまうと期待度も相応にあがってしまう、可能なら短編を定期的にリリースしてほしいが、難しいかなあ。
海面上昇が止まらず住む場所を失った人が多くいる近未来の日本の離島を舞台に、超エリート校に通っていたが夢破れて戻って来た斑鳩夏生が、アンドロイドの少女アトリと交流する恋愛ノベルゲーム。
主人公の斑鳩夏生はめちゃくちゃ優秀で頭の良いカシコなのだが、とある事情により左足がなく、精神的にも不安定なので、生きづらい描写が開幕からは続く。
しかし、美少女アンドロイドのアトリによりそこが一変し、彼女が左足を補い、精神的な不安定さも補いとサポートすることで、どんどんと前向きになり、社会基盤が大きく変化した田舎町でその頭脳を活かしていくのがワクワクする展開。
この頭脳で手の届く範囲の人たちを救っていくシーンは非常に前向きかつ地に足がついた展開で、大好きな丁寧さだった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーのシリーズ第三弾で、怪異の噂を横スクロールのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
死印の直接的な続編で、主人公や他の登場人物も共通しており、ストーリー的にもそれを踏まえての悩みや成長が描かれるので、必ずそちらを遊んでから遊びたい。
前々作では怪異に振り回されてばかりの主人公だったが、今作では一転して、怪異と立ち向かうことに強い哲学的な回答を持つことになる。
ホラーの恐ろしさや恐怖を煽る部分に着目しがちだったが、ストーリー的に感動するポイントが多くあり、とてもおもしろかった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーのシリーズ第二弾で、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
前作とは同じ世界ではあるが、登場人物は異なっているので、設定を飲み込めるなら今作から遊んでも問題ない。
アウトローを自称する鬼島空良とその仲間たちが怪異と戦うストーリーだが、単純な腕力では倒せないので、現場を操作し証拠品を集めて、知恵を絞って敵と対峙するシリーズの骨子は共通している。
前作よりもブロマンスな傾向が強調されており、主人公の鬼島空良と、親友にして反社会勢力の天生目聖司との持ちつ持たれつの関係値が面白かった。
キャラのポリゴンが常にステンドグラスが透けて見える、特徴的なルックが目を引く、キャラクタの演技主体のアドベンチャーゲーム。
閉鎖的な隠れキリシタンの村の中で、正道とは大きく変化した異質なキリスト教をテーマにした、宗教にフィーチャーした作品。
前半こそ村人との楽しい交流や名産品に舌鼓を打つ展開などコメディ要素も多いが、中盤からは宗教を信じることの覚悟を問うような重苦しい展開が続く。
タイトルの意味がわかる、とあるキャラの慟哭シーンは、思い出すだけでも気が重たくなる悲しい作品だった。
全国の小学校から落ちこぼれだけを集めたガンバレ組の面々がデスゲームに巻き込まれることから始まる、アクションゲームとテキストを読むパートが融合したアドベンチャーゲーム。
息をつかせぬ展開が魅力で、一転二転、七転八倒、とにかく次から次へと設定の根底をひっくり返すような、サプライズ展開が目白押しで最後まで遊べる。
そんな中でもガンバレ組の絆の深さ、彼らが分かつ事ができない強い関係であることを信じれるようになってからは、痛快なストーリーが続くのも楽しい。
アクションゲームは若干とってつけた感があるとも思うが、ガンバレ組の得意な能力をゲームっぽく表現できているとも言える、かも。
転校生の主人公が複数の美少女たちと恋愛しつつ、100年に一度死から蘇る謎の現象を追う伝奇サスペンスの要素もある、ノベルゲーム。
恋愛部分は正直前フリ感が強く、伝奇パートと関係が薄いヒロインたちのエピソードは薄めで、関係が濃いヒロインは濃いと、濃艶がはっきりしているのは好みが分かれそう。
死から蘇った人間は周りの人間の記憶の整合性を操作しながら生きながらえるため、どうやってその蘇った人間を見つけるのかのフーダニットの段取りが、ミステリしていて面白い。
