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2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-04-25

anond:20240108053558

「味がドロっとしてる」って言語表現が謎。一定粘土があるものを「ドロっとしている」というのであって、言語感覚おかしい。「おいしです!」という言い回しおかしいし。育ちが悪いのであろう。

2024-04-02

anond:20240402173556

さすがにそれくらいググれ

ただの言語表現への難癖を辞められないあなたこそが対処法をググれ

どっちだって同じだろ そんなのは

2024-03-09

anond:20240308183131

・「言語化する」は普通だけど「言語化してもらう」は普通じゃない気がする

・『日頃漠然と感じていたことが言語化されていて感動しました』はおかしいと感じる

他人言葉を使って説明表現をしたのであって、言語化、したわけじゃない それは言語表現なのではないかと思う

自転車の乗り方について言語化する←「説明」や「描写」でいいんじゃないかと思う

(これは微妙かもしれない)

・あたかも正解があるかのような「言語化」は変だと思う

別に正解があるわけじゃねーんだ、正しい言葉なんてねーんだ

言葉の当てはめ能力じゃない

どのように形成するかが言語化なんだよ 

言語化はたとえるなら砂の粒が少しずつ集まって像を形成するみたいなイメージなんだ

概念言葉が一対一になっている中でどの言葉を選んだかで点数がつくイメージじゃないんだ

そういうイメージなんだ

2024-03-08

まだSNSのない時代に「承認欲求」や「推し」という単語を使って自分言葉を紡いでいた知的な人たちのテキストをたくさん読みたい

低俗流行言葉をただ繰り返すだけの大衆センスを感じない

言葉選びの中から垣間見える言語表現能力の愚かさにウンザリしている

知識を学ばない言葉を徹底しない他人気持ちを斟酌しない

拙い馴れ合いコミュニケーションを続けるそんな姿に呆れている

おひるねきもちいい

2024-03-02

anond:20240302203713

前近代においては主に中華から近代においては広く外国から言語表現を借用し、改造して日本語として用いているのが日本語の豊かさの一つでしょうに。

器が狭いわ。

2024-02-21

anond:20240221173717

国語教育は、言語表現能力文学理解コミュニケーションスキルの向上など多様な目的を持って行われます。具体的には、文法や語彙の習得、作文や討論の練習文学作品の分析解釈などが行われることがあります。これにより、学生たちは豊かな言語能力を養い、情報を正確に伝えたり、自身思考を的確に表現したりするスキルを身につけることが期待されています国語学習は、他教養科目とも連携し、より深い人文科学理解社会的意思疎通の向上にも寄与していますよ!

2024-02-16

anond:20240216124331

感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。

この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。


意味の心象説」

言葉意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会ものがある。

それは、言葉意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉意味とは、この言葉出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である

こうした考え方を基礎とする「意味理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている

言葉意味に対するこうした考え方(意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。

そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。


フレーゲが主として問題としたのは、数学哲学特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。

算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである

言葉意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである

(言語哲学大全)


実証

さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人経験感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから元増田は「意味の心象説」論者です。


意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉意味理解します。

1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。

2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉意味はまだ理解できていない)

3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。


では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形意味理解しているでしょうか?)


意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉意味理解する、という主張に同意するでしょう。

1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。

2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。

3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形意味"を理解する。


三角形意味再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?

もしも、あなたこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。

もしそうだとするならば、直角三角形三角形ではないということになります

なぜならば、

正三角形は直角三角形ではないし、

・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、

 こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。


逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。

ところで、あなたこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?

仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。


もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。

その時、私はこのように問うことができます。「あなたこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。


意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。

しかし、三角形意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形意味"を説明することができず、

無限三角形連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、

意味無限後退」に陥るのはむしろ意味の心象説」論者のほうであることになります

なぜなら、その人は三角形意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶつの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。

まりあなたが主張する「三角形意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?

(この時あなたは、三角形形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)


ここで示された無限後退は、あくまでも意味の心象説」がもつ問題によるものであり、

言葉意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。

ゆえに、意味の心象説は、根本的に誤りといえるのです。



話を元に戻します。

どこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義可能なんですかね?と思います

何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さら限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。

