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2024-06-11

生成AI学習人間と同じなのか?

生成AI話題を見ていると「生成AI人間学習は同じ!」という話を見かける。

同じ、といっても「人間も模写をする」や「他人から学習をする」という理論が主。

  

聞くに生成AIは58億の画像学習して成り立っているらしい。

  

58億、とんでもない数字なわけだが、生成AI機械学習が本当に ”人間と同じ学習” ならば

あそこまでの画力を出すのに58億。些か ”学習下手” だなと言わざるを得ないと思う。

  

あそこまでの画力を得るのに、人間は1億も資料は要らない。

自分趣味で絵を描いている人間だが人生の中でいくら絵を見続けていたとして、見た絵は50万も行くかもわからない。

その中で更に ”学習” する為に使う資料となれば5万以下にまで減る。

  

正直、人間が絵が上手くなる為に必要なのは他人の絵(資料)そのもの” ではなく ”理解力” だ。

当たり前の話すぎる。

物の構造理解できずに絵は上手くなんかならん。

絵が上手くなりたいならデッサンしろって言われたことはないか

デッサン本質は物の本質を見抜く目を養うこと。

物の本質構造理解し、それを絵で表現する力を身に付けるためにやれと言われる。

  

生成AI機械学習人間学習と同質のものとする場合

人間は5万も要らずに多くを理解できるのに対して、生成AIは58億を以ってもまだ理解できない部分があると来た。

これを学習下手と言わずになんと言うのか。生成AI近未来的な名前をしている割には低機能だなと思ってしまう。

  

  

いい加減本題に入ろう。

 ” 生成AI学習人間と同じなのか? ” 

  

答えは否だろう。

  

理由は先に簡単に答えたが生成AIというものに ”物の構造理解する能力” はない。

私はAI技術というものに詳しい訳ではないが、断言しよう。 ”物の構造理解する能力” はない。

  

人間学習というものそもそも学習内容を正しく理解自分知識として蓄えそれを正しく活かせて初めて ”学習出来ている” といえるものだ。

テストの内容を丸暗記して100点を取ったとしても、それを正しく知識として身に付けていないのならばその学習意味はない。

よく居るだろう、勉強が出来るだけの馬鹿が。テストでいい点を取っていたのに今はしょうもない社員なんかやってる人間が。

結局そいう人間というのは正しく活かす為の知恵がなかったというだけの話。

  

生成AI過去問全部引っ張り出して暗記して80点を取って「出来た!」と言っているだけに過ぎない。

要はただの数に物を言わせたパワープレイだ。

そこに知恵なんかない。

  

AIと呼ばれる人々が生成AIを「コピペ」や「コラージュ」と言うのはこういう面にあると思う。知らんが。

要は他人技術を、意味本質学び活用し発展させるのではなく、他人技術をそのまま切って張っただけ。

所詮再利用二次利用、その範疇を出ない。

その範疇をでないから新しいものは生まれずありきたりなものになり、絵柄を陳腐化させる。

こう見るとコラージュよりも出来が悪いな。

  

そうではない、と言うならば。

何故、58億も ”学習” して破綻が出る?

  

手、金属装飾、服装飾、髪、まつげ…

上げればキリがない程に破綻が多い。

どれも正しく学習し学べている人間ならばしないミスが多い。

そもそもデッサンが出来てない。

  

そしてその破綻をなくす為にはプロンプトだとかい呪文とやらの駆使が必要になる。

そこまでやって、やっと手描きと見間違う程のものが出来る。

  

これの、どこが人間学習と同じだと言うのか。

これが人間学習と同じならばあまりにも無能しか言えない。

  

著作権がどうとかAI技術がどうとか、そういう側面のことは詳しくないので語らないがこれだけは確かだと自信を持って言える。

  

物の構造や、物事本質、絵を描く事における技術知識も何もなく

何一つ活用すら出来ない程度のものが、人間学習と同じな訳がないだろ。

そもそも「学ぶ」ということをなんだと思ってんだ。

  

  

ちなみに私はこの話に於いて著作権がどうの」 「二次創作がどうの」などという面倒な話はしていない。

  

機械というもの人間よりも情報の処理速度が速い。

だというのにも関わらず「人間が少量で理解できるものを」 「何十億と消費できる機械理解できていない」という客観的事実無視して

人間機械学習は同じ」という理論が展開されているのはおかしいだろ、という話をしている。

  