設定こそ新本格作家のアニメ化もした某作と似通っているが、ゲームならでは仕掛けやミスリードがあり、しっかりとノベルゲームに翻案できている良作。
○ご飯
朝:なし。昼:納豆たまごかけごはん。豚汁。夜:餃子、もやし、にんじん、しいたけの鍋。ネギたまごおじや。間食:カラムーチョ。アイス。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすー。
○BUSTAFELLOWS
文化放送エクステンドから発売された乙女ゲームで、駆け出し記者にして時間を巻き戻す能力を持ったテウタを主人公に、悪を成すことを厭わない男性たちと恋愛していくクライムサスペンス。
キャチコピーの「あざやかな悪に染まれ」の通り、なかなかに悪い奴らが揃っている。
乙女ゲームではあるが恋愛の要素は薄めで、クライムサスペンスらしい犯罪のエピソードの掘り下げが色濃い。
アメリカを舞台にしているため、不法移民という社会的なテーマへの切り込みもある。
共通ルートとして四つの事件、その後男性キャラ五人それぞれの個別事件が五つ、最後に全てを包括した事件が二つとかなりのボリュームがある構成になっていた。
しかし、構成に対して文量に物足りなさを非常に感じる惜しい作品だった。
プレイ時間も20時間ほどしっかりあるにも関わらず、全体的にストーリーが駆け足で、もっとじっくり楽しみたかった。
特に主人公のテウタが持つ時間を巻き戻す能力は、巻き戻すだけでなく、巻き戻すと自分以外の他人にその時間の間憑依することができる複合的な能力。
連続使用は何回までなのか、戻る時間に規則性はあるのか、憑依する相手はどうやって選ばれるのか、その間テウタ本人はどうなっているのかなど、何がどこまで出来るのかの段取りを整理するくだりが少ない。
さらにこの憑依する相手がランダムな都合上、時間巻き戻しを使う場合も念入りに段取り立ててから使うべきなんだけど、そこも緊急的に使うばかりで作戦を練らない。
時間に関する特殊な能力を扱うフィクションならではの、仕掛けじみたパートも少なく、ヒロインと男性キャラの絆を示すために都合よく使われる部分ばかりなのは、段取り好きとしては残念。
悪を成すことを厭わない男性キャラたちの”悪“の部分も、同様に段取りの部分がおざなり。
悪徳弁護士のリンボであれば法の穴を突くような仕掛けを期待したくなるが、昔弁護した知り合い、検事が姉、実家が金持ちなど、身内の力を借りる場面が多いのは物足りない。
殺し屋を殺す殺し屋のシュウ、美容整形外科医で変装の達人のヘルベチカ、天才ハッカーのスケアクロウ、法医学者のモズと、他の4人の仲間たちも同様に、段取りを整理するくだりが非常に少なく、文量の不足を感じた。
(あと“実は配信サイトで動画を配信していました”は仕掛けとかトリックではないと思う)
ストーリーの駆け足感は先に進めば進むほど加速していき、最後の所謂トゥルールートじみた二篇は、あらすじ感が非常に強い。
起きた事象を点で捉えれば、感動する場面や、泣ける場面も多いのかもしれないが、それらを噛み締め咀嚼するパートの少なさと、そこに至るまでの段取りの不足は、ちょっと僕にはハッキリと合わなかった。
AIが生成した文章をコピペして増田に投稿することについては、様々な意見があると思います。
確かに、AIの出力をそのままコピペしただけの投稿は、オリジナリティに欠けるという印象を与えかねません。AIを使うこと自体は問題ないと思いますが、そのコンテンツを鵜呑みにせず、自分の言葉で咀嚼して発信することが大切だと考えます。
一方で、AIの生成した文章に感銘を受けて共有したいという気持ちも理解できます。その場合は、AIによる生成物であることを明示した上で、自分の感想や意見も添えて投稿するのが良いでしょう。
AIの活用が広がる中で、人間のクリエイティビティとAIのアウトプットをどう融合させていくかは、これからの課題の一つだと思います。テクノロジーの恩恵を受けつつ、人間らしい表現を大切にしていくバランス感覚が問われるのではないでしょうか。
