はてなキーワード: 社会学とは
> 私も自分のことを社会学者だとは思っていないのですが(社会学の正規教育を受けていませんし、そう名乗るのは恐れ多いので)、専門分野の一つに「政治社会学」と書くことはあります。
https://bunshun.jp/articles/-/70814?page=2
Shotaro TSUDA(@brighthelmer)さん
社会学は大好きな学問ですが、社会学者ではありません(正規のトレーニングを受けてないので)。何の研究者かと言われると困るのですが、いまはプロパガンダの研究をしています。
http://researchmap.jp/read0147163
\ちくまプリマー新書5月の新刊/ 津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』
新潟女児殺害事件など大きな事件が起こり、実際に被疑者が起訴された場合、世間の関心事は専らどれくらい重い罰が与えられるかということに関心を持つ。
そして期待した判決と実際の判決に失望や怒りを持つ人々もそれなりにいる。
民法は特にそれが顕著であり、つい最近では債権法の権威、大賢人である某氏の研究がそのまま民法の大改正となり法曹界、実社会に影響した。
刑法学者達の間においての関心事は専ら「罪責」「罪の成立」である。
甲や乙の行動、それによる結果、行動に至った背景事情などから甲、乙の行動に対してどのような罪が成立するか(強調するが罪が成立するのは甲、乙自身ではなく甲、乙の行動である)、ということがテーマである。
つまり刑法の研究者にとって罪責の研究こそが重要テーマであり、罪の成立の後に行動者(犯人)にどのような科刑をするかということは興味のないテーマなのである。
これは実務家にも影響を与える。
法学部生、ロースクール生、司法試験受験生や司法修習が友人や家族などからよくされる質問として「〇〇をしたらどれくらいの懲役、罰金になる?」というものがある。
しかし、質問された所でまだ実務家ではない彼らにはわからないし興味がないのだ。
法科大学院や司法試験では科刑すらほんのちょっぴりしか扱わないテーマであり、ましてや実際の刑罰の重さは全く問われない。
司法試験の合否に影響しないこともあり、興味がない。
これに尽きる。
もちろん刑法学の世界では科刑、刑罰の重さ、更生などをテーマとする学者もいる。
しかし、社会学、心理学、政治学、教育学など様々な分野に跨る学際的テーマとなるため格が落ち、研究者からは嫌われるし軽んじられるのだ。
研究者たちが罪責にしか興味を持たないため、法曹実務家の世界も罪責への関心が強い。
結果として「罪が成立した後の刑罰は前例通りの処理で終わらしておけば良い」となるのだ。
もちろん、前例主義の科刑に世間から反発が寄せられることもある。
しかし、裁判官が怖いのは無知蒙昧な民衆からの非難より、科刑について熱心に論じることにより権威の世界から笑われることである。
ある程度の年齢の裁判官にとって司法修習もせず実務家にもならず大学院にも進まず、学部を卒業した瞬間に大学から給与を貰いながら論文を書いていた権威ある研究者たちはその他大勢の民衆と異なり「目を背けられない対象」である。
>勉強はきっとウチらに平等だ! https://ynjn.jp/title/14812
>生活保護世帯から東大で博士号を取るまで① https://note.com/rshimada/n/n058fbbff18c9
教育格差の物語について、ちょっとだけ思うところがあるので書かせてほしい。
1つは「やる気も意思もあるのに、手段がない。リソースにアクセスできない」というもの。
環境が不遇で、優秀で志もあるのに時代や環境の逆風があって夢を叶えられない、というような、物語になりやすいタイプ。
昨今ネットで話題になるような教育格差の物語は、このタイプが多いんじゃないかなと思う。
ただ、私の考えでは教育格差の物語にはもう1つタイプがあって、それは
「そもそもやる気も意思もないし勉強なんて好きじゃない」という人の物語。
「意思のない個人」として、流れ流れて現代社会で生きづらくなっている人の教育格差の物語。
さっきの立志伝を潜在的上位層の物語とするなら、こっちは『C層の子の物語』と言えると思う。
こちらは当人が別にこうなりたいと思っていないからそもそも物語にならない。語られないから苦しみの構造が知られない。
まれに世に出ても「意思を持つかどうか」は社会構造の問題だと見なされがたい。
ただ、このタイプも、よく見ていくと家庭環境や生まれが要因で「意思を持つ機会がなかった」側面があることに気づく。
私は「意思が持てる」って運に左右される側面があると思う。
