はてなキーワード: アニメ版とは
ポケモンショックによって以降の作品に「テレビを見る時は部屋を明るくして離れてみてね」が装備された。
まさにアニメにおける黒歴史でもあり、歴史を変えた作品という意味合いにぴったりである。
作画崩壊なら『ロスト・ユニバース』の「ヤシガニ問題」や『DYNAMIC CHORD』の「ダイナミック作画」、『銀盤カレイドスコープ』の「アラン・スミシー騒動」もあるが、「キャベツ」による作画崩壊は一番業界に影を落としたと言われている。
またこの作品は「エロゲ題材のアニメは何かとクオリティが良くない」という風潮が目立ち始める。
UHFとはいえ地上波で放送中止へと追いやられた作品。 『ヨスガノソラ』と併せて「地上波で放送できるエロのレベルは『ヨスガノソラ』以上で『異種族レビュアーズ』未満」というフレーズが出来てしまう。
クラウドファンディングをして大失敗した例として挙げるべき作品の一つ。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、原作者と製作者での食い違いが起き、原作クラッシャーが起きた。
うる星やつら以上の原作クラッシャーを起こしたアニメに対抗して、放送終了後に謎のアニメ版がYoutubeでアップロードされる。
「原作ではそんな描写がないのに、アニメ版だとヒロインがコテコテの変身魔法少女に改変されてる(おもちゃ売るために) 」作品が源流にありそうな気もするなー
そういうケースが多かった90年代、複数の漫画で「もしアニメ化したらヒロインに魔法少女設定が生えんだぜw」ってギャグを見かけた
今リバイバル上映中の映画「アイカツ!10th STORY~未来へのSTARWAY~」(以下、アイカツ10th)を見てきたんだけど、昨年公開時よりアイカツおじが減ってて、現役世代、つまりアニメ当時ガチ女児の現JKJD世代ばかりだった
公開当時からアイカツ10thのメッセージはおじたちには殺傷力高いなと思ってたが、、、
そもそも、アイカツのアニメ(以下アニメ版)は2012年10月放送開始で、主人公星宮いちごがトップアイドル神崎美月に憧れて、アイドル学校スターライト学園に入り、仲間たちと切磋琢磨し成長していく話だ
で、アイカツ10thはその約10年後(2023年1月)公開で、アニメ版でユニットを組んでいたメインキャラ3人のいちご・あおい・蘭を中心に、スターライト学園 高等部の卒業を前にした彼女ら18歳の年と、その4年後の22歳の年の、2つの時間軸が描かれる
という感じ
感想に入る前に背景として、アイカツシリーズ全体の根幹を成す概念に「SHINING LINE*」というものがある
これは、「憧れを道しるべに努力で描き、また次に憧れを繋いで紡いでいく軌跡」みたいなもので、
要は、美月に憧れてアイドルになったいちごが努力を重ねトップアイドルになる。さらに、そのいちごに憧れた大空あかり(アニメ版の次の主人公)もまたアイドルになり、努力しトップになる
俺たちアイカツおじは、アイカツ178話を通じて紆余曲折しつつも脈々と築かれてゆくSHINING LINE*に心を震わせ、奪われてきた
ところが、アイカツ10thでは作品を通じて「キミの人生もこのSHINING LINE*なんだよ」と訴えてきている
今の自分は、夢を抱いたころの過去の自分にとっては憧れの存在(スター)で、今は辛くて未来が不安でも、過去から今まで紡いできた軌跡(スターウェイ)は既にあって、これからも自分らしく努力して未来に繋いでいけば大丈夫だよ、それがあなたのSHINING LINE*になるんだよ
もちろん、これは現役世代向けのメッセージだってことは解っている
アニメ版放映当時10歳だった幼女先輩方は、アイカツ10th公開時で20歳になっている。きっとコロナ直撃の高校生活を経て、JDは就活を控えorただ中だったり、高卒就職勢も社会人としてシンドイ時期だろう
