はてなキーワード: 天地人とは
何者かになれ、自立せよ。何かをなせ。だけど。それは若い時もてはやされる価値観だなと30になって最近思うで。
鬼滅が流行っているのも、唯生きてください。生きているだけで意味がある。
命をつなぐ。子供をのこすこと。幸せに生きていること、生きているだけで素晴らしいというメッセージが
凡庸だけど、あえて人間の命を賛歌しているところが家族を持っている層に受けたわけだし。
古典的なメッセージがむしろ新しく感じられるということは、それだけ何か役に立たない人間はいらないとか価値観が画一的になってるのかも
(鬼は資本主義的な自分の成長や自分の生命、自分の利益しか追求しない現代的な(いまマジョリティ)価値観)
子供がいても虚しいこともあるし、経済的に厳しいこともあるし、
やっぱりそれも仕事で忙殺されている状態と子育出て忙殺されている状態と変わらないかも。
私も上京したくちだけど。都会に出て仕事も落ち着いて、これから結婚するのか、転職するのか、趣味に生きるのか、
仕事でもっと自己実現するのかというタイミングで色々と探求できないのは辛いね。
ただ、生きてるとどんなにあがいてもどうにもならない、天運が悪い時がある。(天地人だね。)
そうゆうときは、本を読んだり、自分が何がほしいのかよく考えて力を貯めること。
そして、コロナが終わったら、動き回って若いのだから自分の欲しい物に向けて足掻く。
精神的に辛いときや死にたくなるときって、新しい人生の価値観やフェーズ突入の進化のサインなので
外出はできないかもだけど、これから自分が何がほしいのかエッセイとか、電気とか、ビジネス書とか死ぬほど読んでよく考えてみると良いかもよ。
まぁでも、こっちも上京して仕事でやりたいこと大体やれて、好きな人と結婚して、子供もできたけど
家族はいたでいたで、自分の想定しないトラブルに振り回されたりするから小回りは効かないなーって独身羨ましくなるときもあるよ。
なんかうまくいかないときって、大体隣の芝生は青く見えたり、虚しいなーって思うこともあるから。
まぁでも、コロナ。出歩けなくて本当にストレスだよね。ワイも限界だわ。
料理覚えるとか、家でヨガ・筋トレやるとか、体をメンテするぐらいしかないんかね。
みんなは、なにして暇つぶししてんの?
5~6年前の冬、どんよりした鉛色の空、地方都市。車道だけは最低限除雪されていたが、歩道は膝下とくるぶしの中間くらいまで積もり、歩くのは難儀だった。特にこの季節は誰も徒歩で出歩かないので雪が踏み固められることもない。
地方の車社会でこんな状況で郊外をとぼとぼ歩いているのは自分くらいしかいない。雪は一時止んでいたものの、横断歩道には轍ができてツルツルに固まってたり、水溜まりでびしょびしょになってたり。少し先の踏切は遮断機が下りていて、車が渋滞の列をなしていた。
二車線の小さな交差点で横断歩道を渡り終え、次に向かう横断歩道の信号が青になるのを待っていた。ふと元いた場所を振り返ると、何と自転車にまたがった爺さんがいるではないか。
この状況で自転車?! この時点で嫌な予感しかなかった。若者でもこの路面の状態で自転車に乗るのは無謀だ。しかもせめて押して歩けばいいものを、爺さんはそのまま自転車を漕いで歩道を渡り始めた。そして案の定、歩道を半分もいかないうちに轍にハマったのか何か、盛大にコケた。しばらくしても位置的に一番近いはずの車からは誰も助けに出てこない。
そのまま立ち去ろうか迷った。はっきり言って自分は人助けするような人間でもなかったが、周りには誰もいないし、渋滞してずらっと並んだ車窓から自分がどう行動するかを注視されているようだった。CX-5とかSUVとか、そういうゴツい車が目の前にあった。そういうのに乗れるくらいの経済的に余裕のある人間が降りて助けに行けばいいのに、何で自分みたいな困窮してる底辺が……と思ったものの、無言のプレッシャーに負けるような、半ば居たたまれない形で爺さんを助けにいくことになった。まったく気乗りしなかった。
まず爺さんのところに近づき、大丈夫ですか、と声をかけながら体を起こそうとすると、「ア゛~~、アレ、、」と呻き、倒れた自転車の方に顔を向けた。自転車は後でいいだろ、と思ったが爺さんの様子からして頑固そうなので、本人の意志を尊重することにした。
そういう訳でいったん爺さんはそのままにして、先に自転車の方を起こし、辺りに散らばったカゴの中身を集め(この近辺で買い物してきたようだ)、道の脇までいったん退避させた。それから再び爺さんを起こし、肩を組んで歩道を少し歩き始めたところで30代くらいのスーツ姿の男性が駆け寄ってきた。
