はてなキーワード: てにをはとは
てにをは間違えてまで慌てて書くような内容じゃないだろ
「お前が 『好き』 と感じたことと、それが 『良い』 かどうかは別問題」
はてなにおける文章力あるなしの定義は、まさしく 「好き」 と 「良い」 を混同した状態となっております。
言葉の定義について後で揉めたくないので最初にここをハッキリ書いておきますね。
話し言葉に近づけた表現をするなら以下のようになるでしょうか。
はてなにおいて 「文章力がある」 「文章力がない」 という言葉が使われている場面の多くが、単にその文章の好き嫌いを語っているように感じます。
言っているはてなー本人が 「読み手に伝わりやすい良い文章」 とは何かを正しく認識できていないことによって想起している問題です。
文法が正しい。誤字脱字が少ない。無意味な造語が少ない。対象の曖昧な代名詞が使われていない。複数の読み解き方が可能な文章となっていない(意図してそれを行っている場合は除きます)。論理の飛躍がない。過剰な頻度で同じ話を何度も繰り返していない。こういったマイナス要素の少なさこそが、良い文章を形作ります。
契約文書や法律文書は、甲乙による呼び名を代表とした堅苦しい表現が使われています。これらは一般的には読みにくい文章となりますが、それぞれの表現が指す範囲を明確にする必要があり、かつ冗長にならないようにすることを最優先する必要があるために、独特の表現を使った文章となっています。
日常会話において法律文書のような表現を用いれば、伝達において齟齬が生じやすくなるでしょう。逆に契約書に砕けた表現を多用すれば、あとで揉める原因となるでしょう。
シチュエーションごとに適切な文章表現を選び出す能力は 「文章力」 の最重要の構成要素です。
「文章力」 の構成要素を羅列し見れば分かる通り、 「個人が好ましいと感じたか」 は 「文章力」 との関係性が極めて薄いのです。
過剰にヘイトを煽るような表現を多用して判断力を下げる文章が世の中にはありますが、それを書いた人間の目的が相手を感情的にさせて判断力を下げることであったならば、それはその目的にあった文章となっています。
自分の好き嫌いを基準に 「文章力」 を語るはてなーにはそういった視点さえも欠如しています。その証拠に、自分本位の好き嫌いの基準のままで文章の良し悪しを判断し 「文章力がある」 「文章力がない」 という表現が多用されているのを非常によく見かけます。
このような謝った言葉の濫用は、全く持って言葉に対して不誠実と言えるでしょう。
ですがそれらが悪意や、善意のなさによって生起していると考えるべきではないように思います。
単純に、 「文章力」 というものを正しく認識する機会に恵まれることの難しさが原因だと私は考えます。
高校までの教員の中に言語の研究において論文を何本も書き上げた経験がある人がどれほどいるのでしょうか?
大抵は大学に通い教員免許を取る過程において少し齧った程度のままで、その後は現場の忙しさに翻弄され、学生たちのしょうもないてにをはの間違いを如何に効率よく正していくかばかりが頭を支配することでしょう。
そして多くの日本人はそうした教員から受けた言語教育だけを、言語に対して深く触れた体験だと感じ、そこに言語能力というものの天井を感じてしまうのです。
虫かごに入れられたノミの話と同じように、人間は下手に天井を感じるとそれ以上を目指さなくなります。
正しい言語力というものを、単にセンター試験の国語で満点を取れるだけのものであると思えば、そこからの百分率で言語というものを考えるようになる。
ですが実際には言葉というものはもっとずっと複雑でいくらでも工夫のしがいがあるものなのです。
それを知らない人達が安直な好き嫌いで 「文章力がある」 「文章力がない」 といった表現を使っているのは非常に悲しいことです。
ですが、これは現代社会における教育コストの問題であり、一個人が過剰に憂いても仕方がないことなのです。
それでも吐き出したかったのでここに垂れ流させていただきます。
お目汚し大変失礼致しました。
意識の高い若手社会人には、「将来は経営企画部に行って事業戦略を作りたい!」と考えてる方も一定数いると思う。
また、「ポストコンサルのキャリアとして、事業会社の経営企画部に行きたいです!」という疲れ気味のコンサルの方もいるかもしれない。
果たして、経営企画とは皆が憧れるようなエリートコース、バラ色のキャリアなんだろうか?
