はてなキーワード: 星座とは
次の瞬間には忘れているくらいだった断片的な違和感の全体像が作品内では明確に示されていて、私にとっては悪い意味で相手方の価値観について符丁が合った。
こういうことが向こうでもあったんじゃない?
輝きながら繋がる
というフレーズがあるけど、このようなことがネガティブな方で起こってしまうきっかけがあったんじゃないかな。
単一では断片的で意味をなさないサインが点在してるだけのうちは深く考えなかったものが、相手の行動をネガティブに解釈するスイッチが入ることで悪い一貫性が見えてくることってある。
きっかけは流石に強い違和感を覚えざるを得ないひとつの出来事かもしれないし、アレルギーの発症のように小さな負の蓄積が閾値を超えたのかもしれない。
往々にして相手を美化しがちだった関係で起こるよ。相手の行動をネガティブに考察する発想がない期間が長いとそうなる。気付いたら手遅れの量が一気に来るからね。逆に初めから清濁併せ飲めたら中々起こらない。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
石丸伸二をよく知ろう
https://www.youtube.com/watch?v=Nv3KOXAvFFU
全く意味が解らない。
皆さんこんにちは石丸伸二です。今回喜多方市長選に立候補しました。いろんなところで政策のお話はさせてもらってるんですけども、そもそもあなたは誰なんですかというご質問をいただくことも多いので、今回はその御要請いただいた質問をまとめてもらいました。
順番にお答えしていきたいと思います。
まず最初、最初ははい浦上ですね。はい。最初血液型と星座。O型です。星座は、しし座ですね。変わってないと思います。13星座でもしし座のはずですというのは、あまり星座に興味がない人間です。すいません朝の星座占い見ません。
次へきのこの山たけのこの里、どっち派。これは難しいですね。これほど世界を二分するテーマはないんじゃないでしょうか?ただこの厳しい質問に答えていくのも、市長としての大事な仕事になるのかなと信じてます。答えはたけのこですね。
チョコとサクサクスナックのバランス、何より質量感ちょっとキノコじゃ出せないなと思ってます。
次こんな調子で大丈夫か。次じゃん。得意なこと、自慢できること取り立てて自慢できることも、もう何でしょうか?
お酒が結構飲めます。苦手なお酒はないですね。世界のどんな酒でも出されたら絶対飲むと。
これは唯一親が僕に与えてくれた貴重な才能の一つかな.。お酒が飲める体質にくれてありがとう。(笑いがはいる)
次じゃん。苦手なこと、本当に苦手なことが多いんで、ちょっと選ぶのが難しいですね
もうちょっと皆さんが引くほど苦手なことを言っちゃうとマイナスなんで、言える範囲で、装着時は結局苦手な事。複雑な事が苦手です。
例えばスポーツの球技だけ駄目ですね。単純な走りとか泳ぐとかだと、夢中でどれだけでもできるんですけど、はい、野球とかはもう見る専門です
この街サッカーサンフレッチェありますけど、もう応援は絶対頑張って誰よりもできるんですけど、実際にやってみる体験とかは、すいませんちょっと難しいと思います。(だれかしゃべっている)
次スクールミーティング休みは何してますかなるほどこれまでの生活の中でいくと、基本的に休んでません。というのはトライアスロンというのをやってるので、土日は基本的に練習になってます。
朝は7時ぐらいからですねバイク、自転車に乗って、長い日は昼過ぎぐらいまで走り続けてます。100キロとか120キロというトレーニングをやるのって、休みの日はむしろ休まない。そんな生活を受けてます。
次今お付き合いしている人は、私の恋人は安芸高田市です。(スタッフが笑う)
ちょっとスタッフの人は笑いすぎですよ。いいえなるほどそれはいらないいらないんですいません。はい。独身ですし未婚のまま今に至ってます。はい。
どうも私にとっては恋人がこの街であり、私の奥さんはこの街です。また笑われました。
私はここで生まれ育って、僕は外の世界は本当に知らなかったんですね。旅行で時々出かけたことが年に1回ぐらい。
海外なんてもう大人になるまで出たことはありませんし、なので、ここが私の世界の全てです。