ボソッと「そっち(の肩を持って)……」と言われ、爺さんを真ん中にして二人で肩を抱えて運ぶ形となった。と言ってももう渡り終えてる状況だったので時間にして10秒もかからなかったと思う。正直なところ爺さんは思いのほか軽く、むしろ自転車を起こして脇によける方が大変だったので、この手助けはあまり有り難いとも思わなかった。もう少し早く誰か来て一人が爺さんを、もう一人が自転車をという風に分業できればよかったのだが。
男性は自分とは特に口もきかず、そのまま後続の車の列に戻って行った。単なるアリバイ作りだったような気がしないでもない。まあ別にいいけど。それ以外の人たちはそれさえしなかったのだから。そう、最前列の車のドライバーたちは結局見ていただけだった。どんな奴が乗っているのか、よほど少し近づいて睨んでやろうかと思ったが、小心な自分にはそんな度胸さえなかった。
もし季節が暖かい時期で、もし倒れていたのが「可愛らしい小学生」や「か弱そうな品のあるお婆ちゃん」だったなら、むしろ我先に助けようと2~3人は真っ先に車から飛び出していただろう(そしてその事を誇らしげにSNSに書き込んだりするだろう)。
でももしあなたが「いい革靴を履き、商談を急いでいるビジネスマン」で路面が「雪解けのびしょ濡れ状態」だったら、車を降りてまで「見すぼらしい底辺の人間」を助けようとするだろうか?
爺さんは自分とは終始目を合わそうとせず、結局何のお礼の言葉も口にしなかった。爺さんの身なりは見すぼらしく、底辺老人というか、ホームレスというか、あるいはその中間だった。とても家族や親しい友人がいるようにも見えなかった。少し見ただけで他人にそこまで決めつけられたくないだろうが、そうとしか思えないオーラを放っていた。
穿った見方かも知れないが、いま思えば人を試そうとしていたのではないか。人生も終盤になろうというのに、自分が誰からも大事にされないから、あえて無理な状況で親切にされるかどうかを試すために無謀な行動をしたのではないか。この無愛想で、孤独で、見すぼらしい老人は何十年後かの自分自身だろう。そして今回とは違って、助ける人は誰もいないだろう。
※ ※ ※
地元の新聞の天地人みたいな欄ではしばしば都会の人の冷たさを指摘し、地元の人の温かさを礼賛している。下らない。地方だから温かい、都会だから冷たい、なんて関係ない。そのことがこの出来事で確定的となった。このときは周りの視線に負けて柄にもなく人助けなんかしてしまったが、この先もうこんな事をすることはないだろう。
自転車に乗った女性が赤信号を無視した車に吹き飛ばされた。彼女が立ち上がろうとそうでなかろうと、それを横目に自分はそのままそっと立ち去るだろう。他人を助ける余裕なんて残ってない。自分自身さえも助けられないのに。
「この業界周りで働く人たちは、皆、総じて、"愛"に弱い。」(辻村深月 ハケンアニメ!)
「アイドルマスターシンデレラガールズ」の第3話を見てこの一文を思い出さずにはいられなかった。思い返せば第1話冒頭。ニュージェネレーションから漏れた彼女たちをすでにデビューしたアイドルとして見せた「お願い!シンデレラ」。画面からあふれでる愛におぼれるようだった。それからはじまった物語も素晴らしく、決め台詞が差し込まれる話運びにただただ溺れるしかなかった。そして第2話の宣材の撮影。たとえ短くともまた漏れてしまった彼女たちが出演している絵に心が震えた。
そこからの第3話。ついにはじまるシンデレラストーリー。ゲーム本編をプレイしていないため彼女たちの衣装がどのイベント、レアリティのそれなのか判らないことが残念でならない。
ここまでアニメデレマスは漠然としていた「見たいもの」が予想以上の物語と絵をもって与えられる、天啓の甘露のようだ。まぶしいばかりの愛が散りばめられ、あふれている。まさにスターだ。
そして光が強ければ強いほどに闇が色濃く見える。
アニメ「艦これ」である。アニメ企画が発表された当時に当然の展開と受け止めていた。そして同時に口にはしなかったが漠然とした不安が芽吹いたのも事実だった。
時がたち発表されたPV第1弾。動く彼女たちを見て真っ先に感じたのは違和感だった。重い曇天、鈍色の海。それらを従えたなによりも黒い深海棲艦。立ち向かう艦娘たちにもどこか闇がつきまとう。戦争が舞台であることは承知していたが、これはあまりに暗すぎる。その色遣いは先立って感じた不安に塗り込められた胸の内を投影したかのように見えた。
そして第2弾PV。不安を拭い去るかのような明るい場面……の果てにでてくる秘書官長門。参戦本部なのだろうか、その色遣いはセピア色。軍楽隊が奏でるBGM。夕日の中飛行する戦闘機(九七式艦攻? というところに目が行ってしまう)。当然であるが戦争だと思い知らされる。美少女動物園の日常アニメではないと見せつけられる。
