はてなキーワード: vimとは
生産性が全ブラウザの中で一番低いにも関わらずなぜか使用率が高いので、生活残業を稼ぎたい人に大変オススメのブラウザです。
Windowsに最初から入っているEdgeは基本的にChromeの全ての機能が使える上に、
縦タブやOfficeファイルのプレビュー、Copilot、広告ブロックなど業務を効率化させる余計な機能がついているので禁止です。
生活残業をしたい生産性の低い社会人の合言葉は「EdgeはChromeダウンローダー」!
もちろんVimキーバインドでブラウジングができる拡張機能、Surfingkeysなんて入れたら生産性が爆上がりしてしまうので、
リンクはマウスでポチポチとクリックし、ページスクロールはマウスホイールを使いましょう。
Ctrl+TやCtrl+L、Ctrl+Wなどのショートカットも覚える必要がありません。
生活残業のためにタブを開くのも閉じるのもマウスを使うべきです。
こちらもマウスと矢印キーを使うことを前提にした非常に生産性の低いエディタであるにも関わらず使用率が高く、
と言う気の狂った操作方法しかなく、後者の場合『Shiftがすっぽ抜けるとやり直し』と言う絶望的な生産性の低さで非常におすすめ。
カーソル移動と言う一番頻出する操作方法がメモ帳と変わらないので、結局多少補完が強力だろうとVSCodeの基本的な生産性はメモ帳と同じです。
素晴らしい!生活残業にピッタリ!
VimやEmacsなどのエディタはもちろん、これらのキーバインドを使えるようにする拡張機能も絶対に使うべきではありません。
VSCodeで使えるGit系の拡張機能もバカみたいにマウスをポチポチして操作する必要があるので、
ヘタするとそのままGitコマンドを打つよりも遅そうで最高です。
間違ってもtigやEmacsのMagitなどの高速Git操作インターフェースを使ってはいけません。
わざわざGUIで操作するSourcetreeを入れるのもアリですね。
ExcelでもSpreadsheetでも全てのセルにその場限りの計算式を入れましょう。
現代のテキストエディタがCtrlを押しながら矢印、Shiftによる選択、Home,Endなどを組み合わせたときの操作に対して、viが本当にエディタを乗り換えるほどの優位性を持っているのか疑問
viに有利な例題でない限りはそんなに差は無いのでは?
あとなぜvimはいまだにヤンクというクリップボードの下位互換のヤンクという概念で操作せねばならないのか?
このせいで「ビジュアルモード」という選択範囲クリップボード操作と同等の操作と、vi本来の操作が入り混じった一貫性に欠けたテキスト編集を強いられる
fugaをコピーしてhogeに上書き張り付けするという自然な操作の流れが「vi流」のキー操作で行えないのは明確な問題だと思える
vi開発当初にクリップボードという概念が存在しなかった事は分かる。しかしそれがいまだに改善されていないのはなぜか?
テキスト操作を便利にするためにユーザにはvi流の変態的操作を押し付けるのに
テキスト操作を便利するためにエディタ側はクリップボードを使った操作体系を取り入れないのは単に昔からの慣習を至上とする悪習なのではないか
vim-tinyとnanoってどっちが容量少ないのかなと思って調べたけど
Name | Download size | Installed size |
vim-tiny | 637.37 KB | 1.75 MB |
nano | 664.53 KB | 2.78 MB |
なのか
Vimを使っている開発者が、pythonコードのインデントをスペース2として書いていた
他の開発者はpep8に従っているのでインデントはスペース4である
Emacsでは、tabを押せば即座にスペース4として補完されるのでタイプ数が増えるということはない
ところがこのVim利用者はスペースを2連打して入力していたようである
コーディングスタイルは、原則としてグローバルスタンダードとなっているものを採用した方が良い
pythonであればpep8を使えば、他のコードとの整合性もとれる
もし他の開発者が「スペース2のほうが生産性が高い」というなら、tab一回の入力で補完されるような環境設定を推奨すべきである
つまり、コードブロックを視認するためには4ぐらいの幅があったほうが見やすいということだ
学生時代にエディタ戦争というものを知って、vimかemacsかということで、ストールマン先生を信じてemacsを使い続けてきた
基本的なキーバインドは熟知しているので生産性は高いし、lispでカスタマイズする方法も知っている
だがvscodeを布教する連中が現れてから「そろそろ俺も老害か?」と思うようになってきた
しかしリーナス・トーバルズも、Matzも、デイブ・トーマスも、グイドヴァンロッサムも、DHHも、ビャーネ・ストロヴストルップもEmacsユーザーである
サーバサイドにemacs-noxが入ってない時は仕方なくviを起動するが、開発は常にemacsを使う
今でこそWindowsでも全く問題なく開発できるけど、ちょっと前は「Macのが開発体験が良い」と言われていた。
具体的には2011~2015年あたり。
2013年のころ、俺はWindowsで開発していた。WSL2なんてものは当たり前に存在しない時代だ。
たとえばC言語を使いたい場合、MinGWとMSYSを使ってこんなかんじで必要なものにチェックマークをしてインストールしていた。
まちがえた。俺が使っていたのはCygwinだ。こんなかんじでインストールする。
「パスを通す」とか言われていた時代だ。今ではインストーラがほとんどやってくれる。
Windowsのコマンドプロンプトがアホほど役に立たないので、msysCygwinのコンソールを使うのだ。
Pythonのインストールにもパスを通していた時代だった。当時はまだ2系が主流で、卒論を書く際、大学の教授から「3系は使ってもいいけど、俺は知らないからサポートできない」と言われた。
Scipyはインストールしなければ使えなかったので、「python scipy インストール」で検索して出てきた記事を参考にしてインストールしていた。これがまたエラーの連続だった。
プログラムを開発するエディタも、vim、emacsがまず候補に上がった。どちらも癖のあるエディタなので、そういうのが嫌な人はサクラエディタが推奨されていた。そして少しして登場するAtomに感動したのだ。今ではあたりまえのようにVSCodeがある。
ちなみに俺はPythonの開発ではIDLEというのを使っていた。知ってる?こんなの。
そんなWindowsユーザーを少し煽るような(Winユーザが自虐するような)、「プログラミングするならMac」という風潮があったと記憶している。そこから「どうやらMacはUnix系で、コンソール操作が簡単らしい」「文字がきれい」「Windowsでは定期実行するためのcronすらないが、Macにはある」「xcodeというのがあるからめちゃくちゃプログラミングがラクらしい」みたいなイメージがあった。
今ではWindowsも随分便利になったし、IDEやインストーラがなんでもしてくれるようになった。今では結論、「どっちでも好きなほうを使えばいい」という良い環境になった。
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。
以下はすべてメインで使ってるプラットフォーム・プロダクトです。
俺って異端だよね!!😆
わかってる。ここでLinuxをメインOSに使えてない時点で俺は中等半端なんだよ🥺
でもそれも含めて異端だよね!😆