いずれにしろ、他者の投稿にイラつきを感じてしまうのは仕方ないかもしれませんが、建設的な議論を心がけることが重要だと考えます。お互いの考えを尊重し合いながら、AIとの付き合い方について意見を交わしていくことが、これからますます必要になってくるのではないでしょうか。
善い行いをすれば良いことがあり、悪い行いをすればバチが当たる。
努力をするだけ結果に繋がる。
そういった考えを「公正世界仮説」、それに準じることを「公正世界信念」などといったりするらしい。
善い行いをし続けた者が理不尽に死んだり、悪い行いした人が悠々と生きていることも珍しくない。
努力が結果に繋がるとは限らない。
実際、そんなことくらい分かっている。
しかし、そんなことを承知の上で、漠然と「公正世界であってほしい」とも思っている。
つまり広義的な「ゆる~い公正世界への信仰」に覆われている状態なわけだ。
問題は、これが「あいつは持っているのに、なぜ自分は持っていない」といった感覚を生みやすいこと。
(相対的剥奪感なんていうらしいが、社会学を語りたいわけではないので名称はどうでもいい)
さて、先ほど、世界は公正ではないものの「ゆる~い公正世界への信仰」があると書いた。
この信仰によって「あいつが持っているのだから、自分も持っているべきだ」と考えが出てくる。
或いは「自分が持っていないのだから、あいつも持っているべきではない」と。
実際に奪われたわけではないし、もとから自分の物というわけでもないのに。
では、どうやってこの妄執を解消していくか。
一見すると穏当だが、この手段が極度に達すると本当に「他人から奪うことで手に入れる」ことになる。
そもそも「自分も持っているべきだ」という前提があるため、必要以上の、特別な措置をとりたくないわけだ。
ふたつめは、それを持っている人から取り上げること。
これも実質的に「他人から奪った」形にはなっているが、自分がそれを手に入れるかは重要ではない。
あくまで「自分が持っていないのだから、あいつも持っているべきではない」という考えのもと取り上げるからだ。
みっつめは、「何らかの真っ当な要因によって自分は持っていない(あいつは持っている)」と脳内保管することだ。
しかし、これは公正世界の非現実性、そのギャップを埋めるためにやっている時点で破綻している。
つまり、この脳内補完も現実に則していないため、どこかで無理が生じやすい。
その“無理”が積み重なって自分一人で処理しきれなくなると、今度は“外”に干渉することによって解消しようとする。
そもそも世界は公正じゃないのに「世界は公正であってほしい」と思うことがバグの原因だ。
しかも、この「公正世界」は自分のミクロ的な視点、つまるところ「小規模な世界」に押し込められているのが実情である。
公正な世界なんてものが実現可能であったとして、それが「自分の望む世界」かは別の話、ということだ。
高いし、カッコつけてるし、持て余すだろうし、なんだかいけ好かないし…と気になりつつも遠巻きに見ていたバーミキュラのライスポット。
先月、ひょんなことから知人から譲り受けて、手に入れてしまった。
こいつがね、まあすごいのよ。
なんとなく手始めに作ったポトフ。適当に切った野菜とササミをそのままぶち込んでスイッチ・オン。
在宅勤務の作業をしてたら、部屋中に煮込み料理の香りが立ち込める。
そのうち調理終了を知らせるアラームが鳴り。お昼には少し早い時間ではあったが気になりすぎて飯にした。
蓋は熱くなるという注意書きを思いだし、タオルで蓋の取っ手を包んでオープン。
ほわっと立ち込める湯気とともに、野菜の煮込まれた香りが鼻をくすぐる。
一口分を口に運ぶとホクッとした風味とデンプンが甘さが口内に広がった。
あつ、っと独り言を言いながら飲み込む。
続いては人参。舌で潰せるくらい柔らかく、煮込まれており甘い。玉ねぎはトロットロになっている。
肉塊を箸で捉え、前歯で噛む。瞬間、繊維がほろほろと崩れた。
なんじゃこりゃうますぎるな。
夢中になりおかわり2杯。すっかりお腹が満たされた。
これは良いものかもしれない。
どれもほろほろとほどけるほど柔らかく仕上がる。