よく見るが生成AI推進派はあの手の論点ズラし好きすぎだろ。どうなってんだ。

2024-06-10

anond:20240610172703

生成AIクリエイター法律面で規制かかったりしないなら認められるだろうけど、生成AI使えるだけで作品自体陳腐ものしか作れないクリエイターはあまり認められんやろうな。

2024-06-09

キュアリリアン

2024/6/9、わんだふるぷりきゅあ!で猫屋敷まゆさんがキュアリリアンに変身されました。溢れる想いのままにこの文章を書いています

私は2007年プリキュア5出会い作品のダークながらも引き込まれストーリー、そして何より春日野うららさんとキュアレモネードの可愛さに魅了されてプリキュアファンになりました。プリキュア5が始まった当時私は小学1年生でまだたったの7歳でした。

それからは熱心になったり少し気持ちが離れたりした時期もありつつも、ずっとプリキュアと共に歩んできた人生だったと言っても過言ではありません。

Go!プリンセスプリキュアで何度泣いたか分かりません。キュアフローラはずっと私の1番のヒーローです。

そんな私もいつの間にか中学後半~高校生にかけて深夜アニメを見るようになり、そして声優オタクになりました。

声優オタクは移り気ですが、一貫して私が持っていた思いは「好きな女性声優さんにプリキュアになって欲しい」でした。接近イベに行ってはプリキュア声優になって欲しい話をし、プリキュアの思い出話を聞き出し、毎年12月1月にかけてプリキュア声優予想をし、発表されては肩を落とす、そんな日々の繰り返しです。

2020年、当時私が熱心に応援していた方がプリキュアへのご出演が決まったのですが、絶対追加戦士だと思っていたのに結局マスコットで終わってしまい酷く落ち込んだのを今でも鮮明に覚えています

そんな中で忘れもしない2024年1月28日、わんだふるぷりきゅあ!の追加キャストが発表されました。

キュアリリアン上田麗奈

あれはまさに上田麗奈さんのラジオイベントに行った日でした。オタクと別れて電車に乗ってTwitterを見た瞬間に時間が止まりました。100回ツイートを見返して、本当だとわかった時の感動は言葉に表せないほどでした。電車の中で人目も気にせず24の男が泣きました。涙が止まりませんでした。ついに10年の願いが叶うんだと。

私が上田麗奈さんに出会ったのは2014年ハナヤマタでした。ハナヤマタは本当にいいアニメで大好きだったんですが、当時は私も駆け出しオタクだったので、主人公役が上田麗奈さんって人なんだってくらいの認識でした。ただ好きな作品主人公として間違いなく好きな声優さんの1人になりました。

今でも上田麗奈さんの一番好きなキャラハナヤマタ主人公、関谷なるさんです。

そもそもオタクでない時代に、デビューであるイナズマイレブンGOを知らぬままリアルタイムで見ていた人間だったのである種運命だったのかもしれません。

その後ミリオンライブにも触れたり、17から始まった高橋李依さんとのラジオを聞いたりして高校オタク声優談義をしたりしていたのですが、決定的になったのは恐らく多くの人がそうでしょう、私も例に漏れ2018年のSSSS.GRIDMANでした。当時24歳でまだキャリア的にも若手だった上田麗奈さんがあの掴みどころがなく狂気的でありながらも愛おしい新条アカネ役をこの人しかいないという素晴らしい演技で演じきったのを見て、その演技に、才能に完全に大ファンになりました。

2018年はもう売れ出した頃だったのですが、以降の上田麗奈さんはもうまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していきました。私の大好きなフルーツバスケットにもご出演されてたり、今熱心にプレイしてるプロジェクトセカイでも主要キャラを務められていたり、本当に感謝してもしきれないような存在になっていきました。

極めつけはこれも忘れもしない2023/11/20です。この日は私が以前から人生で一番と言っても過言ではないくらいに夢中で、熱心に愛読している漫画、アオのハコのアニメ化が発表された日でした。そしてヒロイン鹿野千夏さんの声優上田麗奈さんであることも同時に発表され、この日も深夜に大号泣しました。これで私の気持ちは完全に振り切りました。

