はてなキーワード: 書籍化とは
都内在住のアラサー 小説家になりたいと思い始めたのは高校生ぐらいから
俺は大学生の時から小説をシコシコ書いて賞に応募していた。学生の時は、短編は一次通過するけど長編は棒にも端にも、みたいな、まあよくあるワナビーだった。
それでもめげずに、なんとかつづけた。
二十代半ばから、出したらだいたい通過するようになった。二次まで通るようになったので、何回か編集部側からコメントがもらえたりした。
そんで今年、初めて最終選考まで通過した。もちろんうれしかったけど、地獄みたいな時間だった。
一カ月も結果を待ってなきゃいけない……ただそれだけなんだけど、落ちたらどれだけ落ち込まなきゃいけないんだろう、みたいなことを延々考えてしまって、意識を保っていること自体苦痛だった。
一回目は正直本命の賞じゃなかったから、つらかったけど、落ちたあとはわりとケロッとしていた。
問題は二つ目。今年二回も最終に残ったんですよ。働きながら。すごない?
けどこれが本当に本当に地獄すぎた。毎日結果のことを考えて泣いた。起こってもいないのにすでに絶望していた。
前回の賞と違って本命度が違ったというのが大きいと思う。賞金もちょっとした年収ぐらい出る。書籍化も約束されている。名だたる作家を輩出している名門の新人賞。
もしこれでデビューが決まったら……めちゃくちゃ楽だよなあ……そう、思ってしまう。そんなふうに思ってしまう自分の心の弱さに、また涙がでる。その繰り返しだった。毎日毎日。
俺は一年に一本長編小説を書いていて、500枚ぐらい(15万字ぐらい)になるので一年がかりの大がかりの作業だ。これがもうものすごく疲れる。
会社員ではないが仕事をしながら執筆しているので、普通に忙しい。バイトではなく自営なので、繁忙期は仕事してるだけでわりとハードだ。
仕事して金稼ぐ方が圧倒的に楽だよなあ、と。
あたりまえのことだがデビューしていない人間の書く原稿に原稿料はいっっっっっっっっっっっっさい発生しない。あたりまえだ。
あたりまえではあるのだが、仕事をする一時間と原稿を書く一時間で生み出すものの差を思うと泣きそうになる。
もちろん金のことを言い出すのは言いっこなしだと思う。でも、何年もやっていると、どうしても、バカみたいな時間だよなあ、と思ってしまう。
学生の頃、小説を書くだけあって俺には全く協調性がなく、みんなと一緒に頑張って何かをする的なことが全然できなかった。そういう自分の性根をわかっていたので、就活をしながらも(小説家にならないとどっかで人生詰むだろうな)と思っていた。実際会社員を数年やっていたが全然ダメダメだったし、給与もキャリアも全然上がる見込みがなかった。
けど独立してみたら案外イケた。一人親方で仕事をする分には俺はわりとうまくいく側の人間だったらしい。月70万~90万ぐらい、バッと稼げるようになった。会社員の時は手取り25万とかだったのに。
手取り25万の会社員の頃、仕事へのモチベーションは皆無で、(まあでも俺小説家になるっていう切り札隠し持ってますし?)(賞獲ったら一気に出し抜くぜ)と思ってどうにか、キャリアを積めそうにないことをごまかしていた。同世代たちが中間管理職になったり後輩指導したりしてるのを、すごいなあと思いながらも、自分がどうやらそこにはいけなそうなことにないことに絶望したり、バリバリ働いて稼いでいるらしき同世代らに対して醜いコンプレックスを感じたりしていた。小説家になりたい、と思っている一方で、同世代よりは年収稼ぎたい、とか、出世してみたい、とか、そういう世間一般に即した野望も捨てきれずにいた。要するにすごくどっちつかずだった。