諸事情で真夜中の国道沿いをファミチキを片手に歩いているとLEDライトの光が落とされ黒とも銀ともつかず輝くアスファルトには不自然なまでに脚を伸ばした大きな大きな例の虫が此方とかろうじて友好的な関係を維持できそうな速度を保ちながら闊歩していたのでその場にて即興で錬成した彼の人格と意気投合してみせ敵意を無にして極力刺激を与えないよう歩みを止め片手のファミチキを一口齧り咀嚼しつつ道を譲ってさしあげたところその歩みの先にある礫岩のそのさらに先の彼の棲家を思いつつだろうかいや彼女なのだろうかその人格は歩道脇のフェンスの下を悠々と凱旋していってしまいそこでふとその脚が不自然に長いと感じたのはひとつの錯覚であって本当は十分に自然な長さだったものをかのLEDの文明の銀の輝きが太古のある時代より漆黒の住人であるはずの彼もしくは彼女の脚を途方もなく容赦なくあられもなくくっきりと際立たせてしまったがための勘違いだったことに思い至ったがその見てはいけないものを見てしまったような感覚は宙に浮いたまま数秒を漂いファミチキとともに脳ではないような場所へと飲み込まれていった結果LEDライトに照射されたその楕円の宇宙の中で完結すべきひとつの物語だったような気がしたので心はそこに区切りを結び大して長くもない脚は再びだらしなく稼働をはじめるとその次の宇宙すなわち隣のLEDライトに照らされた銀の楕円のもっとも中央の目立つ位置には土鳩が鎮座と言う外ない堂々とした面持ちで静止していたのでそうか今日はそういう日なのだなと宇宙との共鳴を一瞬で終えるとともにその横を歩き過ぎてみるとその土鳩は微動だにしないのでさすがに全く生産性の無いことなのだがだらしのない脚は踵を返し鳩の真横に立ってみても本当に全く微動だにしないので虫の時の思慮深さを前の宇宙に完全に置いてきた心は彼の横にしゃがみ込みいや彼女なのだろうかそのふてぶてしい生命を見遣ると完全に目を最大限に開けた状態のそれと完全にアイコンタクトが成立したので平和の象徴でもあるし自転車に轢かれるとまずいのではないかいや白くなければ平和の象徴ではないのではないかいや目が合ったのだもう家族のようなものだと逡巡した結果心はぐわしとその土鳩を掴みフェンスの向こう礫岩の地へとそれを投げ飛ばしたところようやく目が覚めたのか羽音をたててどこかへ消えていったトラックが国道を過ぎ去った控えめな排ガスの匂いがした
まとめサイト経由でなんJ?から怪文書が伝わってきたが、個人的に納得できない部分があってのでつっこみを入れて行こうとおもう。なお、なろう専用ルールではなく俺が好みのフィクション全般としてのルールを意識した。
なろう作者が読者に読んでもらえるように気を付けてる事がこれ
・序盤はテンポよく進めろ
・主人公は惚れる側ではなく惚れられる側
・方向性を決めて読者にその魅力をアピールしろ(読者を惑わすのはNG)
・現実の固有名詞を使うのは極力避け、実際の事件や事故をネタにしてはならない
・独自の固有名詞や用語を連発するな(ファルシのルシがコクーンでパージ等)
・パロネタをやるな
・導入は出来る限り短くしてさっさとキャラを動かせ
評価〇△
いや最初期はなくていい、開始5分?10分?15分?以内に主人公は「仮の」目的と、「大まかな」設定をみつけろ。ミステリー・サスペンス・スリラーならアクション作品より曖昧でいいが、でも方向性は提示しろ。そしてストーリーが進むと共により鮮明になる形になるのがいい。逆にこの作品はどうしたいんだ?どこに向かってんだ?みたいなのはちょっと嫌
□序盤はテンポよく進めろ
評価△
物語の序盤の流れは重要だ。するする進むストーリーも快感だが、2,3話かけて徐々に話を盛り上げてくるメイドインアビスみたいな話作りもありだ。
でも主人公に設定を語らせるな。昔の下手くそなチュートリアルみたいに設定を長々語らせたり、
評価 ◎
スーターウォーズー程度の設定文章詰め込みは我慢してやるけど、全部をまとめて流し込もうとするな。分割しろ。提示方法を考えろ。
最近のゲームのチュートリアルで考えろ。30分間手をマウス/パッドから手を放した状態で設定垂れ流しを'受講'したいか?JRPG始めて、最初の戦闘まで30分かかりたいか?