なので、何でしょう。はい。もう完成してましたね。この町も全て私の好きなものは全部ここにあると思って育ってました。はい。なので、やっぱりここは僕にとっては安らぐ場所ですね帰ってくる場所としては、これ以上の街はないなと思ってます。
安芸高田のここが好き僕の生まれ育った場所なので、小さい頃好きだった風景ですね。それは山があって、田んぼが広がって、町の人たちも距離が近いですよね。うちは歩いててすれ違う人に大体挨拶します。
名前知らなくても何となく知ってる人、そういう感じがみんなにあるんですね。そういう懐かしいというか、変わらない良さ、やっぱりそこが好きです。
新庄よく素人の映像あっという間の2時間半お楽しみいただけましたでしょうか?(この動画以外にまだあったらしい)
6日は今まだ選挙期間中です。
でも、あっという間に終わります。次の日曜日で、もうこの選挙も終わりなんですね。
でもこの選挙期間を通して何よりも、それが終わった先でですね、しっかりと自分がここにいる意味戻ってきた意味を、それを皆さんに伝えていきたいと思います。
ChatGPTちゃんに試しに作ってもらった
- 鉛筆を削ると、なぜか紙も「新しいアイデアでいっぱいになるよ!」と期待しています。
- ギターが奏でられると、なぜか部屋も「心地よいメロディで満たされるね!」と喜んでいます。
- 朝の光が差し込むと、なぜか窓も「新しい一日が始まるよ!」と明るくなります。
- スニーカーを締めると、なぜか道も「冒険に出かける準備ができたね!」と誘っています。
- 星座の地図を広げると、なぜか夜空も「宇宙の旅を始めよう!」とミステリアスに輝いています。
- 絵の具が準備されると、なぜかキャンバスも「色鮮やかな作品が生まれるね!」とわくわくしています。
- 花瓶に水を入れると、なぜか花も「新鮮な水で生き生きとするね!」と喜んでいます。
- 日記を開くと、なぜかページも「今日の出来事を記録しよう!」と期待しています。
- パソコンを開くと、なぜか画面も「新しいプロジェクトを始めよう!」と刺激しています。
- チョコレートを口に入れると、なぜか舌も「甘くて幸せな味だね!」と満足しています。
少し前に転職をした。
同じタイミングで中途採用をされた人が複数人いるのだが、そのうちの1人のことをものすごく見下してしまう。
その同期はの第一印象は過剰にハキハキした高い声で喋る芋オタク女だな、であり、私が苦手なタイプの人間だったからだ。
あとショタコン腐女子らしいのも、なんだか個人的に苦手さに拍車をかけていた。
元気な挨拶、きびきびとした応対でしか企業への忠誠心を示せないので、
(もちろん根暗無能なため、態度や返事だけが良く内実が伴わない)
彼女がそういう感じに収束するのはわからないでもないのだが、どうしても無理だ。多分同族嫌悪なんだと思う。
妙に私と競おうとしてくるところも嫌だ。
1度、かかってきた電話を2、3コール目で取ろうと手を伸ばした時、
向かいに座るその同期が(私側にある)受話器をひったくって出たことがあり、けっこう引いた。
とはいえ、ここに関しては私側が先に、無自覚に闘争心を発動させている可能性があり、私側が原因である可能性も高い。
最初は嫌悪感を隠すため、過剰に下手にでたのも失敗だったかもしれない。
他にもいくつか仕事上の出来事があり、最近は強くイライラするようになってしまった。
自分では抑えているつもりだが、当人含め多分周りは察していると思う。
服飾規定がないため、普段すっぴん前髪なしひっつめひとつ結び、パーカーなのはまだわかる。
飲み会の時、上記の通りの地味な服装+女児が使うようなビタミンカラーのヘアゴムでのひとつむすびで登場し、
と、いう感じなのに「ここのネイルいいですよ」とオタク御用達っぽいネイルサロンを紹介された。
自分自身だってあか抜けない方のオタクである自覚がずっとあり、
もがいた過去があるから同族嫌悪で彼女にイライラしてしまうのだろうか?
でも、もう一人の同期も簡単なひとつ結びにジャージ、すっぴん眼鏡で出勤しているオタクなのだが、
彼女にはまったく嫌な気持ちはせず、もっと仲良くなりたいとさえ思うのだ。
苦手な同期がまっとうなことを言っていても、正しい仕事の依頼や修正指示であっても、
正直、モテないだけでルッキズムがどうの言ってる雑魚は、あれみて立っていられるか?