日系上場企業(JTC)を中心に何社か経験した、社会人歴15年超の現役の経営企画部員が疑問にお答えしようと思う。
1. 「〇〇企画部」は「〇〇調整部」
まず大前提として押さえておきたいことは、企画系の部署がやっていることの大半は社内調整ということだ。
これは特に日系大企業で顕著で、経営企画だけでなく商品企画や営業企画でも同じだ(外資やベンチャーはよく知らない)。
経営企画部の実情は「経営調整部」であり、商品企画部は「商品調整部」、営業企画部は「営業調整部」と捉えれば分かりやすい。
キラキラしたクリエイティブで頭のいい人達が企画を作って、現場はその企画を素直に実行するーそんな夢のような職場は少なくとも日本企業には存在しない。
考えた企画の役員報告はもちろんのこと、関係部署との数えきれないほどの会議、文句ばかり言って協力しないおじさんへの根回しなど、膨大な社内調整には3ヶ月や半年も要することになる。
この間、担当社員の仕事は、パワポの資料作成に加えて、会議のファシリテーションや議事録作成など地味な仕事ばかりだ。
渾身のアイディアを盛り込んだパワポも、上司からの「てにをは」の修正、偉い人からのよく分からん指摘、関係部署への忖度などから、次第にエッジは削がれていき、総花的でぐちゃぐちゃした代物に変貌していく。
https://www.env.go.jp/content/900513416.pdf
官僚はまさしく企画職だが、関係団体や政治家との調整業務が大半で、利害関係者の意見を盛り込んでいるうちに、全くMECEではないぐちゃぐちゃしたパワポが出来上がる。
日本企業の他の企画職も似たような仕事ぶりであり、日々社内調整に汗を流して、ぐちゃぐちゃしたパワポを作っている。
この資料を作るのは確かに経営企画部員だが、その仕事の大半は事業部から上がってくる情報を集約して体裁を整えることである。
経営企画部員がオリジナリティーを発揮できる領域は限られていると言える。
2. 何の権限もない
経営企画はあくまでコーポレート部門で、経理や人事と同じようなサポート部隊である。
つまり、「こういう事業をやるべきです」と主張するよりも、「事業部でお困りのことがあったらサポートします」という姿勢が好まれる。
会社の重要な経営戦略であるM&Aも、どんなに意識の高い経営企画部員が必要性を訴えたところで、事業部の受け皿がなければ何も進まない。
しかし、往々として事業部というのは目先の業務で手一杯であり、新しい事業に取り組む余裕はないし、そんな高い視座で長期的に事業を考えている偉い人も少ない。
結果的に、M&Aなどの新しい施策は、事業部間でたらい回しになり、何も決まらず、チャンスを逃して成就しないことがとても多い。
おそらく、半分正解で半分間違いだろう。
確かに、役員や部長が偉くなる過程で経営企画に立ち寄ることはよくある。
だが、担当レベルではたまたまポストが開いたから異動してくることが多く、皆がすべて優秀という訳ではなく、行き場のないおじさんが、地味な集計作業をしてたりすることもある。
その点では、社内の他の部署と大差はない。
そんな訳で、経営企画部は社内調整ばかりで権限もなく、必ずしも出世コースでもない平凡な部署であることはお分かりいただけたと思う。
それでも、個人的には経営企画の仕事は好きであり、役員の近くで仕事して会社組織の意思決定の仕組みを理解できたのは、社会人として貴重な経験となったと感じている。
経営企画部員として働くと、社長や役員が頭がキレキレではなく普通のおじさんたちの集団ということが分かる。
そうした現実を踏まえて、権限がない自分たちがいかに企画を通していくか、サラリーマンとしての鍛錬の場として、経営企画は適してるといえる。
今の状態こそ誰かにとって読みやすく、その批判を反映したらかえってその人にとって読みづらいものになるということもあり得る。なのでわざわざ今の文章が悪いかのような批判をするのは自分中心的なことであり傲慢だと言える。
ただ言語学は文法をクリアしてる文についてさらにそれがより多くの人々に読みやすいと思われる文になるように磨きをかけるにはどうすればいいかということについては何も教えてくれない。言語学では特に発達障害の文章力に対するコンプレックスは解消しきれないかもしれない。そういう状況の中でどう生きるべきか考え続けるものである。
言おうとしている内容に品がなさそうなのもすでに不快だが、まずは主述やてにをはをまともに使えるようになってから喋ってもらえるかな
何も言いたいことが伝わって来ないんだわ
ブログとかに一つ一つの文は文法的に問題なくて意味が通っていても文章全体としては構成が滅茶苦茶なせいで結局何が言いたいのか分からないのがあるけどああいうの何なんだろう?