「意思が持てる」という幸運に見放された人というのは存在する。そういう格差も十分苦しい。
後者は本人が問題に無自覚で、問題の構造に気づけてないこともままある。勉強や教育によって状況を改善しようという発想自体がない。
なんだったら勉強を苦手なもの・押し付けがましいものとして疎んでいることも少なくない。むしろ教育的なものから距離を置こうとする。
(このあたりは教育社会学の大家苅谷剛彦氏が「"勉強しないこと"がアイデンティティになる環境」」みたいな話で書いてる)
実際の公教育の現場で見られる教育格差は「意思があるが武器がない」タイプは少数で、多くはこの「意思も武器もない」タイプだと思う。物語性も希少性も薄いから話題にならない。
善い行いをすれば良いことがあり、悪い行いをすればバチが当たる。
努力をするだけ結果に繋がる。
そういった考えを「公正世界仮説」、それに準じることを「公正世界信念」などといったりするらしい。
善い行いをし続けた者が理不尽に死んだり、悪い行いした人が悠々と生きていることも珍しくない。
努力が結果に繋がるとは限らない。
実際、そんなことくらい分かっている。
しかし、そんなことを承知の上で、漠然と「公正世界であってほしい」とも思っている。
つまり広義的な「ゆる~い公正世界への信仰」に覆われている状態なわけだ。
問題は、これが「あいつは持っているのに、なぜ自分は持っていない」といった感覚を生みやすいこと。
(相対的剥奪感なんていうらしいが、社会学を語りたいわけではないので名称はどうでもいい)
さて、先ほど、世界は公正ではないものの「ゆる~い公正世界への信仰」があると書いた。
この信仰によって「あいつが持っているのだから、自分も持っているべきだ」と考えが出てくる。
或いは「自分が持っていないのだから、あいつも持っているべきではない」と。
実際に奪われたわけではないし、もとから自分の物というわけでもないのに。
では、どうやってこの妄執を解消していくか。
一見すると穏当だが、この手段が極度に達すると本当に「他人から奪うことで手に入れる」ことになる。
そもそも「自分も持っているべきだ」という前提があるため、必要以上の、特別な措置をとりたくないわけだ。
ふたつめは、それを持っている人から取り上げること。
これも実質的に「他人から奪った」形にはなっているが、自分がそれを手に入れるかは重要ではない。
あくまで「自分が持っていないのだから、あいつも持っているべきではない」という考えのもと取り上げるからだ。
みっつめは、「何らかの真っ当な要因によって自分は持っていない(あいつは持っている)」と脳内保管することだ。
しかし、これは公正世界の非現実性、そのギャップを埋めるためにやっている時点で破綻している。
つまり、この脳内補完も現実に則していないため、どこかで無理が生じやすい。
その“無理”が積み重なって自分一人で処理しきれなくなると、今度は“外”に干渉することによって解消しようとする。
そもそも世界は公正じゃないのに「世界は公正であってほしい」と思うことがバグの原因だ。
しかも、この「公正世界」は自分のミクロ的な視点、つまるところ「小規模な世界」に押し込められているのが実情である。
公正な世界なんてものが実現可能であったとして、それが「自分の望む世界」かは別の話、ということだ。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193039
この時期は多くのことを考えた。特に就職のことだ。第一志望の大学には入れなかった。だからこそ、今後の人生では逆転したいと思っていた。
就職四季報を読み耽ったし、就職活動の参考になるサイトは巡回したし、就職課の方々にもクソお世話になった(ワンピース的な意味で)。
リクナビとかあるじゃん。あれで友達とかにURL付きの回答ページを送って、送り主のことを回答してもらって、そしたら他人から見た自分自身の分析結果とか、どんな業界が向いてるとか、どんな価値観で仕事をしたいとか、いろいろわかるサービスがあった。そういうのをやってた。
当時は、LINEとかTwitterが一般的だった。ひと昔前の人って、LINEとかなかったんだろ? もしかして、全部メールとか郵便で就職活動をしてたんだろうか、一体どうやって? という疑問を感じていた。
本格的に就職活動が始まろうとしていた。自分は、1回生の頃から【TOEIC】の勉強に励んでいた。少しずつではあるけど実力を身に付けていた。勉強時間はそれほどでもないけど、ずっと続けていた。二年半。
受験にはお金がかかるし、実力を付けてから挑んでみようと考えていた。そしてついに、秋頃だったかな。受験料が少ないタイプの学内試験(※本番で実施済のテストを使い回すやつ)を受けることにした。