そんな中で2ヶ月後、また17年間追ってきたシリーズ、大好きなシリーズへの出演が発表されたのです。それはいくら言葉を尽くしても陳腐になってしまうようなレベルで、感謝、感動、とにかくたくさんの感情が溢れて止まりませんでした。

それからは4ヶ月半、とにかく今日この日を待って待って待ってずっと待っていました。キュアリリアンのことを考えない日も無かったし上田麗奈さんのことを考えない日もありませんでした。Twitterでは変身の遅さが嘆かれていましたが、10年間待ち続けた私としてはもはや誤差でした。

そして6/2、次回予告でキュアリリアンの登場が予告されました。

この一週間は本当にずっとソワソワしていました。仕事も手につかず、一週間がとにかく早く過ぎ去ってくれることを願うばかりで今日この日のために生きているような状態でした。

昨日は本当に眠れなかったし、今朝はアラームなんて関係なしに5時には目が覚めてしまう始末。

そして朝8時半。もう詳細な言葉はいらないでしょう。本当に、本当に素晴らしい回でした。

涙が止まりませんでした。もう上田麗奈さんに関係なく、猫屋敷ゆの強さと成長と想いに涙してしまうような回。

この作品に出演してくれて、この作品プリキュアになってくれて、猫屋敷まゆ役になってくれて、キュアリリアン役になってくれて、本当に良かった。心からそう思える回でした。

変身バンクもまゆの強さが想いが背景がこれでもかと表現されていて見る度に泣いてしまいそうです。

わんだふるぷりきゅあ!、声優が好きとか関係なく、ここ数年のプリキュアの中でも1番と言っていいレベルストーリーの出来です。本当にいろんな人に見てほしい。

そして上田麗奈さん、本当にいつもありがとうございます。私の人生あなたのおかげで間違いなく豊かになっています。これからも素晴らしい演技をたくさん届けてもらえるのが楽しみでなりません。アオのハコも本当に本当に心待ちにしております

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-06-07

anond:20230925161339

規模の大きい話になるほどストーリー陳腐テンプレになりがちなんだよな

かい話をしてるほうが作り手側の個性が出る

anond:20230925161339

作る側に大きな話を作るだけの知識がないか陳腐になるんやろ

コナンなんかFBIとかが小学生パズルみたいな暗号使ってて

コナンがそれ解いたらびっくりしてるとかシリアスギャグしか見えへんもん

2024-05-30

田舎者東京に酔って東京語りするたびに東京陳腐になっていく気がする

さっさと田舎に帰って田舎東京自慢しててほしい

2024-05-26

タフってすごいよくある話で新鮮味がないっスね 忌憚のない意見ってやつっス それでも文句があるのならいつでも喧嘩上等っスよ

アニメでタフを初めて観た。

自分の中でタフって「アニメ化を待望されていた超話題作」みたいな感じのイメージで、それはもう面白いのだと期待していたわけよ。

で、実際に3話まで視聴してみて、えっこんなもんなの!?ビックリしている。

変態師範山本昌みたいな感じとか、"S"が尊鷹ひっくり返ってるとか、そういうのは「へー面白」って感じだったんだけど、

他はなんというか『ゴリラ喧嘩を売る話』も『ロボット格闘家惨敗する話』も、最近すごい飽和気味なやつで、どうにも新鮮味がない。

『格闘漫画に非現実的な展開をつけてみた』的ノリのディティールが深そうなのは何となく察せられるんだけど…でもそういう作品自体めっちゃ沢山ありますよね?って思ってしまった。

幹部分のウィザードリィっぽい世界観食傷気味で、

その上プーチン討伐とか、マジで小説家になろうとかで流行りまくって陳腐化してるような話が主軸なんだ!?となってしまったのがビックリポイントかなと。

なんか、全体的に今更やるには賞味期限切れテーマとノリなのではないですか?