評価△
そりゃ読者は主人公の活躍を求めている。ただし活躍の定義=常に大成功や努力無き大勝利、つまり楽勝ではなく積極的に動く事。活動性、積極性。失敗してもいい。間違えをしてもいい。途中まで地に服していい。
活動的な失敗の方が動きがない事よりいい。と思ったけど状況にもよるか。昔の漫画の馬鹿主人公の漫画のあまりに何も考えていない猪突猛進ぶりもそれはそれできついか。
「危機的状況だぞ。どうするんだ?」
「どうにかする」
「考えはあるのか?」
「その場その場で考える」
「・・・・」
みたいなね
□主人公は惚れる側ではなく惚れられる側
評価✘
いや惚れる側がいい。惚れるが最初は感情が届かなく一方的、時間をかけて徐々に勝ち取るのがいい。
そもそも量産型なろうアニメは恋愛要素ない奴の方が多い事から、やっぱりこの一二箇条は根拠ないでっち上げじゃないのか。
評価◎
能動的な主人公の方が見ていて楽しい。でも受動的な主人公を相方がサポートするとか、もしくは受動的な主人公が激動の人生を流されているが、途中から自分で歩み出すのもいいか。
□現実の固有名詞を使うのは極力避け、実際の事件や事故をネタにしてはならない
評価✘
いや別にいいよ。ただ、歴史上の英傑オールスターズが一同に会してアリーナでトーナメントは無制限の厨二病すぎて個人的に無理。例えば終末のワルキューレやFateや文豪ストレイドッグス。
厨二病濃度を加減し、調整し、洗練させて欲しい。スプリガン、屍者の帝国、啄木鳥探偵處とかならあり
というか、現実の事件うんぬんするなは完全に噓だな。だって織田のっぶーやジャンヌダルク、サスケ、ヒットラー、ホームズ・森アティ等、パロでぃ孔明、銀河英雄曹操伝などの歴史上の人物をベースにファンタジー要素や創作でふくらませて話作りまくってるし。
え、もしかして「別世界に現世の言葉を持ち込むなってリアリティライン/フィクションとしての統合性の話?」それは説明の仕方がずれすぎてない?
□独自の固有名詞や用語を連発するな(ファルシのルシがコクーンでパージ等)
評価✘
程ほどにオリジナリティある用語は入れて欲しい。あと、なろうやラノベのキャラの名前はつまらん。厨二病のナス先生や虚淵みたいな方が面白い名前を考える。ただし上で述べたように、徐々に覚えるようにしてほしい。1話で別世界ジャーゴンを20個とか垂れ流しされたくない
□パロネタをやるな
評価✘△
使い方次第。センス次第。ぽんのみちのパロは寒かったが、ごちゅうもんは鰻ですかは許容範囲だった。つまらんけど。あと作品性とリアリティラインは意識して個々に調整して欲しい。
□導入は出来る限り短くしてさっさとキャラを動かせ
評価✘
なろうの超ダイジェスト構成は下品で大嫌い。ただ早くすればいいというものじゃない。5分で死んでチートスキル貰って、復活するとか味気なくて酷すぎる。キャラのバックグラウンドは大切にするべきだし、その設定は後々まで何度でも展開や設定に積極的に絡ませていかすべき。
メイドインアビスや無職転生、すかすか、ガルパン、僕だけがいない街、カバネリ、ナウシカとかは良い塩梅だった気がする。
□読者は複雑な設定や重厚なストーリーより魅力的なキャラクターを求めている
評価✘✘
キャラを魅力的にすれば簡単に作品の見栄えがよくなるけど、それは他の事をおざなりにしている言い訳のように感じる。
もっと複雑な設定や重厚なストーリーに力を入れて欲しい。ただし、それをマシンガンみたいに口の中に叩きこむのではなく、【程よく】、【程よく】切り分け咀嚼し、食べれるサイズや柔らかさにする必要があるし、12話でできる事できない事、魅せる事魅せれない事は意識して欲しい。
最初に私自身について述べると、クリエイターとして飯を食っている人間である。
口幅ったいがプロを自称しても差し支えないぐらいの稼ぎと仕事だと自認している。
話題の生成AIについて、今後私達の社会生活のあらゆる場面に普及していくと考えており
私自身いつかは仕事のフローに生成AIにまつわる技術を意識的に組み込む時が来るのだろうと考えている。
その流れは是認しつつ、かといって生成AIを取り巻く現状を良しとするわけでもない。
何らかの法的規制あるいは運用上のガイドラインが必要だという立場にいる。
大別すればAI規制派であるが、スタンスは総論賛成各論反対、ぐらいの温度感で事態を静観していると思って欲しい。
昨今の反AIと呼ばれる先鋭化したアンチ画像生成AIの人々について
一人のクリエイターとして、かなりの危機感をもって眺めている。