無関係なことを箇条書きのように並べ立ててるだけなら冒頭にそう書いとけばいいのにと思うけどそういうわけでもないのかな?
せめて間に「話変わるが」みたいな文言を挿入するだけでもだいぶ読みやすくなると思うんだけどなあ。
いや構成自体が滅茶苦茶で意味不明になってるのは言語に依存する現象じゃないだろうな。
一文一文のてにをはとかが日本語覚えたての外国人みたいに出鱈目だったりするカタコトであっても、文章として読めばおぼろげに何が言いたいのか分かるものだし。
ほんとああいうのなんなんだろうなあ。
いや、自分が出すわけじゃないぞ。
いわゆる、なろう系の出版物でな。取り下げもせずWEB版として残してくれてる有り難みはともかくとして。
一個人の趣味で公開されていたものと、商業に載せるものって違って良くない?つか違って欲しいというか。
極端な例で時代考証を付けたラノベがあったけど、その手の心意気っていうか予算と人の使い方っていうか。
てにをはヤベぇってのは、ラノベというジャンルにおいて、ある程度までは許容されるにしても。明らかな単語の誤用とか時代によって解釈の異なる言い回しの修正とかは必要じゃない?だって読みにくいじゃん。
ターゲット層はあるにしても世代間格差で通じ無い表現は、通じるように工夫したり書き換えたりするから、読み物として一定水準を求められる商業のラノベとして成り立つのでは?
というのが望みすぎだと、いよいよ痛感した。
現代日本が舞台のラノベなのに「国民」じゃなくて「市民」って表現された時点でコイツ「地球市民」とか言い出すイデオロギーのヤツだと丸わかりに。
ヤングアダルトとか分類されていた時代は未だマイルドに包み隠して主張するだけの気遣いが存在していたのにな、ラノベ的な読み物でも。
『外国に住んでるうちに「てにをは」が曖昧になって~』みたいなこと言ってる人って元々の日本語力が相当低い人なんだろうなと思ってた。しかし外国に住んで5年過ぎたあたりから、自分の日本語が変な感じがするようになり、年々悪化している。何度読み返しても変な感じがするし、副詞の場所が変な気がする。時々、英語の関係詞節を直訳したかのような醜悪な文を生成している。元々の日本語能力は決して低くなかったと思うからなおさら、足場が崩れていくような感覚があって怖い。←後、単に思考力が低下してるのかもしれないけれど、こういう前後で関係あるようなないような文を適当にくっつけた非論理的文章を書いていることも多い。どうしたらいいんだろう。
てにをはが間違っているというものからはじまって、国語の教科書に載ってもおかしくない文章なのに内容が頭に入ってこない。
これは多分読者にわかる文章を書こうという気遣いがないからなんだなと思われる。
オタクが得意分野について語るときに早口になるなんてミームと同じことが文章にも現れるのではないか。
書きたいことだけ書き、それを仲間にわかってもらえれば十分という根性で文章を書いている。
おかげさまでこちらには届かないようになっている。
「こいつ文章下手だな」と思った瞬間に読み飛ばしても大丈夫と学習した。
以前は「下手な文章だけどいいことが書いてあるのではないか」と苦労して読み進めたものだが、無意味とわかってからはバンバン読み飛ばすようになった。
ただごくたまに文章が上手いのがいる。
この場合は地雷を踏んだと思って読んでしまって無用なストレスを背負ってしまう。
カラシイロノシャーツッス 竹内まりや/September ( からし色のシャツ追いながら とびのった電車のドア )
てにをはが上手いこと使えていないだけじゃなくて、単語や専門用語を間違えて使っておられる方も以前はおられました。今いるかどうかはさておいて。
そういう物事を間違えるタイミングというのは、何かしら惰性で行っていたり、激情に駆られていたりするものなので
増田での作業をする時ぐらいは一度冷静になって、使っている言葉の意味を検索してみると激情に冷や水をかけられず、現場での二次災害三次災害を引き起こさずに済むかと思われます
ということで本日は【道具の適切な使用よいか】で行きたいと思います。