2024-05-25

[]『どんでん返し』が夢オチの言い換えみたいになっている件

作品性質上具体的にタイトルは上げないが、このミステリーが凄い的な賞を取ったミステリー小説を読んだ。

途中まで、ただひたすらに陳腐時代遅れ漫画ヒロインが、陳腐時代遅れ描写超能力を使って事件解決していく話で、なんでこんな下らないものを読んでるんだろうと挫折しそうになりながら読んだ。

すると、最後に「あん陳腐能力があるわけないじゃないですか。全部お芝居ですようふふ」とか言い出した。そのお芝居が本当の能力なんだと。

 

なんだそりゃ。

 

こっちは、矛盾だらけでくだらないと思いながら、まあそういう稚拙な作者なんだろうという見切りで読み進めただけだ。

アンパンマンを見ながら、「こんなに吹っ飛ぶほど殴ったら死ぬだろ」と突っ込まないのと同じ心理で、こんな展開不自然だろをただ面倒だから読み飛ばして来たに過ぎない。それを、「だまされちゃったね」みたいに言われても。

これを「うまくだました」って自己認識できる精神って、バイトテロのような誰から見てもキチガイな行動を取りながら、「自分うまいこと『ネタ』で興味を惹き付けてる」と思い込んでいるアホと何が違うのか。

と思っていたら、どうやらああいうのを本気で「騙された。うまい」とか言う奴もいるらしい。

あの夢オチみたいな、ただ最後に「嘘でした」って言うだけの雑なひっかけが、昨今のミステリー賞的な評価では「どんでん返しが凄い」というんだそうだ。

 

いやちょっと待てと。

 

あんな、ただ最後にひっくり返せば良いだけのもの評価するなら、筆力なんか要らないじゃないか

途中までベタベタを煮染めたような、スーパーマンみたいなファンタジーを書いて、最後に全部機械仕掛けトリックでしたと言えば済むだけのもの、何がありがたいんだ?

百歩譲って、「最後に全部嘘だったとわかって驚く」展開として評価させたいなら、途中までは迫真の、その道としてちゃん評価されるような内容じゃなきゃやる価値もないだろ?

どうみてもやっつけの、穴だらけの、「それっぽいことを並べただけ」の、ファンタジーとしては二流以下みたいなものを並べて、読者が「ファンタジーとしてはまったく出来が悪いが目をつぶって読もう」と考えて読み進めるようなものじゃ、普通にだめだろ???

何度もいうが、それって「騙してる」んじゃなくて、「騙されてもらってる」んだよ。

アンパンマン世界観文句を言わずに見るのと一緒の目線で見てもらってるだけ。

そんなののどこに評価するポイントがあるんだ?

 

実はこういう感想は、別の、今度は海外ミステリー映画でも同じように思わされたことがある。

最初からどう見ても怪しさ満点のヒロインを、主人公けがピュアに信じていて、そこに批判的な目が当てられないまま、主人公ピュア視点だけでロマンスみたいに話を盛り上げた結果、やっぱりロマンス詐欺でしたというだけの話。

これもやっぱり、「どんでん返しが凄い」みたいな評価を目にする。

一体世の中はどうなってしまったんだろう。

どんでん返しという言葉は、ただ最後にひっくり返せば良いだけのものじゃない。

そこまでの流れを説得力を持って盛り上げるから、ひっくり返す展開に驚きと同時に「納得」が生まれるんだ。

 

まりにも一方的な、ちょっとでも知性のある読者なら「客観性がないなあ」と難色を示すような描写表現できるのは、主人公客観性のなさじゃない。作者の客観性のなさだ。それに目をつぶって読み進めた読者に「やっぱり嘘でした。騙されたでしょ」というのは、「わたし馬鹿だと思った? 馬鹿じゃないよ」と言い出す馬鹿しかない。

狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり」という言葉がある。

稚拙作家のふりをしたつもりで話の半分以上を稚拙な内容で埋められるのも実際に稚拙と言うしかない。

こういう手を変えた夢オチみたいなものが「どんでん返し」として評価されるようなミステリー世界って、どれだけ書き手読み手劣化してしまったのかと驚いた。

anond:20240120235049

まずね、架空の食い物というのが、理解できない以上題材として全く面白くない

そこで貝とか鶏肉とか分かりやすくしてくれてるのだが、かえって陳腐化している

そこで他にも冒険要素や人種差別要素を盛り込んでいるが、はじめっからこれを主軸にした方がよかったのではないかという感じだ

登場人物も異常者が多く感情移入する隙間がない

から、もうね、ドラマとして見る部分がない

しかし顔芸はなかなかよい

漫画特有面白さだよな〜変顔

いいよな〜変顔

anond:20240120235049

今この時代ヤマトとかSWとかガンダム見た人はこんな感想を持つんだろうなぁと思った。

そのサイクルが異様に早くなって、エポック的な作品が急速に陳腐化していくのはいいのか悪いのか…。

2024-05-21

anond:20240521192645

7000〜8000万ぐらいの物件を頭金入れて買うかってところだと思う。

頭金なんて入れる意味ないぞ。金利が上がったときの繰上げ返済に使う方が遥かにマシ(それすらやるべきでないと思うけど)。

なんかなあ全体的に形式主義っていうか、誰かが言ってる不安をそのまま持ってきて誰かがやってる通りに怖がってるって感じがするんだよなあ。

陳腐な言い方をすると自分の頭で考えてない感じっていうか。

毎日外食とか家事代行とか私が働けなくなったらとか、全ての論点がみんなが言ってる標準的論点って感じなんだよな。

「頭金」だってなんかどっかで「頭金は入れた方がいい」って聞き齧ったんでしょ?って感じ。

2024-05-14

   最近東京の5ちゃんねるでは、驚愕ばやりだが、数学定理は、真実に対する深い愛情研究とにおいて、驚愕的な体験によって、定理自体は、 出版されたとき驚愕されるので

   その後は陳腐化すると書いていた。 だから定理と言うものはそんなに大したものではないのだと思った。何で人間定理発見するのかは分からない。私が工場にいたときはただ

   常識から突然紙に書いたということで、当たり前のように発見した気がする。それに来して、技術上の驚愕的というのは、要するに、昔みつかっていた論法ものが、そこに突然出て来るという

   内容のもので、だいぶんに難しいと思った。散々に問題を適切に追い詰めていって、出て来るべきところに激甚な方法によって出すというようなことではないかと思う。哲学ではそれを美しい技術

    であるともてはやす

2024-05-13

数学を学ぶ意味数学芸術である

Xで共有された動画塾講師先生が「要領が悪い奴は定数を動かそうとする、変数をどうにかすべき、だからこういうところが数学を学ぶ意味だ」とか言ってんのよ

はぁ?なにが数学を学ぶ意味だ、いい加減にしろ

いか数学ってのは公理から演繹的に体系を導き出す「芸術」だ

証明法にもエレガントさってものがあるし、第一、美しくない公理体系は見向きもされない

定数ってのは物理学の話だ。物理学にはプランク定数h、光の速度c、重力定数G、という基本的な3つの定数があるが、たしかにこれらを「動かそう」という話はしない

あるいは数学にもπやeのような定数はあるが、要領の良さとは無関係であり、動かそうという話もない

しかしそれは常識レベルの話だ、「誰も神の力を持っていない」と言うようなものから

では現実世界に「定数」と呼べるような固定のもの存在するか

線型回帰適用したら定数項が出るかも知れないが、これは変数依存しないというだけの話で、データが変われば動く

政治に対しては努力次第で影響を与えられるし、人間関係だってそうだろう

努力の大きさに見合わないほど、それを動かすのが難しい」という話をしたいなら、残念ながらそれは「定数」の話ではない、むしろ現象変数に対して持つ感度の問題である

しかし俺がいいたいのはそういうことじゃない。芸術であるはずのものを「要領の良さ」という低俗トピックに落とし込むその感性が全く同意できないのである

例えばラングランズ・プログラムの先にあるものはなにか、と考えれば、それは驚愕的な数学の繋がりを示すことであり、陳腐とも言える「要領のいい」応用を目指したものではないだろう