それが見たいわけじゃない。
そんな不安の中はじまったアニメ艦これ。なぜか舞台は現代でも未来でもない。過去だ。太平洋戦争当時なのだろうか。その説明はない。不安ばかりが募る始まりだった。
そして第3話。不安は形になり、姿を見せた。これは戦争なのだ。生きるか死ぬかの物語なのだ、と。轟沈と隣り合わせの青春なのだ、と。
艦これは強烈にデレマスとの対を感じさせる。
女の子が戦う世界を見せつけることで、全提督に冷や水を浴びせ続けるかのように。世界は絶望に満ちていると押さえつけるかのように。誰もが死ぬんだと殴るかのように。目をそらすなと睨むように。
ここに期待はないんだと叫ぶように。
俺は木曜に冷や水を浴び、金曜夜には愛を浴びる(BSは異なる、と入れておけばいいのか)。
艦これは物語世界にあまりに従いすぎている。物語の下に艦娘たちを配置している。だから戦争の影から逃れられない。すべてを支配する。
いっぽうデレマスは女の子たちが物語を従える。彼女たちの意思が物語を拓いていくのだと共感できる。
ただそれだけだと虚構のにおいが強いのだが、竹内Pとその上司たちがしっかりと世界を支えている。第3話で楽屋に現れた部長に川島瑞樹が挨拶をする場面などその真骨頂だろう。リハーサルでの音響さんのセリフ(ここの芝居がとりわけ印象的だ)、ステージ下のスタッフ。そしてライブ終了後の挨拶でスタッフの労をねぎらうセリフ。そういった細かいところがこれは「仕事」だと伝えてくる。言ってしまえば彼女たちだって戦っているのだ。みくにゃんの繰り返しの挑戦だって彼女なりの戦いだ。負けるけど。
デレマスのこの「愛し方」が判っている背景は突然のことではなく、これまでに連綿と繰り返されてきたアニメ化によって制作側に培われた技術なのだろう。つまり、もし艦これと同時期に「ゼノグラシア」が放送されいたらと思わないでもないのだ。
アイマスは愛し方が確立している。その頂点が先の劇場版であり、Febriの特殊号だろう。最新号は艦これ特集なのもなにか運命めいた存在を感じさせる。
小山高生がタイムボカンについて語った際に「天地人がそろった」と述べていた。同じことをデレマスに感じるし、いけないほうの天地人がそろったことを艦これに感じる。これまた偶然であり、運命の綾であろう思いたいが、第3話放映翌日から艦これアーケードのロケテストが始まった。三国志大戦撤去直後に発表されただけにその知らせに触れたプレイヤーが何を期待したのかは想像がつくし、その結果がどうなったかはご覧のありさまである。
「艦これではなく艦これ人気が好きだった」という増田には深く同意できる。残念だがいまのところ、艦これはすべて期待を裏切り続けていると言わざるを得ない。これから目をそらし、褒めそやすことは大本営発表を報道し続けた太平洋戦争末期の報道各社と変わりがないだろう。連想するなら艦これへの弓道からの批判は、本来であれば物語全体に向けられるべき「コレジャナイ」を局所的に言語化した結果なのだろうか。
竹内Pと提督の造形の違い、二次設定の使い方、ゲーム中の素材の扱い、表現……。あまりにデレマスと艦これは対をなしすぎる。恐ろしいほどだ。同時期に放送したのは両者の意地なのか、運命なのか、それとも他の何かか。私の心境としては、見届けるデレマスと看取る艦これ、というところだ。
「人為的に誘発された知能は,その増大量に比例する速度で低下する」(ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」)
ゲーマーなら知っておきたいゲーム音楽における10人の名作曲家 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20110803_game_music_composers/
というわけで、対抗意識を燃やして
「ゲーマーでなくても知っておきたいゲーム音楽も手がけた10人の作曲家 - MASUDAZINE」なるものを書いてみようかな、と。
選ぶ基準は主観です。紹介文は手抜きです。基本的に、ゲーム映像と合わせた動画です。ゲーム音楽の動画と、その下にそれ以外で割と有名であろう音楽の動画を紹介します。順番は思いついた順。海外のゲーム事情は疎いので割愛します。
タイトルの「ゲーマーでなくても~」というのは、あまり関係ないです。
いかがでしたか?
他にも「こいついれろよks」とか感想があればブコメでもトラバでもください。
同じコンセプトにはなりませんが続編があるかもしれません。こうやってまとめると案外自分の為になるので……。