会社を辞めたのにはいろいろ理由があったのだが、辞めたら適性があっていたのか会社員時代よりいろいろうまくいった。
仕事内容も自分の得意分野だしやってみたかった憧れの仕事だった。ものすごくあっさりと年収が上がったし、お金を遣える幅も変わった。
そうなったとき、あれ?と思った。俺小説をわざわざ苦しんでまで書かなくても楽しくない? と。
話は戻る。最終選考の結果、落ちた。振出しに戻った。
あーーーー自殺したい、と心から思った。それを実行するには成功率がものすごい低いらしいと知っているので試しもしなかったが、何をしても、もう、楽しくない、と思った。
落ちたことよりも、落ちたということはまた最終選考に残って、はらはらするひと月を過ごすこの地獄みたいな体験を繰り返さなければいけないのかということが、とんでもない苦痛に思えた。今も思う。一応原稿は書いてるけど、今後どうしていいかよくわからない。
二回も残るってことは才能があるんだと思う。でも、ここ継続できるかどうかも才能の一つだ。ここでダメなら小説家になれたとしても続かない。
みんな、やたらと頑張ってって言ってくれるけど、努力している人を応援することで夢に乗っかりたいだけなんじゃないのかって最低なことを思ってしまう。
小説を書くことだけじゃない。夢を見続けるのにも体力がいる。
最終選考どころか選考通過もせず、小説誌の選考結果ページに自分のペンネームがないことに絶望してはしょげかえっていた学生時代の自分に言いたい。
どうにかここまではこぎつけた、でも、ここはここで地獄だぜ、と。
AV女優とかお笑い芸人とかが小説書いて出版してるのみると正直発狂しそうになる。俺も何か突飛なプロフィールあればカドカワあたりが拾ってくれるんだろうか、とかね。
読書ぐらいしか好きなことないから金は売るほどあるし人生それなりに楽しい。
それでも俺は小説家をこれからも目指すんだろうか。今はもうよくわからない。疲れてるから小説家目指してるとは思えないぐらいの駄文だけど小説家なりたいワナビに届いてほしい。
和 1 年(受)第 877 号、令和 1 年(受)第 878 号
父親は幼少期に、他国から父母など同胞集団と共に来日し、帰化した。
多子家庭で育つも経済環境には恵まれ、大学院にまで進学(中退)、自営業で成功を収める。
客として訪れた父親と結婚するも、精神的に不安定な面が強く離婚、母子家庭でAを育てる。
Aは祖母に引き取られた。
後に偏差値70の学部へ進学するほどAは学業優秀であるが、小学生の頃はやる気にムラがあり評価は良くなかった。
祖母はAに体罰を行い喧嘩をすることがよくあったが、Aが中学生になると敵わなくなり、Aは父親に引き取られた。
Aは私立の中学校に通っていたが、そこでも粗暴な行動が目立った。
教師には、一見すると真面目そうで勉強もよく出来るが心の教育ができていないと評された。
父親はAと仲良くしたい、一緒に遊んだりしたいと干渉していたが、Aは父親を嫌悪して遠ざけようとしていた。
Aの粗暴行為が目立つため、中学2年生時のキャンプで、学校側はAを強制的に不参加にした。
キャンプに行けなかったことはAにとって非常に強い屈辱であり、その後の人生につきまとう出来事になった。
中学3年生の時、Aは同級生に嫌味を言われたと憤り、塾帰りの同級生が歩く夜道で待ち伏せし、ゴルフクラブを振り回しながら追いかけた。
暴行する意図はなく、驚かせて悔い改めさせようとしただけだが、Aは保護され、保護観察処分となった。
父親は心配してAを病院に通わせ、そこで初めてAに高機能自閉症があるとわかった。
本人には自閉症のことは知らされなかった。
中学卒業後、保護観察や通院などの関係で1年遅れて、Aは高偏差値の高校へ進学した。
