はてなキーワード: たにしとは
家族が被害に会ったんだったら、家族に対して同情したり家族に対して加害したやつに対して憤慨したらいいじゃん
家族も増田を日頃からバカにしてるんだったら「ざまみろ」でもいいけど。
https://anond.hatelabo.jp/20240516103758
たぶん、バーチャル含むYouTuberの収益手段が多様化していて、それぞれが思い浮かべるものが全く違うので会話が噛み合ってないんだと思う
元増田が思い浮かべてるのは、おそらく大手事務所とかに所属してる、配信もすれば楽曲も出すしライブもやる、他企業とのタイアップやグッズも出す、みたいなやつじゃないかな
それはそれで本来の意味での正統派なVTuberなんだけれども、最近はそれ以外にも、夜職や風俗嬢が本職の営業のために活動するタイプのやつもあるわけ
ラップ(さっきとったやつがやぶれてなければそれ、なければ新しいの)かける
お皿に油が溜まっているので別皿にとって冷ます
レタスも合う
グレープフルーツは塩をまぶして洗い流す。手も同時に洗う。皮の外にぼうばいざいイマザリルがまぶされているからね。
厚い皮に十字の切れ目をいれてむいて二つにわってそれいじょう分解させないまま薄皮の袋の閉じ口にナイフ一筋いれておやゆびでむきとる
イマザリルがあることを気にしているとそれ以外の方法が信じられん
だがグレープフルーツはさのうがよわい もっとよわい柑橘もあるが
最強がはっさく、つぎが不知火デコポン、 つぎが伊予柑グレープフルーツネーブルオレンジうんしゅうみかん文旦、次がオレンジ、最弱はあの黄色っぽいやつ(サンフルーツとか?おぼえてない)
めんどくさいときは皮あらって半割にしてレモン搾りでしぼってジュースにしてもまあうまい
文旦は苦い デコポンは歯ごたえが堅い 伊予柑は至高だがすぐ水分が逃げてスカスカになる、というわけでグレープフルーツだな
ポンジュースあけようかなあ
50代のおじさんが本来どう罷り間違っても好意を持たれるはずのない20代女子に恋して、別にそう要求されたわけでもないのに自分で趣味のバイクだか車だかを売って貢いで、結婚を拒否されたら逆上して刺殺。
貴重な趣味の車を売ってまで貢いだんだから、女性は男の望み通り結婚してあげるべきだって?
論理性のかけらもない。
女性のことをなんだと思ってるんだろう。
ホストに騙される女性たちが問題になったとき、男たちは女の自業自得だと憤慨したよな。
今回好意を利用されたにしても、おじさんの自業自得だし、さらにはおじさんは殺人事件まで起こしてるんだけどね。
男には論理性なんて全くなくて、女は男の従属物であるべきって考えでしか怒ってないのが丸わかり。
男ってバカだね。
観賞した増田だよ。
なるほどー、いや道理で、即興で作ったにしちゃすごいちゃんと俳句になってるなと思ったんだ。(あなたがその場で即興で作ったもんだと思ってた)
季語の使い方が良かったし。
現代俳句ってことで、こういうトラディショナルというか「普通」の、書かれていることを現実の風景そのものとして読み取ろうとするやり方じゃなく、別の読み方もありそうだってことは言っといた方がいいかもと思った。
魔法少女を告白するというアンリアルな状況、を想起している自分。その時に触れた雪。こういう対比になるかもしれない。そんな秘密を抱えているような自分でいたかった、というような「違った自分」への羨望が感じられる。
または順序を逆に、「雪を見た」、その雪が「アンリアルな状況」を想起させた、ということかもしれない。雪をきっかけに、アンリアルな想像が生まれた、という流れ。
想像がアンリアルであればあるほど、現実にある(のだろう)雪やその冷たさとの無慈悲な対比が生々しく感じられるね。
この人は、そういうアンリアルな想像をしてしまうほど、自分の人生が嫌いだったのかも。ぶっ壊したいと思っていたかもしれない。そうだったらどんなに良いだろう、とか。夢のある世界ではなく現実で小さく生きている自分に嫌気が差している、とか。そこにはやけっぱちさも、寂しさも、哀しさもあると思う。そういうネガティブな感情に、想像の世界でぶつけて相殺してくれるだけのインパクトをもった存在が、「魔法少女」というものだったんじゃないだろうか。そういうことを直観したよ。