そういった子たちには響くと思うし、イチおじとしても頑張っていってほしいと思う(キモくてスマンな)
一方、我々おじたちは、「星宮いちごは俺が育てた」ばりにSHINING LINE*の外側からフアン目線で、なんならいちごちゃんたちの親目線で、彼女らの成長を見守っていたころから10年経った
我々はどう生きてきただろうか
もちろん、努力を積み重ね、10年前の自分に憧れられるような自分になっているおじもいるだろう
今の自分がさほど立派でなくても、着実に、自分なりに人生を歩んできた、自己肯定できるおじもいるだろう
まがりなりにもアイカツを見てきたんだから、いちごちゃんたちに感化され、努力し頑張ってきたアイカツおじはたくさんいると信じたい
でも俺もいい歳なので、そんな人ばかりではないことは知っている
思い通りいかずにクサったやつ、特にやりたいこともなく日々ダラダラ過ごすやつ、現状の文句ばかりで何も行動しないやつ、努力できる環境にもいなかったやつ、……
こんなおっさんらの中にもアイカツおじはいて、アイカツ10thを見た人もいるだろうと思うとツラい気持ちになる
劇場で、あの輝かしいSHINING LINE*をお気楽なフアン目線で久々に見れると思ってたら、「この10年頑張ってきたあなたの人生こそがSHINING LINE*なんだよ」と言われてしまうとは
いちごちゃんにこれまでの己の人生を突きつけられて、無事死亡したおじたちは結構いるのではなかろうか……
成仏してくれることを祈っている
と、昨年公開時に思ってたら、今やってるリバイバル上映ではあからさまにおじ率が低く(N=1だけど)、アイカツおじ達が生きてるか心配になって長文失礼しちゃいました
俺が行ったのがたまたまおじが少なくて、他の回や場所でおじ達が生きてればいいんだけどね
# 2022年に前半上映しとるがな、とか、いちごちゃん3/15生まれなんだから18歳ちゃうやろ、とか、美月さんの前にマスカレードやろがい、とか、あかりちゃんはスターライトクイーンにはなったがトップアイドルか?とか、ツッコミどころは勘弁してな
なんの権限も持たない一消費者としての戯言なんで、世のクリエイターや業界関係者の人は「無責任なアホだなあ」と思ってくれていいよ。
俺は漫画版のチート付与魔術が大好きだが、コイツが原作改変なのは間違いない。
原作改変がこの世になかったら俺はこの漫画を読めなかったので、原作改変を俺は支持することにした。
漫画版チート付与魔術師はナーロッパが舞台なのにドラゴンがUZIを隠し持ち、半グレを倒すために黒塗りの乗用車が押し寄せる脅威の原作改変漫画だ。
中世風の世界だったはずなのにパチンコが存在し、文明の利器を使うと魔力がなくなるから使ってないだけで電気は街中に通っていることが明かされる。
現代と中世が交差する異様な空間として漫画版チー付与はインターネットで大人気だが、これは紛れもない原作改変の産物だ。
この様子に原作者はどういう心情なんだろうか?
文筆家である本人でさえその内情を正確に吐露することが不可能なほどに混沌とした言語化不可能な心理状態と察せられる。
本人の知覚さえ不可能な無意識下でどれほどの愛憎が渦巻いているかなぞ無産階級の匹夫には想像する資格さえあるまい。
20年前とあるラノベのアニメ版で発せられ、今も語り継がれるセリフに「メディアの違いを理解せよ!」というものがある。
貴重なスタートダッシュの第一話であろうことかこの言葉を皮切りとして映像化に向けた会議が生徒会室で繰り広げられていたのを覚えている(その1話しか見てないので、他に覚えているのは聞き流してゲームのWIKIを更新しているキャラが居たことぐらいだが……あと主人公の髪がピンク……いや白……黒?あれ?髪の色も思い出せない。PSPをやっていたことは覚えている。DSだったかな……あれ……当時まだDSはない……アレ?セリフ以外に覚えてるものある?)