2024-01-07

anond:20240106204144

あなた言語表現は未熟で不完全です。あなたの主張を現代日本語に翻訳すると次のようになります。心に刻んでください。

小室哲哉はすごいけど、彼氏にはしたくないかな〜笑

2024-01-05

Vtuber見始めてしまった

今まで全く興味がなかったし、そもそもyoutube競馬の予想動画とか見る程度で積極的に見る習慣もなかったわけなんだけど

最近ホッテントリにたまに特定vtuber動画が上がるようになってて、ある日興味本位でなんとなく見てしまったんですよ

そしたらその動画編集効果もあるんだろうけど、ハイペースに流ちょうに10分も面白い話をし続けて、いやすんごいなと

落語みたいに間を取りつつ何かのストーリーを話すんではなく、こんなことがあったわけなんですよみたいな日常話を飽きさせずに10分話すんですよ

これは落語好きな俺でも、噺家さんすごいと思う感情とはまた違う方向で、すんごい話術だなと思いまして

気付いたら正月休み過去動画をわりと流しながらだけど見てしまった

なんか全然どんな人か知らないんだけど、なんか好きになってきてしまったぞ

なんか、古くからインターネットミームみたいなのも散りばめつつ、巧みな言語表現もいいなと

あんなのできるのは中の人30代から40歳くらいか?ガワは女子高生だけど

ゲーム実況なんか見たことなかったけど、ホラーゲームプレイ動画はなんか面白かった

ゲーム買うとお金かかるけど、見るのタダだし、プレイを楽しむよりストーリーや恐怖を楽しむ系のやつは、プレイ動画面白いんだね

娘もなんか一所懸命見てて、気に入ってそうだった

なんかその界隈ではすんごい有名な人みたい

大手っぽいところだし

過去動画見ると5年くらいはやってそうな感じ

そのうち生配信とか見るようになっちゃうのかなー、と思うと、ちょっと怖い

2023-11-17

皮肉の達人としての京都人イメージについて

京都弁京都人の、皮肉迂遠悪口を言う存在というイメージインターネットネタにされることは多い。

大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ皮肉うまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である

インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺アイロニーウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。

婉曲表現インターネットで好まれている例は色々あげられる。

たとえば、現実イギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョプッチ神父ツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。

誉め言葉方面でも、漱石I LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現ステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。

意味が分かると怖い話落語考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。

京都弁もまた、ネタにされつつも羨望の目で見られている。

しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。

少し蛇足になるが、最近インターネットSNS一般したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。

だが、私はSNS時代でも、アイロニー皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。

言語表現言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。

過去歴史で、言語文化が発達したとされる場所時代は、大勢人間言葉交流ができる環境余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。

まさにインターネット人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。

そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろ言語表現を諦めるなんて、あまりもったいないのではないか

2023-07-22

anond:20230722215149

▶️ 人生 Tier リスト
https://anond.hatelabo.jp/20230722215149#

S

子どもを生み育てる、共に過ごす ★★★★★ ❌

愛し合うパートナーセックスし続ける ★★★★★ ❌

 

A

親友を持つ ★★★★☆ ⭕️

青春があった ★★★★☆ ❓

 

B

頻繁に声を出して笑う・必要な時にちゃんと泣く・怒る ★★★☆☆❓

猫を飼う ★★★☆☆ ⭕️ 犬の方が好き🐕

子どもの頃に歳の近い、お互い人として認め合える相手恋愛をして、肌を重ねた経験がある ★★★☆☆ ❌

 

C

結婚式を挙げる ★★☆☆☆ ❌ 結婚してない

大学で学ぶ ★★☆☆☆ ❌ 高卒

顔や身体コンプレックスがない ★★☆☆☆ ⭕️ どうでも良い

気の合う仲間と集まってバカ騒ぎする・パーティで隅っこに引っ込まず人の輪の中に積極的に入って楽しむ ★★☆☆☆ 🔺ケースバイケース。金が絡むなら

暑くも寒くもない、真っ暗な部屋で目覚ましを掛けずに寝ている ★★☆☆☆ ❌ 目覚ましが無いと不安

 