そこに並び立つのが、季語の「雪」。ああ、なんて無情なんだろう。この雪は、子供がはしゃいで喜ぶような雪景色ではなく、重たく靴にへばりつくじゃりじゃりと融けかけた雪を想像するね。まるで忘れたくても忘れられない自分の過去みたいだね。なすり付けられて落ちない汚れのような雪だよ。楽しい想像をしなければやっていられないような雪。アンリアルな想像に身を任せでもしなければ、やってらんない雪。
もちろん、人それぞれの読み方でいいんだと思うけど、まぁ一例としてね。こんな風に読めたよ。
たまに俳句を作っては思う
俳句って難しすぎない?ってね
これを入れたいな、例えば美味しかったを入れようとする。おいしかったは6音
11音じゃすっごく足りないのだ
例えば私が好きなな短歌
「野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた」
俳句は短すぎる
それに季語が枷になるのもある
季語は5音、7音、それ以上いずれにしてもそこで
まず音数を消費する。
装備枠が決まっているのに、必ずこれは装備しなければいけない状態なわけで
そりゃ無季語俳句もあるにはあるけど、初心者がそんなことやったらただの川柳になるのは目に見えてる
だから季語をどうかして入れてみるけど、入れたところで俳句にならない!ってのがよくある
こんな感じのだってまるでバカみたいだなと思うけれどこのめちゃムズの俳句と戦ってくれてると
考えるとそれだけですごいなぁと思うわけで
って奴がたまにいる。ムズムズする
となった一句です
でもSTEAMやニコニコ大百科でこんな話したら可愛そうだからココに書くことにする。
最初に逝っておくが、俺は最初の10人だけ対応した所で愛想が尽きたので「それ、後半になるとタネ明かしされるよ?」ってことなら誤る。
カメラを止めるなを10分の所で退場したアホと一緒だという烙印を押してくれていいよ。
マジでコレ。
俺がこのゲームに不満がある最も大きな所はコレ。
怪奇現象だって相談されて、本当にごく一部の違いを当てるゲームなんだけど、その違いを当てたら相手が素直に引き下がってお礼を言うんだよね。
相談ダイヤル「 ”メリーさん”じゃなくて”メアリさん”と名乗っていたので、それはただのストーカーですね」 ←え?これで納得できる?
「ちょっと決め台詞や名前が違ってたからって何だよ!俺は呪われそうなんだよ!」ってなりませんか?
イタズラ電話でやってたにしても、そこら辺は食い下がったりしません?
じゃあどうしたらいいのかって?
たとえばその場では「は!もう相談しません!呪われたらお前を呪ってやる!」→後日「ごめんなさい。友達のイタズラでした。相談ダイヤルを試してみたくて俺を巻き込んだんだってよ。一発殴ってやったよ。疑って悪かったな」みたいな感じでもよくありませんか?
なんかこう入り込めないんですよね世界観の作り込みが雑だと。
怪奇現象だということを肯定したらしたで、証拠情報の集め方が足りないとキレられるんですよね。
別によくない?
「そっか!やっぱり怪奇現象なんだ!早くプロにお祓いを頼みますね!」みたいになりません?
なんなん?
たとえばですよこれだって「専門家に行ったら全然違うって言われて恥をかいたぞ!相談料もちょっとかかった!授業料だと割り切って弁償しろとは言わないでやる。でも、お前らは信用できないって言いふらすからな!」みたいに後から言わせるとか出来るんじゃないですか?
いやマジで謎。
本当に怪奇現象なのかどうか知ってるなら相談ダイヤルにかける必要なくないですか?
なんで相談者のほうが正しい答えを知ってるの?
元ネタの『Papers, Please』の場合は通して良いか悪いを誰がいつどう判定したのかはブラックボックスになってるんですよね。
監視カメラとかダブルチェックとか業務日誌を見られているとか警察が捕まえてから判明とか色々考えられますけど、とりあえず何が起きてるのかはわからないんですよ。
対してこのゲームは「怪異かどうかを外すと依頼者が怒り出す」という形にしてる。
ええええええええええええええええええええ?????????????????????
そうなっちゃ駄目でしょ。
なんかもうちょいどうにかならなかったんですかね?
『Papers, Please』のマネっ子で、判定成功失敗についてはその場ですぐ分かるようにしつつ依頼者が怒る演出は次の日の新聞だけで済ますとかでもよくないですか?
