はてなキーワード: 二人称とは
これを見て成人映画館なんてものを初めて知り、大変興味深く読みました。
読み物としてとても面白かったです。
仮に男性が書いたものだとしたら擬態が非常にうまくてすごいと思いました。
他の人のレポも読みたいと思って調べて出てきた「自称女性の体験談」があまりに酷かったので余計に……。
若い女性を名乗って書かれているのに文面から滲み出るおっさん臭がきつくて読む気が起きないものがいっっっぱいありました。
男目線だとビューが伸びないとかあるんですかね?
でも女を自称して書くならきちんと騙す努力をしていただきたい。
そういったよく分からん上にくだらない怒りが沸いたのではてなに書きました。
最初に上げたものくらいと言うのは贅沢過ぎるので、最低限これをしなければ多少マシになると思う点をいくつか上げるので若い女を自称するネカマの方はご一読いただけたら幸いです。
※以下、独断と偏見に満ち溢れている上に偉そうな口調になります。
女が書いている印象を強めたいのかワタシ、アタシなど一人称で特によく見られる。
たまにアナタ、カレなどの二人称、三人称もあったり、カンジ、アサハカなどの変な部分にカタカナを使うのはギャルや若い子のイメージなんだろうか?
どちらかと言うとバブルや昭和な印象を受けるので本気でやめて欲しい。
日本語としては、間違っていないが、ネカマの書く文は、息が切れているのか、ってくらい、無駄に読点が多い。
読点だけでなく句点もLINEで短文のラリーのやり取りがメインのせいかあまり使わない。
自分は同じ世代の中では比較的句読点をつける方の人間なのにそれでも多過ぎて目につく。
やたら「・・・」を使う人も見かけるけどこれは同じ人が大量に書いているんだろうか。
「〜わよ」「〜のよ」「〜かしら」などの役割語を使って安易なキャラ付けするな。
創作の小説ならいいかもしれないけど経験談の体で書くならもっとリアリティを出さんかい。
「〜♪」「〜ネ」を使っているのを見かけたとき、これを本気で若い女の子が書きそうな文として描写している人間がいるのかと衝撃を受けた。
自分の趣味なのか妄想を手助けする視覚的情報を与えたいのか無駄に女の容姿や服装、普段の行動を描写することがある。
その服装が設定する年齢やキャラと合っていなさすぎてげんなりして読む気をなくす。
コーデがとんちき過ぎたり、流行何年前で止まってんだってノイズになるから少しは勉強しろ。
誰が読んだか分かる既読機能があるのでくれぐれも同じ相手ばかり見て恐怖を与えるな。
たまに知らん男が頻繁に覗きに来てると怖いのでブロックする。
よく知らんのに「スタバの新作」とか無理に入れるな。
書くならせめて一回は実際に飲みに行け。
これは人によるかもしれないけど「バーゲン」じゃなくて多分「セール」って言う。
「バーゲン」って言うのクレヨンしんちゃんとかサザエさんとかの中でしか見ない。
そういったリサーチが出来ないならいっそのこと書かないという潔さを持て。
後半になるほど個人の感想が強まった気はするがそこまで外れはいないと思う。
偉そうに長々書いたけれど、わざわざ己の力で文章を書こうとする心意気はとても素晴らしいものだと思います。
今日日ChatGPTを使えばそれっぽく生成出来るだろうに。
ある意味とても血が通っている。
本当はネカマとか己を偽ったりせずに、自分が体験したことをパッションで書いたものを読みたいと個人的には思います。
あの「どう見ても女が書いてないだろう」っていう独特の文章が様式美として確立されたもので、それがいいのかもしれない。
昨日今日で体験談界隈(?)を知った風に語るなと言われてしまったらどうしようもないけれど、少しでもリアリティを持たせたいと言う方は参考にいかがでしょうか。
まあ、ワタシも、ネカマかもしれないけどネ!
kjin 漫画云々より今もワイドショーて言葉が若い人に通用するのかが気になった。増田は対応とか好きに思ったらいいしDBで育ったけど鳥山明のマンガに与えた影響とかは思わなかったかなあ。当時自分が夢中になっただけで
元増田に「増田って呼ばれるの嫌」と書いてるのに、増田と書く意図はなんなんだろう?
故意の嫌がらせ?それとも「自称したコテハン」を二人称ないし三人称としてブコメ等に使っても、他のそのブコメを見た人がそのコテハン文字列がどういう文脈を持ってるのかさっぱりわからないことがあるのに対して(固有名詞か慣用句かすらわからないかもしれない)、
「増田」と書けば「増田に書かれた文章の書き手」ということを確実に伝えられるから、っていう配慮の意図が大きいのかな?