重ねて言っておくと、私は決して”反”反AIではないし、規制を望む立場にある。
私自身、作品がAIの学習に使われているし、その漠然とした忌避感や嫌悪感も体験し、理解している。
おそらく反AI、と言った時点でその界隈の人々からは「反AIという蔑称を使うなんて話にならない!勉強不足だ!」と一蹴されてしまうのだが
皮相的な党派性にとらわれて本質的な議論を進めようとしない時点で、その未熟さ・幼稚さを露呈してしまっている。
勿論、所謂推進派と呼ばれる人々、AI使用者の非倫理的で冷笑的な振る舞いについても承知しているし、問題視している。
今現在、互いに互いの粗を探して吊し上げていることは大変残念に思う。
しかし現状、私がより不安視しているのは反AIの人々の振る舞いの方だ。
反AIの言動が過激化すればするほど、現実的な落とし所を決める意思決定の場で
規制を求める人々の声は届かなくなり、立場を危うしてしまうのでは…という懸念を抱かざるを得ない。
生成AIに関する問題意識を持っている人はどうか以下の項目について調べ、自分なりに咀嚼し十分に理解して欲しい。
・現在主流である拡散モデルの学習・生成機序を理解すること。生成物は学習した画像の切り貼りやコラージュではない。何十億という画像データを数GBに圧縮することはできない。
※学習データの画像にほぼ近いものを再現することがある、という海外論文を引用する人もいるが、プロンプトで狙い撃ちにしても再現されるのは天文学的な確率の低さである。
・著作権法・隣接権の概念や文化庁及び政府見解を理解すること。人・AIを問わず学習行為は規制されていない。「無断学習」という概念自体が現状では不当である。
・開発企業や使用者に対する非現実的な要求をしても事態は解決しない。
・成果物の類似性・依拠性(LoRAなど)については肖像権、著作権に関わる現行法で争う余地があり、対処可能である。これは手描きでもAIでも同様である。
・これまでに観測された諸問題は、厳密には使用者自身のモラルの問題であり、より正確に言えばSNSの問題である。
(誹謗中傷やLoRAによる嫌がらせ、ラフをi2iで勝手に清書された、自分の絵柄で性的なコンテンツを生成され誤認される…といった問題は、原理的にはAIがなくとも可能である)
公的に開示されている資料を読めば、概ね同じようなことは書いてある。
現状における事実或いは公的な見解であり、これらを推進派や技術者のレトリックと断じて耳を塞いではいけない。
彼らと同じ前提を共有し、同じ言語で会話しなければ、交渉のテーブルにつくことすらできない。
実際に手を動かすのは法を整備する政府であり、AIに携わる技術者だからだ。
規制を求めるのであれば、彼らの認識を正すのではなく、事実の解釈で争うべきだ。
”お気持ち”で戦える段階はとうに終わっている。
おそらく、私のこうした声もポジショントークとされて届かないのかもしれないが。
ブラインドを閉じる
コピー機の電源を切る
モニターの電源を切るのを忘れない
システムの打刻
最終退館の入力
照明を落とす
施錠とセキュリティを起動
廊下の消灯で一度真っ暗になる
エレベーターで1階に降りる
表玄関は閉じているので裏口に向かう
大通りを歩く
高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。
「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの一つ一つが「まだ私が壊れてくれないから、大丈夫じゃなくなるのを待つしかない」のカウントになっていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫ってなんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。
子供が一歳になり、育休が終わった。最後に「母になって後悔してる」を読んだ。
https://www.shinchosha.co.jp/book/507271/
すごく共感できた。どうして母親にだけこんなに負担があって、それが当然だという風潮なんだろう。これは育児をしないと気が付かないことだった。
夫は協力的だしかなり愛情も持って接してるし、二人の育児の方針はそんなにぶれてないので相談もしやすい。リモートワークなので子の様子も良く見てくれる環境だった。
おむつ替えとミルク作りと沐浴など、基本的なことは一緒にできた。ねんトレも一緒に頑張ってくれた。
でも、温度差はまだまだ全然ある。例えば育休を職場に相談する気さえなかった(説得して子が10ヶ月の時に1週間だけ取ってくれた)。