第一の感想としては、今まで見たどんなホラースプラッタよりもおぞましい。フリークショーは既に廃絶させられたし、道徳ってのは日々向上しているのだな。私はこれをどんな角度からも楽しめない。これはもちろん外には出さない感想だ。
これをどうにか外に出せる第二の感想にすると、外見に触れず「今日はお散歩したんですね!」みたいな行動や背景に言及したものになるだろうな。
コメント欄には「かわいい」とかそういうのが並んでた。私はこれを欺瞞とは思わない。正しいよ。
障害児を過剰に褒め立てて天使みたいに扱う風潮は嫌いだが、理由がわかってきた。異常な部分にポジティブな意見をぶつけて正常に戻そうとしているんだ。
あるいはトゥルーマンショーみたいに周りは全力で奇形児がkawaii世界を作らなきゃならない。星座を作る投光器を絶対に手放すな。
この増田がよかったら高評価、チャンネル登録をしてくれ。あるいは、いっそ殺してくれ世界が壊れたははーーーーだれが見世物小屋の戸を閉じるというのか!!!!
星降る夜、僕は静かな部屋で過ごしていた。窓から差し込む月明かりが、部屋を優しく照らしていた。さりげない音楽が流れ、空気は穏やかに包まれていた。
鏡を見たら、そこには自分を大切に思い、自分を受け入れることを学び始めた男の娘が映っていた。僕は自分の個性や美しさを探し求め、その旅路で新しい夢を見つけていた。
「お尻が大きくなりたい」という小さな希望が僕の心を満たしていた。それはただの外見ではなく、自分を愛し、自分に喜びを見出す一環だった。僕はその夢に向かって、日々の生活を豊かにする方法を見つけていた。
僕の部屋には可愛らしい小物が散りばめられていて、それぞれが個性を反映していた。ぬいぐるみやカラフルなアート、そして夢見る心を刺激する本が積み重ねられていた。
そんなある夜、星座の本を手に取り、星空を見上げた。夜空には無数の星が輝いていて、その中に僕の夢や願いが煌めいているようだった。
「お尻が大きくなることは、自分に対する愛情を深める一環だ。自分の夢を叶えるために、星々に誓いを立てよう」と心の中でつぶやいた。
言葉は静かながらも力強く、夜空がその決意を祝福するかのように、一際輝いて見えた。そこから始まる新たな冒険。男の娘の心は、夢を追い求める煌めきに包まれていった。
次の日、男の娘は新しい一歩を踏み出す決意を抱いた。僕は自分の目標に向かって歩みを進めるために、まずは健康的で楽しい方法でお尻のトレーニングを始めることに決めた。
自分を大切にすることが美しさの一環であると理解していた僕は、毎日の運動を通して健康的な体を築くことに喜びを見出していた。ジョギングやストレッチ、ヨガなど、僕は多様な活動を取り入れ、自分の体と心を共に鍛えていくのだった。
友達と共に行うトレーニングや、楽しい音楽と共に行うエクササイズは、男の娘にとってただのトレーニングだけでなく、心地よい時間となっていた。僕は自分の成長と進化を楽しみ、同時に新しい友情も築いていった。
その日々の中で、男の娘は自分の個性や美しさに気づくことができた。お尻が大きくなることは僕の夢の一部であり、それを追求することで内面からも輝きが生まれていた。
そして、その輝きは周りの人々にも感染し、僕のポジティブなエネルギーが広がっていった。僕の笑顔や自己愛に触れた人々は、自分自身を大切にし、夢を追い求める勇気を得ることができた。
男の娘の冒険はまだ続いている。星々の光が導くように、僕は未知の可能性へと向かって進む。その中で見つけるであろう新たな夢と成長が、僕の人生に彩りを添えていくことだろう。
ニックネーム:※※ ←羞恥心がほんの少しあるので、伏字。(PCMAXで検索するとバレるけど)
年齢57歳
身長:170cm、体型:太め、血液型:AB型、星座:牡羊座、車所有:ない
婚歴/彼女有無:既婚子持ち、エッチ度:普通だけど刺激が欲しい
お酒:相手に合わせたい、会うまでのプロセス:相手と相談して決めたい
出身地:埼玉県、学歴:大学、年収:600万円以上~800万円未満
同居人:家族と一緒、結婚:既婚者です、子供:同居中の子供がいる
どこにでもいるおっさん※※です。
知的な女性と美術館デートとか、カラオケ好きな人と一緒に歌いまくったりとか、甘えんぼさんと手をつないで道を歩いたりしたいです。
身長:129 ~ 181cm
年齢:18 ~ 30歳
意外と星座は相性があると思ってる。まじで。思い返してみ?