人生で初めてのTOEICは……うん、こんなもんかって感じだった。緊張していて、そこまで問題は解けなかったけど、ベストを尽くすことができた。
その結果は、なんと……(ドラムロール鳴る)……760点だった!! 当時の自分は、大喜びだった。狂喜乱舞だった。心の中でもリアルワールドでも小躍りをしていた。実際、佛教大学でのランキングは堂々の二位だった。一位は確か、文学部英米学科の人だったと思う。
これは、この結果は……紛れもない一流である!! おそらくきっと、この点数は、同志社だろうと立命館だろうと飛び抜けた点数だろう。京都大学でも通用するし、ましてや就職活動で通用しないはずがない。祇園や木屋町などの飲み屋街、東本願寺や渉成園とかの観光地で【外国人】とトークをしても通用するだけの英語力を、ついに、ついに身に付けたのだ!!
※そんなふうに考えた時期が俺にもありました。
そんなこんなで、就職活動が本格スタートした。俺は必死で、シューカツとやらに取り組んだよ。リクスー集団に交じってさ、学内の企業説明会とか、大阪城ホールでの合同説明会とか、東京までOB訪問に行ったこともあったっけ。とにかくマジだった。
あの頃の自分は飢えていた。なんの実力も実績も持っていないのが嫌だった。とにかく何か、ほかの人から見て、「あいつはスゴイ」となるものを最低一つはほしいと考えていた。
いつからか知ることになったのだが、この佛大というのは宗教系の比較的裕福な大学である。当時の週刊誌の大学職員給料ランキングでは、慶應や関西大学などの有名私大と肩を並べていた。キャッシュフロー的な意味で裕福な理由はいくつかあるが、そこまでは述べない(この日記の趣旨ではない)。
大学構内には、相応の見た目の講義棟(兼研究棟)が鎮座している。学生時代は「おしゃれ~でかい~」くらいの印象だったが、歴戦の社会人となった今ではわかる。あの1棟ものの巨大な建物は、建設工事だけで百億とかいってるかもしれない。同じ規模の大学で、あれを作れるところは少ないだろう。
あれは確か、3回生の終わり頃だったかな。本日の部活もさあ終わりだ、という時に、部長(※教員側の部活責任者)から声がかかった。ほかの3回生も一緒だった。「佛大の就職試験を受ける気はないか? 希望者がいたら優遇する」ということだった。
考えたのだけど、大学職員というのは、その大学がすんごく好きな人がなるものだと思った。当時は、民間企業への就職を視野に入れていた。優遇できる枠は1名ということで、ほかの同回生が手を挙げることになった。
まあ、年収であるとか、職務内容とかのバランスを考えると、「魅力的だ」とは正直思った。当方は、人生の方向転換が苦手なタイプである。この頃は、先輩やOB・OGを探して、就職活動に関する考え方や情報を集めていた。何でもいい、そういう生のデータがほしかった。
けど、嫌なことはやっぱり起きる。わざわざ日記に書いているのだから、当時の俺は相当ムカついたのだろう。
就職に関する情報を探してる中で、聞き込みのために学内アルバイトをすることがあった。それは講義の出席者からレポートを受け取って、受付番号を整理して、最後に整頓するようなアルバイトだった。1日勤務で六千円だった気がする。
二人一組で受付作業をするのだが、隣の組を見てると気分が悪くなった――と日記には書いてある。
その組は、男子と女子の組み合わせだったのだが、男子の方がやたらと女子の方にがっついている。レポート提出者がいない時に、割と雑談をしていた。
その中で、男子の方が「彼氏いる?」と聞いた後で、女子の方が「いる」と答えると、男子の態度が急に悪くなったのだ。それは仕事終わりまで続いた。
最後にレポートの仕分け確認をする時も、その男子は怒鳴りつけるようにして女子に当たっていた。俺はあまりにムカついたので、「ちょっと静かにやってもらえます?」と声をかけて、ようやく静かになった……。
と、記憶を思い返したけど、今の俺にそこまで思うことはない。「男の態度がひどいね。でも、オスってそんなもんじゃね?」くらいしか思わない。間近で見たらムカつくんだろうけど。注意とかするかもしれない。
当時は、実際どんな人間だったんだろう。俺って。記憶が薄らいでるとかいう次元ではない。消失している。全然わからない。
なんかさ、十年前の自分ってさ、もはや『他人』じゃないか。体の細胞でいうと、20回分は完全に入れ替わっている。もはや完全に他人である。
余談だが、佛教大学に通ってる女子には可愛い子が多いと、アルバイト先の立命館大学の人に言われることがよくあった。
根拠は全くないものの、社会に出た後の個人的感想では当たっていると感じる。福祉や教育に強い大学はそうなのだろうか?