要領の良さというのは、要するに経済学の話であり、数学ではない

わかったか

ジスロマックが、往年のフミコフミオ彷彿とさせる。

取り扱うネタ自体は全く違うんだけど、周りの反応とその変遷が似ているなあと感じさせる。

フミコフミオは半自伝的なブログを独特な書き味でやってたのがウケてたんだけど、これが徐々に飽きられていったんだよね。

飽きられてくると、その芸風がネガティブ評価されるようになっていった。

ファンが多かった時期は、そういう意見アンチいちゃもんで済んでいたんだけどね。

現在は芸風を変えて、お仕事系の記事ばかり書くようになったのは賢明だった。

フミコフミオあんな感じのを今でも書こうと思えば書けるし、そのためのネタも持ってるはずだけど多分もうやらない。

もし、周りの反応が悪くなってるのに芸風そのままだと山本一郎みたいになる。

山本一郎の芸風も十数年前まではウケがよかったんだけどね。

まあ、ジスロマックはもうしばらくは大丈夫だと思うけど、彼の芸風にうんざりしてきている人の意見も徐々に強くなってきてる。

ジスロマックが取り扱うネタって界隈では散々こすられてるサブカルが多くて、それを「読ませる文章」にするのが彼の持ち味。

からこそ、その文章に読者が慣れてしまうと陳腐化しやすい(持ち味そのもの評価されなくなる)。

メリットメリットとして機能しなくなると、今までは気にならなかったデメリットが気になってくる。

こういう時に、持ち味に頼っただけの、手癖で書いたような記事とかが出てきたら「いよいよ」って感じ。

2024-05-10

anond:20240510164735

難しいし情報陳腐化も早いじゃん?

その点大規模買占め&つり上げならもうなんでもいい

anond:20240509181229

陳腐ダブルバインドだな

望み通り「俺は関係ない」と言えば「当事者意識がない」「自浄作用がない」と返すだけだろ

2024-05-07

anond:20240506175053

マージゆとり教育と同じ末路を辿りそうで笑う


中小だろうが大手だろうが、まともな感覚を持っていれば大体半年かそこらで戻ってくる


大手企業で1年半とかフルで休むバカいたけど

当然そんな人間評価待遇を上げるはずないし、何しろ本人のスキル陳腐化する

そういうやつに限って、国ガー、会社ガーっつってな


こういうセーフティネットの拡充というか、ワークライフバランス見直し的なものって

バカ発見器なんだよね

がっつりゆとり教育を受けてた世代だが、まともな考えを持っているやつらはちゃん勉強してた

で真に受けて勉強しなかったバカどもは、成人してからゆとり教育のせいでーって社会や仕組みのせいにするんだよな

ちゃん自分の頭で考えろよ

2024-05-04

イラスト画像生成AIの何がいけないのかがよくわからない

画像生成AIは何が問題なのか?というwikiを見て頭のほうにいろいろ書いてあったけどさhttps://w.atwiki.jp/genai_problem/pages/10.html#id_c770cabd

もともとネットに落ちてた画像って公開情報でしょ?それを元に学習して何が問題あるの?

もともとはんこ絵と呼ばれていたイラスト学習して新たなイラストを生成することの何が問題なのか

学習もとへの還元がない←必要ない。お前の絵の要素が俺の生成した絵に何かしらの影響与えてたとして、1ピクセルぐらいのもんだろ。これ百歩譲って画像生成AIが何かしらのコラージュを作るような機械だった場合の話であって、そもそもコラージュを作る機械ではない

学習元が作った成果物によって、学習元の市場と競合する存在になりえる。←知らん。そもそも1ピクセルで大げさに騒ぎすぎ。こういう「我々は被害にあった、犠牲になった」みたいな大げさな態度とるくせに自分はちゃっかり二次創作他人著作権侵害して金もらってるそのダブスタどうにかしろ

学習元の模倣による類似品が容易に製作できる。←知らん。個別に現行の著作権法対応すればいい。念のために言っておくが画風や絵柄に著作権はない

生成スピードが早く、類似品を出すことが容易なため、表現陳腐化も早い。←知らん。どうでもいい

生成スピードが早いために、プラットフォームへの投稿速度、量ともに尋常ではない。←ま、ちょっとわかる。けど、マスピ顔も過去のものとなり客にも「結局抜ければ何でもいい」と言われ始めているし、今後質が上がるのならそもそも別に悪いこととは思わない。後はプラットフォーム運営の考え方次第

i2iやControlNetをはじめとする技術によって、盗作が容易であるとともに証明する事が困難。←画風や絵柄に著作権がない上で何をもって盗作認定しているのか。フェミ同様推定無罪の考え方を放棄しているように見える