小中では知的欲求を満たされないことで教師を侮蔑する態度の強かったAだが、高校では勉強に熱中し、徹夜して好きで勉強することもあった。
しかし体育教師に対しては粗暴な振る舞いをし、「そんな態度なら授業に出るな」と言われ、Aは体育に出なくなった。
出席日数不足のため進級できないと学校側に勧告され、父親は自閉症のことを明かし、Aも知るところとなった。
Aは自閉症のことなど調べるうちに、キャンプの件が理由でPTSDになっているのだという結論に達し、警察に被害を訴えに行くも取り合われなかった。
中学校を訴えてほしいと父親に頼むも、父親ははぐらかすばかりで一向に行動に出なかった。
Aは同級生の中傷文を校内で流布したり、女子生徒に執拗に求愛することでもしばしば問題となった。
17歳の時、Aは町中で行列に並んでいた際に、後ろの者にリュックをさわられたと怒り、通報して警察官を呼び出した。
警察官が事情聴取しリュックも調べると、中には刃渡り8cmの刃物があり、銃刀法違反でAは保護された。
調査官に対しAは様々な不満を漏らした。
父親は仕事の都合でたびたび祖国に戻り家を空ける一方で、居る時にはAに対し過干渉でAの寝所は仕切りがなくプライバシーがなかった。
調査官は仕切りをつくってあげるようにするなど父親にアドバイスをした。
Aは父親をひどく嫌っており、母親の自殺目撃について特に心傷はないが、そのせいで父親と暮らさなければいけないことが不服であると語った。
キャンプに行けなかったことはAの心の傷であり、当然の権利が奪われた、権利回復のために今からでもキャンプに参加させよと主張した。
18歳の青年が中学生に混じってキャンプに行くのはおかしいと調査官に言われても、Aはこだわり続けた。
合法的にキャンプに混じれないのならば非合法な方法でもいいからと、中学校に脅迫めいた手紙を送ることもあった。
高校卒業後、Aは偏差値70の名門大学に入り、弁護士になるために学ぶようになった。
AのIQは140ほどある。
最優域知能と発達障害による特性に学術的興味を持ち、調査官は国の許可を得た上でAについての論文を発表した。
書籍発売から何年も経った後で、調査官に書籍のことを話され、Aは初めて書籍について知った。
Aはプライバシー侵害として、調査官と出版社を訴え、国家賠償請求も行った。
Aは今年に入ってから、現在では大学教授である元調査官が書籍を心理学の教科書扱いして頒布しているとして、再び元調査官を訴えた。
異世界系の小説を書く実例が存在します。おすすめのサイトは以下の通りです:
1. **小説家になろう**¹:2004年に運営を開始した老舗の小説投稿サイトで、日本最大級の小説投稿サイトと言われています¹。『Re:ゼロから始める異世界生活』、『異世界居酒屋「のぶ」』、『転生したらスライムだった件』、『君の膵臓をたべたい』など、多数のライトノベル作品が、ここで人気を博したことをきっかけに書籍化されています¹。
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これらのサイトは、異世界系の小説が人気で、書籍化の可能性も高いです¹²。ただし、どのサイトを選ぶかは、あなたが書きたい内容やスタイル、目指す読者層などによります¹。それぞれのサイトが提供する環境やツール、コミュニティを理解し、自分の創作活動に最適な場所を見つけることが大切です¹。
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(6) undefined. https://www.amazon.co.jp.