相談する気さえなかったことが信じられない。わたしはとるのが当然なのに。
この育休中、時間がしっかり区切られて、言葉の通じる相手と話せて、子供のことを一瞬でも良いから目を離せられる環境があるのが羨ましくて仕方なかった。
私たちは一時期は夫の実家にお世話になっていたので、なんなら夫は二人暮らしのときよりも楽だったかもしれない。家事は一切せず、時間になったら仕事して、夜ちょっと子の面倒を見て終わり。
趣味の時間なぞ1ミリもなく、気を抜くと睡魔が襲って来る頭で(子は夜泣きが酷くて2時間ごとに起こされていた)、顔を洗うこともパジャマを着替える気力もわかず、出産で変わり果てた重くて痛む身体を引きずり…そういう、ほとんど人間らしくいられるギリギリライン、何もかもを取り上げられた自分と別世界すぎる。
友達と雑談してる隙を狙ってトイレの間ちょっと見ててもらおうとするも、見てもらえたりもらえなかったり。そもそも面倒を見るのを拒否できるのが羨ましい。
子が泣くと仕事部屋の戸をピシャリと閉める。家に居づらいので支援センターによく通った。
リモートワークだと、どのくらい仕事が忙しいのか様子がよくわかってしまうのもよくなかった。
夫の仕事はあんまり忙しくないみたいで、休憩時間に雑談したりゲームしているのが死ぬほど羨ましくて恨めしかった。
戸の向こうで楽しそうに友達と雑談している夫を尻目に、ベビーサークルの中でこちらを見て構って欲しくて泣き喚く子に声をかけながらバタバタと夕ご飯の支度をする。
私の休憩時間は週末にならないと来ない。なんなら週末になったって来ない時だってある。
昼寝の時間は少しは休憩になるけど、いつ目覚めるか分からない子を見ながらはたいして休憩できない。
暇があると、すぐに手が離せないオンラインゲームしだすのも腹立たしい。
今、この瞬間に助けに行かないといけないシュチエーション(例えば頭をぶつけそうだから目が離せないとか)なのに、私が見ている前提で「今ゲームしてるから無理」と言えるのが信じられない。
育児はその場のこと以外にも、予防接種のスケジュール、書類などの管理、動き回るようになったら家の中の危険な場所の把握と改善、月齢ごとの咀嚼状況を考えつつ大人の食事を回しながら無理なくつくれる離乳食の献立を組み立て、アレルギーチェックの進捗を確認し、次の1ヶ月でどんな発達があるか把握、季節ごとの服はどんな物を選べばいいか、保育園の準備物やお世話の道具をレビューをみつつ絞り込み購入し、かかりつけ医はどこにするか決める…など情報収集と判断が無限にやってくる。
そのすべてを人に丸投げにして「任せるよ」で終わらせられるのが信じられなかった。今でも信じられない。
育児の本を一緒に買っても、開いてくれたことはあるだろうか?そもそも本がどこにあるのか分かるんだろうか?
ここまで無関心でいられないはず、とつい期待してしまう。でも無関心、これが現実。私が負うしかない、母親だから。
それに自分の両親にも義理の両親にも言葉や態度の端々で仄めかされて、母親のロールはどんどん刷り込まれて行く。
「そばで寝てあげないから泣くんじゃない?お義父さんは抱っこが上手だから泣かないね、離乳食に気を使いすぎなんじゃない?食べさせすぎでちょっと太ってきたんじゃない?」...などなど。言われるのは母親だけだ。
これから先も内容は変われど主に期待され対応するのは私なんだ。子供が大きくなるまでずっと続くのかぁ。できなくもないけれど...。
母のロールから降りることができない。早く社会がもっと変わっていかないかな…。
夫は良き相談相手なので割となんでも話すし、結構この話もするんだけど、どうもピンとこないようだった。
「そうは言うけど、そりゃぁ今まで通りにはいかないしある程度仕方ないでしょ...母親になったんだから。もちろんできる限りはするよ。」
できる限りかぁ。
林先生のサイトを久しぶりに読んでみたら、青葉被告についての超長文コラムが去年10月に公開されてたことに気がついた。
そのコラムでは検察が依頼した医師は診断技術が低いと推測されていた。コラムではP医師と書かれているが、検索すればすぐに検察側の精神鑑定医の実名は出てくる。大阪の医師である。
かなり立派な経歴の医師で一般人からしたら「すごい人なんだろう」としか思えない。
が、林先生は「検察庁御用達の医師」なのではないかと推測している。
弁護側の精神鑑定医も立派な経歴で、こちらは東京の医師である。
これは司法精神医学についての林先生なりの告発文なんだろうか。