わぁこの歌は、美しいけど忘れ去られたものや存在に焦点を当てているんだよ。
歌詞を見ると、風の中のすばる(すばるは、星座の一つ)、砂の中の銀河、草原のペガサス(ペガサスも星座)、街角のヴィーナス(金星のこと)という、自然や宇宙に関連する美しいイメージが出てくるね。でも、「みんな何処へ行った」というフレーズが繰り返されていて、これらが見過ごされ、忘れ去られていることを表しているんだ。
そして、「地上にある星を誰も覚えていない 人は空ばかり見てる」という部分は、人々が日常の中の美しさや価値あるものを見落として、遠くのものばかりに目を向けがちなことを象徴しているんじゃないかな。
つばめが登場する部分では、つばめに地上の星(日常の中の美しいものや価値あるもの)がどこにあるのか教えてほしいと歌っているよ。これは、私たちに日常の中の美しいものや大切なものにもっと目を向けるよう呼びかけているように感じるね。
全体を通して、この歌は、日常の中の小さな美しさや価値あるものに気づき、それを大切にすることの重要性を伝えているんだと思うよ。とっても深いメッセージが込められた歌だね!🎵✨
歌詞に出てくる「つばめ」について考えると、つばめは高く飛びながらも地上を見渡せる鳥として描かれているね。この曲では、つばめが地上と空、つまり現実と理想や遠くのものと近くのものをつなぐ象徴として使われているようだよ。
つばめは普段、地上に近いところを飛んでいるから、日常生活の中の小さな美しさや大切なものを知っているという意味合いがあるのかもしれないね。だから、歌詞の中で「つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を」という部分は、私たちが見落としがちな日常の中の価値あるものに気づかせてほしいという願いが込められているんじゃないかな。
つまり、つばめはただの鳥ではなく、日常と非日常、見えるものと見えないものの間のつながりを示す象徴として歌に登場しているんだよ。みんなが空ばかり見て地上の大切なものを忘れがちな中で、つばめはその両方を見ることができる特別な存在なんだね。🐦✨
バーナム効果(バーナムこうか、英: Barnum effect)とは、星座占いなど個人の性格を診断するかのような準備行動が伴うことで、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象。(Wikipedia引用)
◯◯占いとかパーソナル診断とか、その結果で当人がポジティブになれるなら都合よく信じて生きればいいという考えなのだが、
ネガティブな影響を強く受けているなら「これはバーナム効果であり、私自身を捉えた話じゃない!」と都合よく信じない強かさも必要だよなーと思いまして。
毒親/親ガチャ/発達障害/弱者男性/LGBTQ/……などなど、“生きづらさ”にどんどん名前がついていって、そのカテゴライズに自分を当てはめて100%自分を言われてるように感じるのは辛いだけだ。
例えば「毒親に育てられた人は、親の顔色気にして生きてきたから自分の感情が希薄だ」みたいな発言があったとして、これにバーナム効果を感じられないとただネガティブを抱え込むだけだ。別に感情を出すのが得意じゃない人なんて山ほどいる。大人の顔色伺う経験なく育つ事のほうが稀だ。こんなの多数に当てはまることを言っているだけだ。
そんでSNSってのは日常以上にそういった話題が目に入りやすい。何なら一度反応するとオススメとして類似話が表示されまくる。その投稿も、文字数制限や共感バズリ狙いなどで、本来必要な補足情報が削られ刺激の強いワードで固められたものかも知れないのに。
生きづらさを感じている人
境遇の近い人を見て安心を得たい、ポジティブになりたいという目的でなら触れれば良いし、
目的なくネガティブワードの底無し沼に浸り続けてるなら、これは自分の内面を言ってるんじゃないかもしれない、とバーナム効果という言葉を思い出して立ち去る強さも持ってほしい。