就職活動に本気だった。この頃は、大手企業は今よりも早く内定を出していた(4月の1週目くらい?)。就職活動以外に教職課程のこともあったが、時間の隙間を縫って面接試験を受けに行った。まあ、書類選考でお祈りされることの方がずっと多かったけど。
うちの大学の卒業生で、すごい就職先に進んだ人っているのだろうか? 自分は高望みをしていないだろうか? そんなことが気になっていた。大手病に罹患していた可能性が極めて高い。
当時は社会学部で政策学を学んでいた。社会学だけじゃなくて、社会科学ならなんでも学べる学部だった。地域を盛り上げる系のゼミに入っていたのだけど、どんな先輩方がどんな進路に進んでいるか、正直気になるところだった。
ほかのゼミと交流する機会があった時に、同輩や先生方に聞いて回ったのだけど、凄い人というのはやっぱりいた。学生が六千人もいるのだから、レベルが高い人は一定数存在しているのだ。
社会学部の先輩(俺と同じ公共政策学科)の例だと、自分が入学する数年前に総合商社の内定を取った人がいたらしい。学業だけじゃなくて、外の世界に飛び出して活動していた人だと聞いた。とにかく忙しい人で、授業にはそこまで出席してなくて、水商売の仕事に明け暮れていたらしい。
単位はそれなりに取得して、教職課程最難関の講義(兼演習)ではチーム全員で百点満点を取って、大学同士の研究分科会では発表役になって、大学の学園祭ではパヒュームのダンスを踊ってウケを取って……とにかく活動的な人だったらしい。
学歴って、仕事の実力とは相関が薄いよな。多く見積もっても3割くらいだ。『誰もが嘘をついている』という本に書いてあったのだが、高偏差値の名門校に1点差で受かった人・落ちた人を追跡調査する社会実験があったらしい。結果的には、学歴と現在の地位に相関関係はないという結論だった。相関係数は0.1程度とあった。
アメリカ合衆国での話なので、日本だとどうなるかわからない。けど、自分も同意見である。どんな中学・高校・大学を出てるとか、そういうのは人生での成功にはほぼ関係ない。
どんな瞬間だって、自分が今どこにいて、何を目指していて、どんな努力をしているか。それが大事だ。学歴を振り返ってる暇があるなら、さっさとやることをやって次の先に進むのだ。
就職活動の話に戻るけど……就職活動の面接で問われる内容(志望動機、自己分析、自己アピール、就職活動の軸、ガクチカ)とかってさ。釈迦人になった今ではわかるんだけど、ぶっちゃけ茶番だよな。はてなブログだと、借金玉さんがそんなことを言ってた。部族の掟に近いものがあるってさ。
就活的なキャラの型枠を、リクルートその他の人材会社が用意したうえで、企業側が「茶番」に対して本気になれる人材(会社の方針を素直に受け入れて、貢献してくれる)を探してる。それだけだ。
若き大学生が当日記を読んでる可能性は低いけど、たったひとつだけ、ただひとつだけ、会社選びで言えることがあるとすれば……以前、どっかの増田日記に書いてあったのを参考にすると、こんなところだ。
「自分が入りたい会社というのは、自分が将来、どんなキャリアを描きたいのか、どんな人生を歩みたいのか、どんな人間になりたいのか。そういうところから逆算して決めていく」
就職活動の軸というよりは、人生の軸という観点である。ちなみに軸、というのは「他人に関係なく、自分が正しいと思える考え方」という意味だ。
経済社会でバリバリ働きたいなら、そういう会社に行くべきだし、あなたが大事にしてる『たましいの仕事』があって、仕事は副業でやりたいなら暇そうな業界を選ぶべきだ。
将来、どんな人生を歩みたいのか? それさえ決まっていれば、業界や会社を決めることはできる。職種についてはナントモだが……敢えて言うと、保育所とか幼稚園とか小学校とか、それくらいの年頃に何が面白かったのか、が答えになるんじゃないか。その年代に心から楽しめたものは、大人になってからもきっと楽しい。
結局、その年の春の終わりに就職活動を終えて、内定をもらえたのは……京都市内にある電子機器メーカーだった。