相談ダイヤルで判定に失敗したら妖怪に襲われる仕組みになっているとかそういうのでも別にいいです。
「なぜか自分が怪異に本当に遭遇したのかを依頼者が知っていて怒り出す」はマジで意味不明。
結局のところ、このゲームの何がよくないって、『Papers, Please』からの換骨奪胎が上手くいってないことなんですよ。
『Papers, Please』のゲームシステムはあの設定だから成立してたし、それで成立するように細かい味付けを調整してるわけです。
でもこのゲームは『Papers, Please』のシステムを踏襲したうえで「怪異に遭遇したかどうかを判定する電話相談」という設定にそぐわないようなシステムになってるんですね。
その矛盾を埋めようとせず、むしろ矛盾をさらに広げるような方向にシステムを調整してしまっている。
ぶっちゃけね、ちょっとしたスパイスを加えれば十分解決できるよなものを放置しまくってるんですよ。
依頼人が何故か結果を既に知っているというシステムになんてしなくても「怪異相談ダイヤルに住み着いてる妖怪がいて結果だけを教えてくれる。失敗した時に嘲笑うために」みたいな設定をひとつまみ加えるだけで私の不満点は解消できたわけです。
そこを掘り下げれてないのが本当に気に食わない。
お前本気でこのゲーム作り込む気あったのかよと思ってしまうわけです。
そもそもをして『Papers, Please』の次々にルールが増えていって煩雑になっていく馬鹿馬鹿しさと、無数の怪異がいて検索をかけて調べなきゃいけない面倒くささってなんか一致してないんですよね。
『Papers, Please』の何を面白いと感じてこの形にしたんだよと。
メリまで入れたら「メリーさんの電話」が出てくるようにしろと。
そして、序盤のうちは出てこない怪異なら序盤は検索に引っかからないようにしろと。
段々と面倒になる『Papers, Please』の面白さを再現するならそこだろと。
序盤はあんまり種類の多くなかった怪異がドンドン増えていって、ドンドン考えることが増えていく、そもそも怪異がドンドン増えている事自体がなんか嫌な予感がすると思ったら、悪いやつが都市伝説を広めることで恐怖を煽り集合無意識の力で怪異が量産されていたのだー!みたいな流れを作れと。
ほんまなんなん?
『Papers, Please』の何が好きでこのゲーム作ったんだよと言いたくなりすぎる。
と俺は思ったけど、好きな人は好きなんじゃないですかね。
じゃあ成仏するわ。
かつてこれ
https://anond.hatelabo.jp/20231107155841
”感情では熊絶滅してくれたらいいのにと思う派だけど、集落襲撃と違って、人の娯楽(山菜採り渓流釣)のために熊駆除するのは違うと考える。私はソロ登山やるから切実だけど、運が無かったと思う事にする。”
このブコメが傲岸すぎて泣いちゃった。
”投稿者がいみじくも書いた、山菜採りと釣り。その延長線上で、熊の親子は駆除される。釣り合いますかね? まぁ、山菜と魚を絶滅させれば問題解決だが。”
は単にマジでなんもわかっとらんのやな思うだけやからええけど山登りしとる人が自然と人間との関わりとしての正解のように書いてまってるように思えてまったのがごめんやけどなんやひっかかってまった。
いや違うな、ワイは娯楽で死ぬ覚悟はできとるけどこのまとめの人らは娯楽でやっといてそれができてへんのやね、いう文意やろか思てムッときてまったんやな。
”田舎生まれの人は分かると思うけど、こういうとこ通らないと生活できない地域も普通にあるし、山菜取って食うのも文化だし、そう簡単に「人間の領域」と「熊の領域」の切り分けはできないよね。”
もしかしてワイが非表示にしてるコメの中にヒグマなど皆殺しにすべし、いうような過激なことを書いとる人がいて、その人に向けて書いとるブコメならごめんやで。
でもそうやないとしての話やが、このブクマカさんがどこに住んどってどんな暮らしをしとるかはわからんけどこの書き方からしてきっと山からそれなりに離れた都市部の人やと思う。違たらほんますまんやで。
そうでなければ襲撃されることが稀である「集落」と人間が分け入ってはいけないクマの領域「山間部」が離れていて「生活」と「娯楽」が切り離されている前提で話さないやろうと感じるからな。
きっとブクマカさんがソロ登山をするときには何かしらの交通機関もしかしたら自転車やらかもしれんけどそれらを使って山へ行って、そこからさあ登るぞってことを月に数回とかするのやろか、と想像するのやけど(違ったらごめんやで。)、そういう感じやと普段の生活に山やクマの息遣いというのは入ってこないんやろから仕方ないんやけどヒグマに遭遇するような暮らしをしとる北海道民の多くは「家のすぐ裏・ちょっと歩いたとろにヒグマがいる山や森がある」って感じの人が多いと思うねんな、いうかワイがそうなんやけど。