とりあえずざっくり大見出しだけ論破した。その他「どうでもいい」だけじゃ足りなさそうな小見出し論破していく

生産者減少に伴う産業の衰退←Xでは画像学習させると明言しているにもかかわらず今でも普通に絵が流れてくる。俺は結局絵を描くことが好きな奴は絵を描くことをやめれないんだと思うよ。描いて、それを人に見せたいか学習されると知りながらもネットに上げる。「絵を描いてちやほやされたい」だけの人は筆を折るだろうが、「そもそも絵を描くこと自体が好き」という人は学習されようが描いてネットに上げるんだと思うね。それが何年続くかは知らないが。結局は消費者ってのは絵の美麗さもそうだが、絵に宿る精神を消費してるわけで、その精神ってのは手書きだろうとデジタルだろうとAIだろうと宿るんだよね。俺は超有名な絵師の絵柄割って、本人が絶対に作らないであろう変態エロ画像を生成しているんだけど、本人には俺の精神がないからそんな画像を作り出すことはできないし、逆もしかりなんだよね。「こういうのいいよね」っていう世間へのプレゼン、今までは絵師しかできてなかったけど一般人もできるようになったっていう。そういうプレゼン手法としてどれを取るかという話で、AIが発展しても絵を描く人間はいなくならないと思ってるね。デジタルが出てきてもアナログで描いてるやつ消えてないように

児童ポルノ問題リアル描写AI児童ポルノに関しては俺は見たくないが、二次元キャラ非実在児童ポルノなんてのは日本にはありふれていて、むしろそういうのを守るためにオタクたちは一致団結してたんじゃないの?非実在なんで~とか18歳以上の設定なんで~ロリババアなんで~とかやってたわけじゃん。ここは確かにちょっと問題を孕んではいるが、どこから実在でどこから非実在かという部分を慎重に議論しなきゃいけんと思うけどね。反AI原理主義はもはやフェミもびっくりの表現規制派と化しているので「非実在だろうが児童ポルノNG」とか平気でかましてくる可能性もあるけどね。あいつら側から再度わざわざ非親告罪化とか言い出してるわけだし。

で、ここら辺からちょっと話がそれてきてるんだよね。イラストの話に、写真が入ってきてる。二次元画像の話じゃなくなってくる。あくまで話をイラストにとどまらせるのであれば「どこから実在でどこから非実在か」という話はするべきだと思うけど、ちょっと実在写真がどうこうってなると手に負えないよねって話になってくる。じゃあ音声は?ChatGPTのような文章は?と、ここからどんどん話がずれてって、人類AIみたいな話になりつつある…が、強硬に反AIを叫ぶ人たちは絵師とそのフォロワーしかいないのでした、と。今してるのはあくまイラスト生成AIの話なもんで。なのでトランプ逮捕とかのディープフェイクなんかの話題割愛

俺は普段NovelAIを使っていて、ここはDanbooruというイラスト専用サイトから学習しているらしいので写真関係ないということでよろしく。これは「じゃあクリーンデータなら受け入れるの?」っていう話でもあるね。


NovelAI公式Danbooruコンテンツ学習していることを明言している←で?何か問題ある?文句はNovelAIに言いなよ。もう学習は終了しちゃってるけどさ。さっきからずっと言ってるけど百歩譲って1ピクセルなんだよね。お気持ちしかないよね


というわけで絵師たわごとはあらかた論破つくしました。

改めてイラスト画像生成AIの何がいけないのかがわからないなと思いました

ほんと反AIって表現規制に狂ったフェミナチみたいだよね。やってることまさしく表現規制だもん。1ピクセル分のお気持ちしかないんだよね、自分同人誌他人著作権侵害してるくせに自分は1ピクセルでも侵害されるのはいだってお気持ち。本当は1ピクセルすらも侵害されてないくせに

からでもフェミ土下座して宇崎のポスターの時みなさんのお気持ちに寄り添うことができずにすみませんでしたって謝ってこいよ

陳列、陳述、陳腐

「陳」の字には

並べる

述べる

古い

などの意味があるんだが、関連がわからない

並べると述べるは、まだなんとなく理解できなくもないが

古いって意味はどこから出てきたんだ?