大手企業を受けるのはやめた。大手病を克服したのだ。それで地元の会社一本に絞った。ここまで絞ると、受験できる会社の数は十社程度になった。自分の力をそんなに分散する必要もない。十分に集中できる。
当時は嬉しかったよ。両親に報告したら、父も母も衝撃を受けていた。うちの親って、自分の子どもを親戚の子と比べたがる嫌いがある。それはムカつくのだが、いい結果を報告できてよかった。
両親が、俺が出した実績をありがたがって聞いている。その実績を、電話などで親戚やご近所に知らせて調子に乗りまくっている。スタンダールの小説の『赤と黒』を思い出した。小説の中で、こんな感じの場面がなかったっけ? ブクマカで詳しい人がいたら教えてほしい。
両親よりも喜んでいたのは就職課の人だった。内定先を告げると、ご機嫌なビートで小躍りするようにして、ハッピーな感じでターンをキメていた。ずっと以前から、いろいろとお世話になっていた。喜んでもらえてよかった。
この年度の終わり頃、卒業間近だったか。大学が出してる何かの広報で、俺の就職先がデカデカと上の方に載っていた。トレーニングルームでそれを読んでいる時、隣にいた学生達も同じ広報の同じページを読んでいた。
「ん。どこどこ?」
「ほら、ここや。この会社」
「ああ、それマンコやろ」
「……」
「女の一般事務職だって。総合職ちゃうし。こんな掲載は詐欺に近い」
俺の怒りは有頂天に達していた。当時の日記には「有頂天」と書いてあったが、怒髪天と書きたかったのだと信じたい。
こういう連中はどこにでもいる。気にしたら負けである。増田の読者の人も、レベルが高い解釈と低い解釈があるとしたら、迷わず高い方を選ぼう。そっちの方が心身ともに健やかな人生を送ることができる。
次
文化資本とは社会学の用語なので、「文化資本ってなんだよ?」と言ってる間に定義をググればよい。
・客体化された形態の文化資本 (Objectified state)
絵画、ピアノなどの楽器、本、骨董品、蔵書等、客体化した形で存在する文化的財
・制度化された形態の文化資本 (Institutionalized state)
学歴、各種「教育資格」、免状など、制度が保証した形態の文化資本
・身体化された形態の文化資本 (embodied state)
ハビトゥス; 慣習行動を生み出す諸性向、言語の使い方、振る舞い方、センス、美的性向など。
地域に関係なく金があれば手に入る物、地域によって手に入りやすいもの、教育によって形成されやすいもの、マナーのように伝授され身につけるものなども含まれる。
これらに触れる機会を増やし、手に入れ身につけることで「社会的にマウントを取りやすくなるもの」(物質あるいは非物質といった区別なく、特定の社会的な枠組みにおいて追求する価値と希少性があることを示すもの)が文化資本ということだ。
避難所が暇空とスペースで対話しようとしたところ、「町山さんの二の舞いになるからやめなさい」と新人カルピスのミルージュが公開説教し、正気を取り戻した避難所がギリギリでスペースを回避
↓
新人なのに避難所を制御できる大物としてミルージュが注目され、文章力が高くて礼儀正しいことから大学教授だと暇空が認プロ
↓
めたまんやカルピスマンゴーと相互フォローの大学教授(東大情報学環所属の社会学者)を見つけたと暇アノンが虚偽の報告をする(本当は相互どころか一切接点なし)
↓
嘘に騙された暇空がその教授を掘ったところ、SKY-HI(若者に一番人気のラッパー)のポストをRPしていたことが発覚し、その教授とミルージュはマイナーなラッパーについて知っているという共通点があるから同一人物だと認プロ
↓
暇アノンのバサラキックが「銀の弾丸」という言葉を使用したところ、「銀の弾丸」が情報工学で使われる言葉だと知った暇空が、バサラキックの本体は東大情報学環所属(ただし専門は社会学)のミルージュだと認プロ
↓
堀口くんが過去に東大大学院進学を夢見ていたことから、ミルージュが進学を餌に堀口くんをスカウトして空気を入れた主犯だと認プロ
↓
医学部の入試で男性のほうが合格率が高いのは差別の結果、というのは数年前よく見かけた。上野千鶴子の2019年東大入学式"祝辞"でも冒頭で以下のように触れられている。