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
〇インプレッション数が多いだけの一般人が専門家面して本を出す。
編集も売れるから売ってるだけでしょ。だから判断基準がフォロワー数なだけだし。
面白い人から書籍化するのであればフォロワー数なんて気にしない。
昔インターネットで「面白い」と認知を得た人たち、大体一定期間なんかしてその間のブログやらTwitterを書籍化するムーブ増えてる
面白いという名のカリスマたちが頻出し、その瞬間、瞬間を文字にすることで、一時代の文化を築き上げた。
だが、風が変われば、それらは塵と化す。昔のネットの民は、独自の文化とプライドを持っていたものだが、今ではその影すら薄れつつある。
昨日までの「炎上」は今日の「古新聞」となり、何者かに拾われて書籍の一ページを飾る。
なんという速さで情報が陳腐化し、なんという手軽さで「書籍化」なる産業の一部に取り込まれていくことか。
私たちが日々吐き出した言葉が、ただの商品として、何の感慨もなく棚に並べられる。
ブログやTwitter、かつてはそこに自らの生の声を響かせていたが、今ではそれも過去の遺物。
いつの間にかコンテンツを「コンテンツ化」することが目的と化している。
本当に価値あるのは、言葉にならない日常の深淵であり、そこに息づく真実なのではないだろうか。
「昔は良かった」というセリフは、インターネットの老害とでも揶揄されるのか。
5年くらいコツコツとTwitterに漫画を載せてて、最近やっと出版社に拾ってもらって書籍化することになった
全然バズらなかったけどとある回をインフルエンサーがRTしてくれてそこから急激に人気になって…という流れだった
昔からコメントをくれてた読者や作家仲間からの祝福はもちろんありがたいし、リプも丁寧に返してる
でも増えたのは「昔ちょっと仲良かったけど最近はほとんど関わりがなく、人気になった途端に友達アピールする人」で、
こういう人にはどう返事したらいいんだろう
「お久しぶりですw」なんて頭につけるとか?なんか人気が出た時に限って乗ってくるのがムカつくんだよね
これに関しては多分追っかけなくなった方も多いと思うのでこっちに現在進行形のラノベラブコメブームとただ当時のラブコメとは少し毛色が違っているよって話を書いておきます
まず、現在のラノベのラブコメ事情に関してなのですが、ぶっちゃけるとラブコメ系の作品が出ない月がないくらいに猫も杓子もラブコメです。
この辺りは小説投稿サイトのカクヨムの影響も大きかったりします。
ttps://kakuyomu.jp/publication/
こちらはカクヨムの書籍化やゲーム化された作品の一覧でファンタジー作品が変わらず多いですが、ラブコメ作品もかなり採用されています
アニメ化されたものだと「継母の連れ子が元カノだった 昔の恋が終わってくれない」だったり、あと最近のラノベ系のアニメのCMでおなじみの「クラスで2番目に可愛い女の子と友だちになった」もカクヨム出身です。
他でも「お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件」、前期だと「夢見る男子は現実主義者」、今期だと「経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。」アニメ化決定した「ロシア語でデレる隣のアーリャさん」「義妹生活」などなど……ファンタジー作品の次に、ないし、同等レベルで流行っているといっても過言ではないジャンルになっております
ただおそらく前の筆者が上げている作品と現代の作品だと少し毛色が異なります
まずハーレムラブコメとなるものが結構少なくなってきています。ヒロイン要素は多くても2人くらいで「誰かを選択する物語」ではなく「一人のヒロインと交流を深めていき、その日常を描く」形の作品が増えてきました
なので、以前のラブコメでは「告白」や「付き合う」といったイベントが終盤に描かれていましたが、現代ではもう3巻ぐらいまでに付き合ってしまって、そこからイチャイチャを描きつつ、高校生活で起こる問題や将来に向き合っていく、みたいな作品が増えてきました
(これに関してはさくら荘のペットな彼女と同じ作者が書いた「青春ブタ野郎」シリーズなどが走りとも言えますが、あれをラブコメと言っていいのかは意見が分かれるところだとは思います)
なので、ハーレムの告白するしないの緊張感みたいなのがラブコメの本質やろがい!となる派閥にとっては物足りない内容かもしれません。