そんなのよっぽど田舎か山間の方の話でしょ?wて思うかもしれんが、田舎どころか政令指定都市である札幌市においては南区・西区・中央区・清田区は本当に山がちな地域が多くそのすぐ裾野までびっしりの住宅街が連続しとるいう感じやって都会においてすら北海道ではほんまにヒグマの問題は身近でありかつそこに代々暮らしとる人間にとっては「山菜取り」は文化以前に普通に生活なんよね。
これらの区を繋ぐ道は件の林道よりはそれは都会的ではあるけどや、鹿も通れば狐も通りヒグマも横切る山の中の道でこれを遊びで通る以外の人の方が多いことは市内、どころか北海道民ならだいたい当たり前にわかっていることやと思んやね、生活ですよほんまに。それ以外のなにもんでもなく。釣りはようしらんからごめんやで。やらんからな。
ワイはヒグマ怖いから絶対山に入らんけどワイの前の世代、その前の世代はあたりまえに春になれば山菜取りが生活の一部である人が大勢おり、それを知らん人が自分の知っている自分と山との距離感を当てはめて娯楽といってのけるのはなんとも…やし、そういう地域の住人がのべつまくなし被害に先んじて山林にいるヒグマらの駆除を望んでいるかといえば全然違うんよね、やからヒグマにおびえながら被害に遭わないよう気を付けて暮らしているわけですわ。
例に出しとる行為と同列のものとしてご本人さんが出しとるから「娯楽」と書いてええと思うけど、そうやって度々のソロ登山をたしなむ人が「生まれたときから毎日家の真裏にヒグマのいる山がある」立場の人のなにを判断できるのだろう、後者の人は前者の人より命を落とすかもしれないことへの覚悟がキマってない、いうふうにとれる物言いはほんまにになんやちょっと…傲慢やない?と居住民としては感じてしまったわ。
去年はエサ不足(竹の花が咲く周期とも関係あるとも言われてるけどどうなんやろな?)でヒグマは例年以上に札幌市内のあちこちに出没しとって、もちろんそれ以前も普通に出没しとって周辺に住んでいる人間はみなそれを警戒して暮らしとるよ。
山の近くの小学校に通う子はたまにランドセルに鈴つけとる子もおる位や。
https://www.city.sapporo.jp/kurashi/animal/choju/kuma/syutsubotsu/
この地図
https://www.google.com/maps/@43.1620553,141.1140322,9z/data=!4m2!6m1!1s1IdKI30huZBf56kXAdzwugZ-JcN5Y35QH?authuser=0&entry=ttu
をずいっと拡大してもらうと、いかに市街地と山が隣接していてその境目が曖昧であるかということがわかってもらえる思う。
一歩下ればすぐ車通りのある車線の多い大通りいう民家の前の道に親子のクマが出没して防犯カメラの映像に捉えられニュースになり、「遊びで山に入」らなくても本当にヒグマとの遭遇は日常的なものだという恐れやら覚悟を新たにしたとこなんよ。
山間部やない東区の住宅街にも出没し住民がケガを負ったこともあるしあれも決してその年だけの特殊な状況ともこれからは言えんと感じるわ。
本州の方も良く知っとるやろう藻岩山や朝日山大倉山、定山渓の周辺なんぞまさにクマのメッカのようなとこやしおなじみ白い恋人パークからほんのちょい南に上った山裾の住宅街にもヒグマはたくさん出よるねん。
ほんでそれは多くの住民のすぐ「家の裏」なのであり、生活の場の中いうか一部に内包されとんねん。
札幌市では来年度から山の際の市街地に箱わなを設置するとのことやが
https://www.fnn.jp/articles/-/686749
山から出てしまったヒグマに対する措置やろないうとこやし実際どれだけのヒグマが箱罠にかかるものかというところで、前述のような住環境において住民の命を守るためには決して積極的ではない対応やとワイは思うわ。
札幌は田舎やんかw言われてしまえばそれも間違いないんやけど田舎に限らずヒグマの脅威というものは常に隣にあるもんで、命を失う覚悟もなく甘々の環境で暮らして遊びほうけとるもんでもなく「運が無かったことにする」では済まない毎日があるいうこと少しだけもしここへ住んどったらどうやろワイ・・・て想像して考えてみてほしいんやで。
その上で誰も積極的にはヒグマなどみな死んで滅んでしまえばええねんとも思ってないいうことは特に書いておきたいのや。
そう強く感じとる人間がようけおったとして内心はブクマカさんも書いてるような気持ちと同じやとしても、結果として出力されとらんとこはワイらも同じやねん、たとえブクマカさんより遥かに遭遇する確率が高い日常を送ってたとしてもや。