D

夏休みカブトムシを採りに出かけた思い出がある ★☆☆☆☆ 🔺 カマキリとかザリガニなら

自分好みにカスタマイズした書斎を持つ ★☆☆☆☆ ❌ 無くした

1000人以上のフォロワーを抱える ★☆☆☆☆ ⭕️

募金したり弱い立場の人を擁護する活動に参加する ★☆☆☆☆ ⭕️

旅行趣味にする ★☆☆☆☆ ❌ 面倒

ビールを嗜む・気の合う仲間とビール乾杯する ★☆☆☆☆ ❌ 酒嫌い

▶️ これが日本人男性の平均的な人生らしい。
https://anond.hatelabo.jp/20230713112718#

・16歳:初めての彼女  ❌

・18歳:日東駒専以上の大学入学 ❌ 高卒

・22歳:国内中小企業就職 ❌ 大企業

24歳:年収300万円突破 ⭕️ 400~480万

・30歳:年収400万円突破 ⭕️ 500~750万

31歳:めでたく結婚 ❌

33歳:第一誕生 ❌ 結婚しとらん

・35歳:第二子誕生 ❌ 結婚しとらん

・37歳:念願のマイホーム購入 ❌ 買ってない・買う予定ない

・46歳:年収500万円突破 ⭕️ 46歳なっていないが既に700〜1000万超

・48歳:課長に昇進 🔺 小さな組織ならね

・55歳:年収600万円突破 🔺 かなり自信ない

・60歳:年収ピークを迎え721万円 🔺 かなり自信ない。最高年収になっているようにしたいね

・65歳:退職時の金融資産2,400万円 ⭕️ たぶんなんとかなる

・72歳:住宅ローン完済 ❌ 買ってない・買う予定ない

・81歳:子と孫に見守られ人生を終える ❌ 結婚しとらん

 

▶️ お前ら、ちゃんと発達しているか
https://anond.hatelabo.jp/20230708121756#

児童期】(6歳から12歳まで)

個人的社会的必要基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること ❌

ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること ❌

性的役割区別理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること ❌

日常生活必要概念思考力・判断力が発達し,良心確立すること 🔺

 

青年期】(12歳から18歳まで)

容貌感情生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること ❌

自己思想感情表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと 🔺

ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと ❌

ⅳ両親や他の大人から情緒的に独立すること 🔺

経済的独立について自信をもつこと ⭕️

職業選択し,準備すること ⭕️

結婚と家庭生活の準備をすること ❌

市民としての必要知識と態度を獲得すること ❌

 

【成人前期】(18歳から30歳まで)

配偶者を選ぶこと ❌

結婚した相手と一緒に生活していくことを学ぶこと ❌

ⅲ家庭を形成すること ❌

子どもを育てること ❌

ⅴ家庭を管理すること ❌

職業生活スタートさせること ⭕️

市民としての責任をひきうけること 🔺

ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと ❓

2023-07-08

anond:20230708121756

児童期】(6歳から12歳まで)

個人的社会的必要基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること ❌

ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること ❌

性的役割区別理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること ❌

日常生活必要概念思考力・判断力が発達し,良心確立すること 🔺

 

青年期】(12歳から18歳まで)

容貌感情生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること ❌

自己思想感情表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと 🔺

ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと ❌

ⅳ両親や他の大人から情緒的に独立すること 🔺

経済的独立について自信をもつこと ⭕️

職業選択し,準備すること ⭕️

結婚と家庭生活の準備をすること ❌

市民としての必要知識と態度を獲得すること ❌

 

【成人前期】(18歳から30歳まで)

配偶者を選ぶこと ❌

結婚した相手と一緒に生活していくことを学ぶこと ❌

ⅲ家庭を形成すること ❌

子どもを育てること ❌

ⅴ家庭を管理すること ❌

職業生活スタートさせること ⭕️

市民としての責任をひきうけること 🔺

ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと ❓

お前ら、ちゃんと発達しているか

児童期】(6歳から12歳まで)

個人的社会的必要基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること

ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること

性的役割区別理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること

日常生活必要概念思考力・判断力が発達し,良心確立すること

青年期】(12歳から18歳まで)

容貌感情生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること

自己思想感情表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと

ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと

ⅳ両親や他の大人から情緒的に独立すること

経済的独立について自信をもつこと

職業選択し,準備すること

結婚と家庭生活の準備をすること

市民としての必要知識と態度を獲得すること

【成人前期】(18歳から30歳まで)

配偶者を選ぶこと

結婚した相手と一緒に生活していくことを学ぶこと

ⅲ家庭を形成すること

子どもを育てること

ⅴ家庭を管理すること

職業生活スタートさせること

市民としての責任をひきうけること

ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと

ちゃんとこれらの発達課題クリアして健全な発達をしているか

2023-05-26

いろいろな「三大欲求

プラトン法律』(紀元前350年ごろ)

I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.

私は、人間あいだではすべてのことが三つの欲望依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれときからまります。あらゆる動物自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気燃え上がらせる「性欲」の炎です。

今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトン著作明治時代翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。

法雲『翻訳名義集』1134年

欲界三欲

(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠不能修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。

欲界三欲

1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。

翻訳名義集』は中国南宋時代編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在スタンダードである

貝原益軒養生訓』(1713年)

いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。

養生訓』は江戸時代の大ベストセラー貝原益軒儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶ことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。

内山真弓『歌学提要』(1843年)

そもそも飲食男女と、言語とは、天下の三大事なり。

歌学提要』は幕末歌人香川景樹理論をその弟子内山真弓がまとめたものだという。

山本友一『私の短歌入門』(1977年)によれば、

人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。

ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。

官報』(1885年

人生の三大欲望すなわち黄金健康・不死

これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアンプレイフェアのスピーチ翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師黄金健康・不死のために賢者の石研究していた」…みたいな内容だったらしい。

they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.