そもそもあってたまるだろうか?ラノベで初っ端アニメ化の台本を書いてくる作品なんて。
これは絶対だ。
キャラクターが一言目を発した瞬間からそれぞれの読者がイメージしていた声との差異について誰かがSNSで語りだす。
部屋の作り、主人公の佇まい、あらゆる所作と小道具が原作と比較される。
似せることは出来るし、再現しようとすることは出来るが同じものにはならない。
良くも悪くも。
原作改変の善悪を決める権利が原作者にあるというなら、権利者としての力を存分に振るってくれて構わない。
だが消費者からすれば、個人的な好き嫌いや楽しめたかどうかだけが、原作改変の良し悪しになる。
面白くなるならいくらでも原作改変して欲しいし、メディアの違いを理解せずに必死に原作を維持しようとして駄作が産まれたなら単に見ないだけだ。
好きにして欲しい。
鳥山明はドラゴンボールでそもそも少年悟空の冒険アドベンチャーを描きたかったのが人気が出なかったので
編集が「悟空と亀仙人以外全員捨てて仕切り直せ」つってアドベンチャー路線を捨てさせてバトル路線に舵を切った。
鳥山がアドベンチャー路線が好きなのはドラゴボ以降の作品群見てりゃ誰でもわかるわな。
ちなみに等身の高い大人キャラクター描くのもそんな好きじゃない。
その後、バトル路線に飽き飽きした鳥山がピッコロ大魔王編でまたちょっとアドベンチャー路線に戻して
ピッコロ倒して終わりにするはずが人気がありすぎて編集から続けろ、次は大人編だと言われ継続。
その後は本人も「エピローグのつもりで書いてた」「アニメ版をZにしたはもう終わりにするため」と語っていたように
本宮ひろしの男一匹ガキ大将なんかも有名な作品で、作者は何度も終わらせてくれと編集に直訴したが許されず
とうとうブチ切れた作者が主人公の腹に竹槍をぶっ刺して死にました!終わり!ってして
いざ本誌が届いてみてみたら編集の煽りコメントで「続く」と書いてあってビックリ仰天。
結局、それからダラダラ連載を続ける羽目になった。
他にもハンターハンターの富樫が幽遊白書で連載辞めさせてくれなくて病んで失踪した話は有名。
つーか集英社にこの手の話多いな。
他にもなんか途中からジャンル自体がガラッと変わって何だこれってなった作品もあったよな。
そこまで行かなくても、マガジンで連載されていた我間乱ではコミックスのキャラ紹介で定期的に
「編集が入れろって言うから入れたけど面白くならなかった」的な文句がちょろちょろ出てくる。
連載作品でこの手の「作家の思いとは関係なく作品の流れやキャラクターを改変させられる」話は事欠かない。
もちろん、出版社としては芸術やってんじゃなくて、商売として最善を尽くしてるだけってのは実際そう。
人気作品は引き延ばせるだけ引き延ばして金稼がなきゃいけない。
そのほうが作家にとってもいいはずだと思ってそれをやることは否定しないけど、
でもそれで出来上がってきたものは果たして「作家が本来描きたかったもの」だろうか。
あれはテレビ局が脚本家を連れてきたセクシー田中さんとはだいぶ違うんだよなー
漫画版エヴァを描いた貞本義行はTV版の中核スタッフで、原案にもクレジットされてる立場でもある
そしてTV版が原作というわけでもなくて、貞本の漫画版は放映前から連載が始まってる
で、そのTV版との違いってのはおそらく鈴原トウジのことなのだが、TV版は一命を取り留めるけど、漫画版では命を落とす
実は原案でも死亡する予定だったんだが、プロデューサーの意向でアニメ版では展開を変えたらしい
だからその点では漫画版のほうが「オリジナル」に近いとも言える
死亡前後に差し込まれたエピソードもなかなか胸をえぐる内容だった記憶があるが
まあ、連載がそこまで進んだのも旧アニメ版の結末で大荒れになって数年後のことだから
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。