2024-04-30

anond:20240430140913

自分を責めて引きこもり周囲から無視される主人公」っていうと陳腐すぎて印象に残らないところ、序盤のあのクソガキエピソードをいれてくることで視聴者メンタルをグチャグチャにする最高の設定になってるのがすごいんだよなあ

不良の世界での下請け問題の件

建設業界やIT業界で起きている問題と同じ事が不良の世界でも起きている。

ここでいう不良とは世間一般的に悪い人たち全般を示します。

どういう事かと言うと例えば元請け(とてもすごく悪い人)からどこそこのあいつにお灸をそえろ的な事が舎弟(すごく悪い人)的な人間命令される。

普通は舎弟(すごく悪い人)が実行するんだけど、監視カメラスマホが溢れた今の世の中では逮捕される確率が高い。

捕まるのは嫌だから舎弟(すごく悪い人)がその子分(普通に悪い人)に同じ指示を出す。

同じ理由子分(普通に悪い人)が弱み握ってるチンピラ(悪い人)に同じ指示を出す。

こうなってくると元請け(とてもすごく悪い人)とチンピラ(悪い人)はもはや関係が無くなる。

そんでチンピラ(悪い人)は頭も悪いし責任感も無いから当然指示された事は失敗するし警察普通チンコロしちゃう

昔は懲らしめる方法や人を埋める山の場所等、きちんとノウハウ継承されてたんだけど、今は上記の様になってる為、犯罪の仕方がどんどん陳腐になってる。

栃木で殺された人もなぜだかあんハイキングコース放置されてたし、そりゃあん場所でやればバレるよ。

案の定犯人普通チンコロして芋蔓式に逮捕されてるし。しか実行犯20歳のクソガキだよ。そんなガキに大人二人消せるわけが無い。ただ元請けに近づく程チンコロする奴は少なくなる為依頼元に捜査が入る事はない。

という話を聞いた。

不良の世界での下請け問題について

建設業界やIT業界で起きている問題と同じ事が不良の世界でも起きている。

ここでいう不良とは世間一般的に悪い人たち全般を示します。

どういう事かと言うと例えば元請け(とてもすごく悪い人)からどこそこのあいつにお灸をそえろ的な事が舎弟(すごく悪い人)的な人間命令される。

普通は舎弟(すごく悪い人)が実行するんだけど、監視カメラスマホが溢れた今の世の中では逮捕される確率が高い。

捕まるのは嫌だから舎弟(すごく悪い人)がその子分(普通に悪い人)に同じ指示を出す。

同じ理由子分(普通に悪い人)が弱み握ってるチンピラ(悪い人)に同じ指示を出す。

こうなってくると元請け(とてもすごく悪い人)とチンピラ(悪い人)はもはや関係が無くなる。

そんでチンピラ(悪い人)は頭も悪いし責任感も無いから当然指示された事は失敗するし警察普通チンコロしちゃう

昔は懲らしめる方法や人を埋める山の場所等、きちんとノウハウ継承されてたんだけど、今は上記の様になってる為、犯罪の仕方がどんどん陳腐になってる。

栃木で殺された人もなぜだかあんハイキングコース放置されてたし、そりゃあん場所でやればバレるよ。

案の定犯人普通チンコロして芋蔓式に逮捕されてるし。ただ元請けに近づく程チンコロする奴は少なくなる為依頼元に捜査が入る事はない。

という話を聞いた。

不良界隈も下請け問題が出てきている

建設業界やIT業界で起きている問題と同じ事が不良の世界でも起きている。

ここでいう不良とは世間一般的に悪い人たち全般を示します。

どういう事かと言うと例えば元請け(とてもすごく悪い人)からどこそこのあいつにお灸をそえろ的な事が舎弟(すごく悪い人)的な人間命令される。

普通は舎弟(すごく悪い人)が実行するんだけど、監視カメラスマホが溢れた今の世の中では逮捕される確率が高い。

捕まるのは嫌だから舎弟(すごく悪い人)がその子分(普通に悪い人)に同じ指示を出す。

同じ理由子分(普通に悪い人)が弱み握ってるチンピラ(悪い人)に同じ指示を出す。

こうなってくると元請け(とてもすごく悪い人)とチンピラ(悪い人)はもはや関係が無くなる。

そんでチンピラ(悪い人)は頭も悪いし責任感も無いから当然指示された事は失敗するし警察普通チンコロしちゃう

昔は懲らしめる方法や人を埋める山の場所等、きちんとノウハウ継承されてたんだけど、今は上記の様になってる為、犯罪の仕方がどんどん陳腐になってる。

栃木で殺された人もなぜだかあんハイキングコース放置されてたし、そりゃあん場所でやればバレるよ。

案の定犯人普通チンコロして芋蔓式に逮捕されてるし。ただ元請けに近づく程チンコロする奴は少なくなる為依頼元に捜査が入る事はない。

という話を聞いた。

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