「全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。『男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い』。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。」
しかし、慶応の医学部医学科 ("祝辞"では”事件”のあった東京医科大や順天堂大と混ぜて紹介された)は、点数操作無しで合格率男女比1.37で、上野の母校である京大("祝辞"には登場しなかった)も1.27だ。こちらももちろん点数操作は無い。根本的な原因が点数操作以外にあることは、文科省の調査結果が出たときから明らかだった。
医学部と他学部で合格率男女比が異なることへの私の説明は表題の通りで、詳細に言うと以下になる。
《受験者の全体平均と医学部など難関大学受験者に多い富裕層では、受験校選択の傾向が異なる。富裕層の女性は偏差値的格上校を積極的に受験するため、合格率は男性なみかそれより下になる。》
2019年4月時点で、一般人でもwebで複数年・多数の学部の男女合格率を拾えたのが早稲田 だ。
学部ごとに'13~’18年の6年間の一般入試の合格率男女比平均値を出すと
政経0.92, 法学0.97, 文化構想0.94, 文学1.03, 教育1.02, 商学1.22, 社会科学1.22, 人間科学1.20, 基幹理工1.47, 創造理工1.17, 先端理工1.57
となる。文系は男女拮抗が多いが、理工系3学部は男性のほうが合格率でもはっきりと高い。
女子枠創設が話題('24年春時点)の京大の理系は、‘22年、’23年の合格率男女比が理学部で1.55、1.79、工学部で1.38、1.29となかなかの値だ。
'23年の教育学部(理)も合格率比0.45とすごい値だが、ここは約10名という定員数の影響が大きいだろう。
各学部で日本の大学全体の平均を見ると文系も理系も女性のほうが合格率が高く (あるいは男女拮抗)、難関大学では男性合格率が高いなら、普通の大学と難関大学では合格率の男女比がはっきり違うことになる。
よく知られているように難関大学の学生・受験生の学力面以外での特徴は、経済的に余裕がある割合が高いこと。大学受験で難関大とフツーの大学で違う、はだいたい、リッチな受験生とフツーの受験生の行動が違う、になる。
リッチでそこそこ以上に成績が良い高校生が難関大を挑戦的受験するときは、都市部の中堅以上の私大を滑り止めにしていることが多い。
また、滑り止め大学の受験・進学が容易な富裕層・大都市居住者は女性の大学進学率が男性並みか、それ以上で、日本の大学受験生の全体平均、ましてや就職コースを含む高校生の全国平均とは状況が大きく異なる。
富裕層は女子学生でも進学についてのプレッシャーが強い、とも言えそうだが、"祝辞"では
「女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります」
と言ってこれが絶賛されたのだから、フツーは買えない余裕を高い家庭経済力で買っている、という認識が良いのだろう。
逆転に至るさらなる要因として、都市圏から地方大への進学者数が男女で大きく異なることが挙げられる。例えば以下の調査結果
ttps://www.ipss.go.jp/publication/e/jinkomon/pdf/19823104.pdf
都市圏から地方国公立大に進学する動機で大きいのは、一人暮らしをしたい・学費を低く抑えたい、だろう。男性・理系との相性がいい。
女性が格上大学を記念受験する傍らで男性が都市部から地方に進学すると、男性の難関大合格率が相対的に上がる。
詳細な検討にはデータ (滑り止めと、進学実績水増しのための多数校受験の区別とか) が足りない。
しかし書いていて、家庭経済力の差・都市と地方における滑り止め確保のコスト差・男女の自主的な行動の違い、が組み合わさって自然と難関大学では女性合格率が下がる、というのはむしろ社会学の知見としては当然の結果に思えた。