それともその趣旨を伝えた最後の文は明らかに本題と独立してるうえに、あまりにも通常の増田の価値観とは異質な文化圏から出てきてる言葉なので「ごちゃごちゃ何言ってるのかわかんねえ」って感じでスルーしてるのかな?
「母の仮面がしんどい」とか、「母になる前の自分に戻りたい」とか、母親として押し付けられるアイデンティティに対する辛い心情の吐露が、度々話題になる。
私もそのような言説を見聞きして、自分も子供を持つとそのような息苦しさを感じるようになるのかとぼんやり思っていたが、実際に子供を持ってみても全然そんなことはなかった。
育児休業を取得し、1日のほとんどを育児時間に費やしても、私はずっと私のままだった。日常的に二人称として「お母さん」と呼ばれるようになったが、それは想像以上に私の自己感覚に影響を及ぼさなかった。
なぜだろう、と考えてみると、複数の要素に思い当たる。思考の整理の意味で、要素を書き出してみる。
ちなみに「母の仮面」がないことと子育ての大変さは無関係である。夫婦双方の実家が頼れない状況で、それなりにハードな毎日を送っている(抱っこのし過ぎで膝が曲がらなくなってきた)。
自分の母親(絶縁状態)の育児が思い返せば思い返すほどひどいものだった。なので「自分の親は偉大だった」と気づいて自分の育児のハードルが上がるようなイベントが起きない。この点に限っては、自分の親は偉大なのかもしれない。復縁するつもりはないが。
母親になって以前のようにファッションが楽しめなくなったと嘆く人は少なくないかもしれないが、普段からノーメイク&カジュアルファッションだった私は子供を持つ前と装いがほとんど変わらなかった。せいぜい立ったまま脱ぎ履きできる機構がついたスニーカーや、立ち回りに便利なボディバッグを導入した程度(これらのアイテムも元々物ぐさな性分によく合っていた)。
むしろ子育てしながらメイクやネイルもキマっている人ってどうやっているんだろうと恐ろしくなる。
自分の家庭環境が劣悪だったので、子供を持つ前に子育てについてしっかり一度勉強しておこうと思い、社会人になってから保育士の資格を取った。
そのおかげか、子育てに対する姿勢に「保育者」としての目線が入り、一歩引けているのかもしれない。
「この子には私しかいない」ではなく、「この子に対して、この社会では第一義的に責任がある」という感覚。
保育士の資格勉強を通じて、歴史上たくさんの大人たちが子どもの権利を守るために力を注いできた、ということを知られたのは本当に良かった。自分もまたそのような大人でありたい。
家庭環境が最も悪化していたときに禅の思想に出会い、そのときの感覚を今でも大事にしている。
言葉にすると浅学さが滲むが、「本当の自分」という考えに執着しない姿勢でいる。「子どもを持つ前の自分が本当の自分」という考え方そのものが、私にとっては自然でない感じがする。
もちろん、「子どもを持った自分が本当の自分」という考え方も同様である。
これが一番大きい気がする。
自由時間が大きく減る中で、SNSを見る時間が圧倒的に減った。代わりに子どものために外に出かけて、自然に触れることが増えた。もともと植物が好きな自分にとって、大きくプラスとなる変化だった。
絵本を借りるために図書館に行く日も増え、子どもと楽しむという名目で様々なジャンルの図鑑を借りたが、予想以上に知識欲が刺激されて面白い。
SNSから離れたことで、趣味の絵もマイペースに自分が描きたいように、ができるようになってきた。増田に長文投稿するようになったのも子どもが生まれてからだ。
趣味嗜好に関しては、むしろ子どもが今まで被ってきた仮面を捨ててくれた、という感覚がある。これは子育て固有の変化というより、広い意味での「自分に気づきを与えてくれる人物との出会い」だと思う。
これを書いている隣で子どもが寝ている。保育園に入って「〇〇ちゃんママ」と呼ばれるようになったら、また心持ちも変わるんだろうか?
副詞としての「一番」は熟語である。「ビールが一番好き」「こういう日はビールが一番」などには、漢数字を使うべきだ。
助数詞として「番」が添えられる場合、たとえばバッターの打順などであれば算用数字の「1番」でかまわない。
このふたつの簡単な見分け方は、数字の部分を他の数に置き換えても意味が通るかどうか。
たとえば、「ビールが2番好き」と言うことはない。
数字を含む熟語に算用数字を混ぜる誤用が近年増えている。というか、テレビにテロップが多用されるようになった頃から多い。
中でも「1番」は誤用の目立つ言葉の筆頭だったのだが、とうとうNHKまでこの誤用を平気で電波に乗せるようになってしまった。同じ日の同じニュース番組内で「第3者」という誤用もやらかしていたので、この日のテロップ係がかなり意識低い系だったものと思われる。「第三者」も「二人称」などと同じくそれじたいがひとつの熟語であるので、算用数字を使ってはいけない。
そのうち「1石2鳥」、「3寒4温」、「5臓6腑」、「7転8倒」、「8面6臂」、「10人10色」、「50歩100歩」、「議論100出」、「1000軍10000馬」などの表現もテレビで見られるようになっていくだろう。「2人3脚」はすでに広く使われていそうだ。
XX年、ずーっと大好きだったゲームのリメイクが出ることになった!