前述の増田の通りワイはヒグマが怖すぎて泣きそうやからまだ引っ越し資金をためとるで。
そして今これを書いてから泣きながら家に帰るところや。
今思い出しても腹が立つ。
しかし、人間関係に波風立てても良いことないので思いを書き出して供養しておく。
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私と苦手な彼は同じサークルに所属しており、会員は皆イベンター的な側面を持っている。
そこで私は苦手な彼と出会った。
初対面から苦手な人だな〜と思いつつも、同じサークルにいるから当たり障りなく過ごしていた。
苦手な彼と言いつつも彼は悪い人ではない。
私は苦手な彼の軽口に傷つけられた経験があるので、個人的には発言にもう少し配慮があると良いなと感じる程度。
苦手な彼は別サークルで仲良いグループ作って遊んでるから、私が苦手な側面であっても他の人は気にしない側面かと考え、深く考えることなく距離をとって過ごしていた。
サークル内で「何々が大変だよね〜」とか雑談してる時、「俺のイベントは、あなたのイベントよりも100倍進行が大変」(要約)と軽口を叩かれた。
良い大人だからとその場はスルーしつつも、腹の底に押さえきれぬ怒りを抱えてその日の活動は終えた。
苦手な彼のイベントは、事前準備も大変だし当日もリアルタイムの即興対応の負担が多く管理が大変だ。
私のイベントは、事前準備も同様に大変だが事前準備で大部分は管理できる範囲な大変さだ。
ただ私は、今もハラワタが煮えたぎっている。
感情的な側面としては、私も工数かけて準備して皆が楽しめるようイベント開催運営に腐心してる事実に対し、私の行動が矮小化された気持ちになり私の大変さは大したことでないと、否定された気持ちになった。
それぞれが大変と思ってることに対して、比較する必要があったのか?
反論できたろう。私の大変だと思った内容を理解を図るため、言葉で伝える選択肢もあったろう。
ただ私は伝達する気持ちにもなれなかった。
苦手な彼とは同じサークルで顔は合わすだろう。
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今回を振り返ると、私は議論が苦手なのかも。
最近仕事では、目的をもって良い選択肢と行動を取るために話し合うスキルを獲得できた。
しかし、今回のように答えのない事柄に対して、相手を説得し合う言葉の応酬するスキルがないのかもしれない。
いや違うな。自分の好きなイベントを議論して自分のイベントを否定されるような結論の可能性もありうるから、結論を出したくなかったのかも。
例えば礼、神、祷、社、祈など、神仏系なあれによく使われている。
これ今は「衤」だが、昔は「示」だったんだよな。
当用漢字が導入されたときに複雑な字体を簡略化する目的で変更された。
でも衤って最後の方ゴチャゴチャっとしてるし雑だよな。
「示」は画数同じだけどバランスが良いし、形代や神楽鈴みたいな雰囲気があって荘厳さも感じられる。
もとの成り立ちは神への供物を置く台というのも良い。
今も祀や祇のように示を使ってる常用外漢字は存在しているが、それも一緒くたにしめすへんとされてるらしく、とても気持ち悪い。
それに衤を「しめす」とは読まないし。
衤は「ね」とか「ねへん」でしょ。
いつか示に戻らねぇかな。
「あくまで私の考えだけどね」
A子はそのままの調子で続けた。
「推しはさ、私たちにトキメキとか幸せとかをたくさんくれるじゃない? 活躍してる推しを見れるのって本当に素敵なことよね。でも、だからと言って、推しのやることや言うことが全て正しいとは限らないじゃない」
A子は一息ついて、
A子は続ける。
「推しのこと、全部肯定して、全部信じるのって『それって本当に正しいことなのかな』って思ったのよね」
A子はどこかずっと遠くを眺めているようだった。
「推しに自分の生活や思考がすべて支配されるのは、良くないんじゃないかって最近思うのよね。それも一つの幸せと言われたら、そうなのかもしれないけど」
A子は続けた。
「でもそれが『ファンとして然るべき行動』という訳では全く無いと思うのよ。『推しは推せる時に推せ』ってよく言うけど、一旦推しから離れる時があってもいいんじゃないかって、私は思うのよね」
A子は一度下を向き、深く息を吸いながら顔を上げた。
「私の人生は私のもの、推しの人生は推しのもの。一緒くたにしたらいけないのよね」
A子はぐーっと背伸びをした。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。