はてなキーワード: くじらとは
個人的には、ディープフェイク等の問題からAI規制は当たり前だと思っているが、SNS(X)を中心とした反AI運動は何か気持ち悪いものを感じて近寄れない。
この感じは何なんだろうと考えていたが、どうやらそもそも彼らは「連帯」という言葉の意味を理解していない、あるいは歪めているのだと気がついた。
連帯とは何か。
例えば反AI運動なら、「私は著作権問題でAIに規制を求めたい」「私はディープフェイク問題でAIに規制を求めたい」「私たち両方に利益のある規制を求めて協力していこう」とこういう会話ができることである。
まかり間違っても、「ディープフェイクを理由にAIを問題視しているなら、同じように著作権問題にも注意を払わなければいけない」などと迫ることではない。
ある問題が問題視される理路は一つではなく、それはどれかひとつが正しいというものでもなければ、ひとつが正しければ他のすべてが正しいというものでも、そうでなければいけないというものでもない。
連帯するということはその多様な問題点を問題視するそれぞれが、同じ対象に問題を感じているという一点だけで協力することであって、わざわざ邪魔をするようなことはあってはならないが、互いに必要以上に理解を求めあうものでもない。
しかしどうも、Xの反AI運動に熱心な、「クリエイター」意識が強い面々は、そういうことがわかっていないように思える。
彼らは「著作権問題は正直どうでもいいけど、AI規制は必要だよね」という意見の人を最初から想像もしてないように見えるし、たぶんそれを認めさせようとすれば反発すらしそうな気配がある。協力しようなんて気はさらさらないだろう。
というより、彼らにとって「協力」「連帯」とは、「クリエイター」の悲惨な境遇を認め、共感あるいは畏敬の念をもって憤怒の情にかられることであって、「クリエイター」に全く同情的でないがAIには問題を感じるなどという意見を持つのはその方がおかしい、矛盾してるくらいに感じているのだろう。
つまり、彼らにとっては運動ということが敵とやりあうためにクレバーに立ち回ることではなく、とにかく自分の立場の支持者を増やすことにすり替えられてしまっているのだ。
そうやって考えてみると、SNSの運動家には一般にこの性質が見られる。
「フェミに問題があると思うなら日本が女尊男卑だとも認めろ!」
とか
「表現の自由戦士に問題があると思うならオタク文化も全否定しろ!」
とか。
通常の人が通常の範囲で問題があると思うものに声をあげるために、それ以上の過激な立場でいることを何故か強制されるのだ。
「いや、そこまでは言うつもりはないんだが…」と躊躇していると、「だったら黙ってろ」と言われてしまう。
これって何か、「連帯の輪を広げる」という建前からはどこまでも離れたものになっている感がある。
独断と偏見でこういった排他性の心理を分析するなら、やはりそもそも彼らの望むものは問題の解決とか、合理的な利害の処理というところにはないのだろうと考えざるを得ない。
では何を求めているのか。
結局、それはSNSというサービスの本来の目的そのものなんだろう。
どちらかというと、そこまで極端な自分の主張を肯定してくれる、真の仲間、くらいのすごいものを求めているのだ。
そうでもなければ、些細な違いに目をつぶりつつ、なあなあで連帯することにあそこまで目くじらたてて拒否反応は示さないだろう。
彼らは、敵を設定することで、敵の敵は味方理論で自分を理解してくれる人を増やそうとしている、というのが本当のところなのだろう。
悪役や問題のある奴として配置されているキャラクターに激しい嫌悪感を抱くことがあまりない。
どうせ最終回までには断罪されるし、どこか「話をまとめるために誰かがやらなければいけない憎まれ役をやっている者」と感じて叩く気にならないことが多い。