直訳すると「人類享楽感覚的な三条件」か。

村上専精『宗教観』(1906年

思ふに人生の三大慾望たる知識慾、資財慾、生存慾は直ちに人生の三大不可能と云ふを得べし

村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中文章で「日本人は三大欲求生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。

滝沢秋暁『愛の解剖』(1907年

人間の三大慾望たる衣食住

個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的もの」「必要もの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。

黒田鵬心『美学芸術学概論』(1917年

美慾は字に示す如く美を求める慾で食慾、色慾と共に人間の三大慾の一つである

美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか

依田今朝蔵『日本風土を主としたる保健衛生論』(1920年

人生の三大慾とも稱すべき食慾と性慾と名誉

明治以降経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。

ロス・ロックリッジ『愛情花咲く樹』(1958年

そうすれば一日にして人間の三大慾望を果たすことになる、性慾と食慾と戦争――つまり殺傷慾だな

もとはアメリカ1948年刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。

小松武樹『囲碁将棋の泉』(1959年)にも、

また囲碁将棋は、人間の三大欲望、つまり、食欲、性欲に次ぐ、闘争欲の中和剤の役目をしてくれます

といった記述がある。

鍵谷幸信『食欲と性欲の谷間に顔を埋めてしまったフェリーニ』(1974年

食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。

いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。

梶矢文昭『読者を想定した教材解釈と授業展開』(1978年

本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである

この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。

吉田聖『誘惑に負けない勇気、強い意志』(1979年

貞潔清貧従順修道誓願人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。

これはつまりカトリック修道士が守る三誓願対義語となるような欲望貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックあいだでポピュラー解釈なのかは知らないが、三誓願のもの3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。

実用日本表現辞典『三大欲』(2015年

一般的には、生存にかかる根源的な欲求とされている食欲、睡眠欲、性欲を総称した言い方。

現在一般的認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白現象である

2023-05-11

anond:20230511215156

ハルカから来たハルバルだって」の件の異星人の言語和文モールスを元にした記述だ!って先日に話題になってたけど、「ホンヤクコンニャク」のおそらくごく初期の登場回で古代日本へ行って古代日本人の翻訳前の言語表現があるんだけど、それが『ケルカモケル!カモネム!』てやつで長いことイミフだったのだが腑に落ちたのは高校どころか大学卒業してだいぶ経ってからのことだったやで














答え:古文の、(苦笑)フジモトセンセイッテオチャメー

2023-04-22

これはChatGPTによる文章ですか?

経験値の話はしたくないのだがChatGPTは聞けばだいたい教えてくれるので教えてって言うといいぞ

Q: 以下の文章はChatGPTによる生成でしょうか。その判断に至った道筋を、人間にもわかりやすく示してください。


日本において、かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でる女性男性に比べて少ないとされる理由としては、以下のようなものが考えられます

社会的性差別日本社会においては、男女間の性差別が依然として存在していることが挙げられます男性アニメゲームなどの趣味を持つことは一般的に認められていますが、女性が同じ趣味を持つことに対しては、社会的偏見差別がある場合があります。そのため、女性かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることに対して、周囲の反応が懸念される場合があると考えられます

ジェンダーステレオタイプ日本の文化には、男性が強くて冷静、女性が優しくて柔らかいというジェンダーステレオタイプ存在しています。そのため、女性かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることは、社会的に好ましくないと見なされる可能性があります

女性趣味多様性: 一方で、女性かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ないとされるのは、女性趣味多様化しているためとも考えられます現代女性は、アニメゲームなどの趣味だけでなく、スポーツ音楽読書など、様々な趣味を持っています。そのため、かわいいドラゴンのようなキャラクターに興味を持たない女性も多くなっていると考えられます

マーケティングの影響: 最後に、かわいいドラゴンのようなキャラクター男性向けの趣味として扱われていることが、女性が興味を持つことを抑制している可能性がありますマーケティング戦略が男性向けに偏っているため、女性かわいいドラゴンのようなキャラクターに接する機会が少ないことが要因となっている可能性があります