……中国で……っ!
正直、とても複雑なきもちで、
「10年以上も経って、公式に動きがあってうれしい」っていう気持ちと、「もう原作は”母語”じゃなくなるんだ……」というガッカリがあります。
表では「うれしい」ということしか言えなくてしんどかったので
つらみのほうを吐き出すためのチラシの裏です。
(これだけでジャンルがわかる人にはわかっちゃうと思うんですが、それでもいいかなーと思っています。)
公式も、開発の人も、ファンにも一切悪いところはないんですが、
どこそこの国が嫌いとか、
そういうものではなく、
単純に中心地が地元から遠ざかったのでくそーっと思っています。
補足すると作中の世界観的には、日本も中国も関係ないと思います。
日本人じゃないと「誰がわかるんだよ」ってパロディはたくさんあるけれども……。
当然のことながら、SNSで回ってくる情報がぜんぶ中国語となりました。
開発をチラ見せする進捗のスクリーンショットとともに、説明文は中国語です。
もちろんこんな時代ですから翻訳ボタン一つで翻訳できるわけですが、
「さて、〇〇はどうなったでしょうか? 今後の開発に乞うご期待!」
しんどーい!
丁寧に原作を拾ってくれる様子が見られていい感じです。
それでも、それでも!
それでもなお、
それでもなおだぞ!
「クイズです!」って(日本語ではあんまり)ピンとこないクイズにされて、
プロモーションPVでは性別を確定させる人称になってて(彼とか彼女とか)
で、いったん「いや、そんなつもりはなかった」
それは、ぜんぜん、大丈夫!
そういうこともあると思う!
仕事が雑とかではないと思う!
ただ、その流れが、プロセスが、
思ってた以上にしんどかった……。
一番力を持つ公式な原典がある→日本語への翻訳→どうしても読み落とすニュアンスが発生する
の流れが本当につらかった~~~~~~!
これからたぶん
零れ落ちてくんだと思うと、つらい。
とか、
日本語だといまいちピンとこない謎解きとか追加されないでくれーっ!
とか、
変なパロディ入らないでくれーーーっ!
例えば日本製のゲームにスラムダンクの「諦めたらそこで試合終了ですよ」
みたいな有名なセリフが出てくるとして
まあ、それはぜんぜんわかるし……
(好きってわけでもないけど/世代が違いすぎるとわからなくなるかもだけど)
もとから海外製のゲームに、なんだ。海外のミームが入ってても気にならないけど、
リメイクでこっちじゃ通じないパロディを付け足されたりしたら、
いや……いやだなあ。
実はUndertaleのSwitchの追加のおまけちょっとわけわかんなくで、
ちょっと毛色の違うおふざけをされたらくぅう~っとなるかも。
なるだけなんだけどね。
10年以上を経て作中の悪童と同じ年齢だったクソガキもなりに大人になりました。
そもそも日本で作る余力がないから海外になってるんだろというのもすげーわかる。
でも、
本音を言えば、
私の好きなゲームの原典は、ずーっと日本語であってほしかった!
どうしてかってーと、
っていう主張ではありません。
せっかく中国だし、
人たくさんいそうだしさ、
たくさん売れたらいいなー。
それで、おいといて、
どれかというと、良質なコンテンツのチャンスなのに、
国内でつくれない状況が
一番のしんどさかもしれない。
これを高校2年の夏に読み、この夏、再び読むことになった。
誰かと分かりあうということ、とはどういうことだろう。
それはスイッチをONにする作業のように、明確な手応え(や、フィードバック)があるわけでも、
しばしば人間は、断絶をエンターティメントやコミュニケーションとして用いる。
僕が147話分を読んで感じたことは、時間は具体的な課題は何も解決してくれないが、課題に対して曖昧さをもたらしてくれるということだ。
そして曖昧さによって、誰かを許すことができる。
「鹿児島に行く」という約束は具体的な形を保ったまま、プンプンと愛子の中で、
冷凍庫の奥で忘れ去られた小さなアイスのように、形を変えずにそこに存在し続けていた。