そのせいか、明らかに嫌われるべき悪役への野次にさえも苦手意識が出て、悪役のいない明るく楽しい話以外の応援上映には行かなくなった。
作中で他のキャラクターから憎まれるぶんには当たり前だとしか思わないのだけれど、他の読者・視聴者による野次はなんとなく聞いていて嫌である。
さらに、一般ファン(ここではキャラ萌え二次創作に積極的に触れない層とする)が悪役を嫌うことは作品の王道の楽しみ方だと一応は感じるが、
詐欺師だろうが殺人鬼だろうがどこかが刺されば推しにしているキャラ萌え要素の強いオタク同士で語らう場合は、「悪い奴だから不愉快で嫌い」という理由に納得がいかないことも多い。
殺され役がモブとしてしか描かれおらず悲壮感がないから悪事に見えにくいだけの話じゃないのか?とか、そういうことが言いたくなってしまう。
絶対に推しを悪く言われたくないとか、絶対に誰の悪口も聞きたくないとかいうよりは、
ある作品では大量殺人を犯すキャラを推しているオタクが、ある他作品でキャラを嫌う理由に「人の命を軽く見ているから」と述べることに納得がいかない気持ちのほうが大きい。
「フィクションなんだから現実的な倫理観とキャラクターとして好きか嫌いかは別物なんだよ」という理屈でキャラ萌えオタクやっているんだと思っていたのに、そこでは普通の正義漢みたいな話になるのか?わからんなぁ……となる。
ついでに、話し手がキャラより上かのような表現の「嫌いさ表明」が嫌いである。
いわゆるイキリっぽいのが嫌だという同族嫌悪もあると思う。
たとえば(のちに和解っぽくなってはいるが)範馬勇次郎を主人公の良き父親とは思えないから好きではないと言う人がいるのは納得できる。
なんだかんだで格のある強キャラだからとか面白いからとかで好きだと言う人がいるのも納得できる。
なので「俺は勇次郎好き」「俺は勇次郎嫌い。やってることムチャクチャだと思う」は両方嫌ではない。
ただし「ああいう親父キャラ見るとボコボコにぶん殴ってやりたくなるから嫌い」は嫌だ。
単純に「そうしてやりたい気持ちになるくらい嫌い」というだけの表現なので目くじら立てることではないのは承知で、それでも嫌いである。
一般人が対面で文句を言える立場にないような身分の美女という設定のキャラへの「思い切りブスって言ってやりたくなる」等も、似たような感想になる。
神社の例祭を運営する側である。厳密には私ではなくて、夫が代表でその寄合に参加している。
その例祭のことで、夫に相談を受けて悩んでいる。相談内容だけど……
うちの地域は、京都市内の山間部に近いところにある。小さい神社で豊作を祝う意味で例祭がやるのだけど、そのお祭りに町外の人が来て、出店の飲食物を買っていく。そんな懸念を夫が吐いていた。
参考までに、神社の境内の付近では、市販のおにぎり50円、ジュース50円、焼きそば100円、ビール100円で売っている。ほかの食べ物も非常に安い。地域に対する感謝価格だ。
夫が言うには、町外の人がそれなりの量を持ち帰りで買っていくようである。私は直接見たことはないけど、確かに毎年キレイに売り切れている。
「どうすればいいと思うか。去年は地元の子の分がなくなった。今のやり方を変えた方がいいのか」
うちの地域の神社は山の上じゃなくて、住宅地の近くにある。お祭りをしている様子が外から見てもわかりやすい。小学校とか中学校の校庭でサマーフェスティバルとか、文化行事などをしていると、すぐにわかるよね? あんな感じ。しかも夜だから、照明が余計に目立つ。
私の考えだけど、たくさん買っていく町外の人がいても当たり前なのでは?と感じる。目くじらを立てずにと言いたいけど、それは夫がほしい答えじゃない。かといって、どうすればいいのか、効果的な案が思い浮かぶことはなかった。
もう何か月かすると、お祭りの準備が始まる。夫の相談には応えたい。どのように答えればいいのか、よろしければアドバイスをいただけたらありがたい。ほかの質問投稿サイトには相談していません。ここだけです。