んでもって回答がこち

この文章は、ChatGPTによる生成である可能性は低く、人間によって書かれた文章と思われます理由としては、以下の点が挙げられます


言語表現自然であること:
 この文章は、自然で流暢な文章であり、特に異様な表現や間違いがあるわけではありません。それゆえ、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます

人間知識を前提としていること:
 この文章は、日本社会における性差別ジェンダーステレオタイプマーケティング戦略など、社会的問題について述べられています。ChatGPTは、大量のデータを元にして生成されたAIであり、人間知識を前提としている場合がありますが、一般的には社会的問題について自己判断することはできません。

一貫性があること:
 この文章は、社会的性差別ジェンダーステレオタイプ女性趣味多様性マーケティングの影響など、女性かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ない理由分析しています。このような分析を一貫して行うことは、ChatGPTのようなAIには困難である場合があります。一方で、この文章は、各要因を独自分析し、結果をまとめることで一貫性のある論理展開をしています。そのため、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます

なるほど。

お前が昨日書いた文章だよ!自画自賛してんじゃねーよ!

2022-07-25

anond:20220724232700

しか

増殖するしな

優れた言語表現

2022-07-24

YouTubeゴキブリ

ウェザーニュースの切り抜き

一回見ただけで次から次へと湧いてくる

2022-07-02

anond:20220702172543

風景が違うって京都人らしい見下しの言語表現でしょ?

京都人はそういう言い回しするってネットでよく見るよ

2022-06-08

パパ活をやめたほうがいい理由

港区女子パパ活をするなやめろとか反発の声が騒がしい。

単純に金持ち相手売春と適切な言語表現に置き換えて考えた場合、何が問題かを整理すると納税だとか色々ある。

当人にとって何が一番問題かを考えるとパパ活だろうと売春だろうと生来容姿武器としてお金に変える行為しかないこと。

生来容姿は年齢と共に衰えてる消費物なので長く続けられないし、容姿を若返らせることもできない。

失われるものお金に変えてるだけなので、年月経過したときに獲得できる実績やスキル転職に活かせるものはない。

売れるものがある時は良いが売れなくなった時に差が出る。

真面目に働いてた方は履歴書ちゃんと書ける実績やスキルが残っているが、パパ活売春を頑張ってた方には履歴書に書けるものが何も残らない。

貯蓄できてたらマシ。

金持ち結婚できたら多少マシ。

結婚生活が幸せ継続的に過ごせるかは個人差がありギャンブルしかない面がある。

パパ活ではなく風俗業に従事している女性にも同じようなことは言えるので、依怙贔屓することな判断すれば”やらずに済むのであればやらない方がいいし、将来につながる仕事をした方がマシ”という業態だと思う。

結局そんな生き方をしてもキリギリスしかならない。

キリギリスは冬を越せない。

2022-03-31

anond:20220328144403

どうでもいいがなどと言って責められるのを回避しつつ、大阪芸人を見下している。

理解できないのは、理解力が… 理解できるまでの寛容さが足らんのではないか

ビックリしてドン引きした時に使えて、真剣喧嘩にならないようコミカルさをプラスできるので、便利な言語表現だと思う。

2021-11-24

anond:20211124165652

wikiの「ライトノベル」の「定義」より

2004年刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では、「表紙や挿絵アニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説

新潮文庫とかで表紙がそういうイラストになってる若年層むけ文学作品が該当、それこそ太宰とか

榎本秋自身の著書における定義として「中学生高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説

中学生高校生でけっこう違う気がするけど、「SF 純文学っぽい」「ファンタジー 純文学っぽい」で検索すれば出てくるんじゃないかな。

あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画アニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」

森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において、「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやす小説

イラストが文中に添えられるのはあまりいかもねぇ

純文学って、文学のための文学というか、言語表現のものを楽しむものかなと個人的には思っていて、

上の定義にあるような「読みやすさ」と相性が悪いかもしれない。

でもリーダビティの高い純文学はもちろんあるので、

まずはSFファンタジー畑を中心に探してみればよいかと。

平山瑞穂とかはどうかな。

あるいは村上春樹翻訳した海外小説とか?

2021-08-30

anond:20210829205257

私はだいたいこの世代なんだけど、こうした具体的な言語表現だけでなく、全体にこの世代ネットでの文章表現冷笑的で皮肉っぽい印象がある。

日本史学者の呉座さんの騒動の時、呉座さんが「冷笑系」の文章表現をしていることが話題になった。

私自身も気をつけないとと思ったほど、呉座さんのやるような「からかい」の文脈は、この世代特に固有に刻まれているように思う。

2chニコニコみたいな土壌がそれを育んだんだと思う。

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