そんなあなたにハーレムラブコメの距離感を味わえる作品として電撃文庫の「わたし、二番目の彼女でいいから」をおすすめしておきます
文字通り最新刊まで行くととってもハーレムラブコメなのでおすすめです。
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ただおそらく前の筆者が上げている作品と現代の作品だと少し毛色が異なります
まずハーレムラブコメとなるものが結構少なくなってきています。ヒロイン要素は多くても2人くらいで「誰かを選択する物語」ではなく「一人のヒロインと交流を深めていき、その日常を描く」形の作品が増えてきました
なので、以前のラブコメでは「告白」や「付き合う」といったイベントが終盤に描かれていましたが、現代ではもう3巻ぐらいまでに付き合ってしまって、そこからイチャイチャを描きつつ、高校生活で起こる問題や将来に向き合っていく、みたいな作品が増えてきました
(これに関してはさくら荘のペットな彼女と同じ作者が書いた「青春ブタ野郎」シリーズなどが走りとも言えますが、あれをラブコメと言っていいのかは意見が分かれるところだとは思います)
なので、ハーレムの告白するしないの緊張感みたいなのがラブコメの本質やろがい!となる派閥にとっては物足りない内容かもしれません。
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https://anond.hatelabo.jp/20231013181054
この記事に対する正解は「これはネカマが書いた釣りであり相手にする必要がない」である。
コレ以外は不合格。
採点は甘くして「雑な記事だな」までは正解とする。
私は男の定型発達者であり、そもそもたぬかなの配信など見たことがないし
発達障がい者の気持ちなどわからないし、女性の社会のことなど知らぬ。
単純にはてブ民が釣られそうな言葉を散りばめて意味のない文章を書いただけだ。読めばわかるだろ。
にも関わらず正答率はほぼZERO%。
こんなにわかりやすく釣り記事ですってわかるように書いたのに何マジレスしてんだよ。まず嘘だろって疑え。
これが釣りだとわからないでマジレスしたやつがいっていいセリフじゃないんだよ。
でも、後釣り宣言ダサいって言うやつは、釣られた恥ずかしいやつが自分のダサさを隠そうとして発されるからよけいにダサい。救いようがない
「私はつられなかったぞドヤ!」って人がたくさんコメントすると思ったら
むしろ釣られた人が顔真っ赤にしてダサさに拍車をかけていてびっくりするな。
釣りってわかった時点で「こいつは相手しても無駄なやつだ」と思えないの。情けねえな。
こういう負け惜しみを言うやつと、それにスターつけるやつが一番ダサいって言ってるのに
それでもまだすがっちゃうやつ、インターネット中毒者だから病院にいけ。
ここでも男はとか女はとかはてなユーザーはとか主語デカいんだよ、いちいち人を巻き込むな放火魔か。「自分は」と最小主語で話せ、そういうとこやぞ
釣りなのに主語を小さくしろの意味不明すぎる。どういう脳みその構造してんだよ。
この手のコメントも多いんだが
狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり。増田は自分で増田を書いているつもりになっているかもしれないが、増田に書かされている事実に気づいていない。引き返すなら今。
一番バカだなと思ったのこれな。
じゃあ自分ははてなブックマークに書かれてる事実に気づいて引き返せよ。なんで引き返せないんだ。
こいつがコメントしたら、「お前ははてなブックマークに書かされている事実に気づいていない。引き返すなら今」って一生いじってやろうな。
ありがとう。俺が書いてる釣りだいたい猿山ってことば使ってるから覚えてくれよな。100%釣り。覚えておいて。
いろいろ憎まれ口を書いたけれどみんな真面目に相手してくれてありがとな。
俺はなろうでちょくちょく小説を書いているんだけれど
投入しようと思ったキャラの理解にリアリティがあるかどうか気になって
時々ここでキャラ設定を書くことがあるから、反応があるってことは実は嬉しいんだ。
ここ二週間に更新されてるやつですごいメンヘラムーブしてる女がいたら俺の作品な。
世界観の問題で作品中では発達障がいとは書かないけど、設定ノートでは発達障がいを想定している。
この女だけでなく、発達障がいをイメージしたキャラをもうひとり出す予定。
いうてこういう女いるで。擬態うまかったよ
序盤で「そんな女いるか?」と思ったので、読まなかったけど、今読むとこれ、エロ小説のフレーズみたいだな。『わたしみたいな落ちこぼれ女からしたらちょーらくちんなんです』
人気になってもさすがにあの時お世話になった増田ですとは報告できないけど
最近、マンガとかラノベのタイトルは長くないとダメだって迷信がある。
なんでも、タイトルが短いと売れないらしい。作家に編集がダメ出しするそうだ。
なろうの長文タイトルが効果的なのは、表紙イラストや帯コメントみたいなものがないからわかる。
でもそれは説明的な帯が必要なのであって、仮にネット書店での露出対策としてもサブタイトルを付ければいい話だろう。
(この戦略は例えば芳文社の「ほうかご再テンセイ!」がやってる戦略でもある)
しかし、なんでもかんでもダメという編集ばかりに出版社がなってしまっているのだと、もう出版社はダメのではと思ってしまう。
編集者が余計な仕事をして本を売れなくするのなら編集者不要論も加速していくに違いない。
ラノベではマンガ化にあたってネットでの発表時の短い元のタイトルに戻すケースもちょっとづつ出てきた。
これはネットでの発表時のタイトルが「偽聖女クソオブザイヤー」だったのが、
書籍化した際に「理想の聖女?残念、偽聖女でした!〜クソオブザイヤーと呼ばれた悪役に転生したんだが〜」と改題された。
それがマンガになるにあたって、「偽聖女クソオブザイヤー~理想の聖女? 残念、偽聖女でした!~」という間を取ったようなタイトルになったのである。
別の例として「フシノカミ」もある。
同じく、発表時のタイトルは「フシノカミ」で、書籍化で「フシノカミ ~辺境から始める文明再生記~」と改題された。
これだと普通「フシノカミ」の方が大きく表紙に書かれるのが常識的だと思うのだが、何をとち狂ったのか「辺境から始める文明再生記」のほうを大きく書く、主従が逆転したデザインになっていた。
しかし、コミック版になってクソデカサブタイトルが表紙から駆逐され、サブタイトルのフォントサイズが同じになって平たく表示されることになった。
この2つに共通していえることは、短くてキャッチーで覚えやすいタイトルの方がマンガでは支持されていたであろうところだ。
この粗製乱造時代に差別化のために説明的なタイトルが必要なことはわかるが、それ以上に選んでもらった後のことを考える必要があると思う。
タイトル付けのセンスがない編集が読者に支持されていないのは明確に明らかであろう。
編集者は一度タイトルの付け方についてしっかり考え直してほしい。
(「魔王令嬢の仰せのままに」を「魔王令嬢の執行者 ~魔王国に追放された無能勇者、隠された天与スキルで無双する~」に改題したせいで気づけなかったの許してないからな!)
ちょっと前の某小説コンテストの下読みの時、「これならいけるはず」と思って最高評価つけて戻して、ちゃんと最終まで残ったけど賞まではつかなくて、ライバルが強かったか…と残念に思ってた作品、ふと思い出して探したら別サイト経由で書籍化決まってたっぽい〜よかったね〜いけると思ってたよ〜書影見られるの楽しみにしてるね〜
厨房の頃に洒落怖まとめや新耳袋の書籍版を読み漁ってたようなホラー好きって、
今は書き手も読み手もSCPの依談・オモコロのホラー記事・カクヨムのホラーSS・禍話リライトとかに散らばってて
映像媒体だったら白石晃士、皆口大地、寺内康太郎、大森時生あたりが人気で
だいたいみんな趣味が似通ってて話題に挙がるものもほとんど同じだけど
この辺のホラー好き界隈ってはやせとか島田とかあの辺の奴らに興味がなくて基本シカトしてると思う
初耳怪談とか定期的に新作が放送されてるのに話題になってるの見たことない
あいつって洒落怖のパクリで世に出てきた奴でしょ、とか本人は色々活動してタレントとしての知名度はあるみたいだけど怪談の内容はぬるくてうっすいよね、とかそういう目で見られてる
木札の嘘話はだいぶ前から垂れ流されてたのにこれまで全然広まっていなかったのは
問題視されていなかったからではなくてあの木札の由来に迫る人がほとんどいなかったから
ホラーにも「考察」とかにも興味がなくてまじないのいわれを調べることに関心のない、ただアイドルYouTuberはやせくんを推したいだけのファンの間で話がとどまってたからだと思う
外部に話が広まった今、ホラー好きとしてはどうにかならないかと思うけどファン層も含め元々違う界隈だから自浄作用も何もないし
分断が進んだだけって感じだ
ただ、ネット発のホラー企画の書籍化が盛んになりつつあるこのタイミングで
今回の件のせいではやせと何の交流もない実話怪談好きがまとめて炎上クリエイターに目をつけられたきらいがあるので、また金銭のやりとりが発生しない範囲での活動に戻ることになるのかなとは思う