ただ、そう明記しているものを見つけられなかった。
難関大学における女性の学生や志望者の少なさを問題視する論文はすぐ見つかるが、一般社会では数年前に問題視され、"祝辞”でも触れられるくらい話題になっていた合格率は、あまりアカデミックの社会学では考察対象になっていないようだ。
確かに、人気になれば下がる合格率にやっきになるほうがおかしい。しかし、余計な男女分断を避けるためにもそう言ってくれれば、文科省も何年も調査しなかっただろうとも思う。せっかくなので、ここに書き残しておく。
あの"祝辞"は冒頭の後、こう続く。
「2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。『息子は大学まで、娘は短大まで』でよいと考える親の性差別の結果です。」
原因がやはり家庭経済状況と、それへの対処の男女差に要因があることは明白だろう。例えば2014年に発表された調査では、奨学金を借金している割合は男性理系50%、女性理系46%、男性文系44%、女性文系41%だった。
学生数は男性が文:理 =約1:1、女性が同4:1なので、調査結果の数字を当てはめると借金率男女差は約5ポイントとなる。そして借金だけでなく、きついバイトや貧乏生活、長距離通学など、大学進学の金銭面をどうにかするのは基本、男性のほうが適性がある。
借金などムチャをして進学できるのは男性有利な構造があるため、と主張はできる。ただ男性のムチャの動機は、自分より高所得のパートナーを得るルートが無い、社会保障も届かない、という要素が強い。
「エリート女の泣き所はエリート男しか愛せないってこと、主夫 (ハウスハズバンド) を養うなんて現実的じゃない」
という上野本人の有名な言葉が、そしてこの発言をした上野がこの「祝辞」を述べる栄誉を与えられ、なおかつ今も権威として君臨している現実が、男性が女性よりも進学や労働でムチャをする理由、ムチャせざるを得ない原因を端的に示している。
一方でそれらのムチャは、よく死ぬ(もちろん同じルートに突入したからには男女問わず)、という副作用と、それでもそれがマシ、というつらい現実を伴っている。
上野の主張は、彼女ほど親の経済的援助(大学近くに住居を準備し、かつ博士課程修了までの学費・生活費も支える)に恵まれていない子と、そこまではできない親の苦労と苦悩を無視している。また大学進学以外のキャリアが視野に入っていない点でも同じ傾向で多様性を欠いている。
そして、大学進学率の低さを解決するために非エリート家庭への経済的支援を模索するのではなく、エリート女性を含む女性全体に対する性差別を解決せよと主張するのは、自らの指導的地位を利用して非エリート女性の被害者性を奪う行為だ。
他人の苦難に親身になるのは素晴らしいが、"彼女たちは苦労させられている" を "私たちは苦労させられている" に変換して他者を非難し、自己の権益を主張する行為を、私は当時も今も好きになれそうにない。
ChatGPTちゃんセーフだった
近年の人権や平等の推進などを考慮し、単独親権と共同親権どちらがより望ましいと考えられる?
ChatGPT
人権や平等の観点から親権の形態を考える場合、多くの専門家や国際的な基準は共同親権の方向に進むことを推奨しています。その理由は主に以下の点に集約されます。
1. 平等の原則
共同親権は、離婚後も両親が子供の育児に等しく参与する権利と責任を持つことを保証します。これは、性別に基づく役割分担の固定観念からの脱却を促し、父親と母親が平等に子供の生活に関与する機会を提供します。この点は、性平等の観点からも重要であるとされています。
2. 子供の最善の利益
多くの心理学的および社会学的研究によると、適切に管理された共同親権の状況下で育った子供は、社会的、心理的にも健全な発展を遂げる傾向にあるとされています。子供が両親との関係を維持することで、安定感や自己価値感を高め、精神的な健康を保つことが可能です。
3. 法的および国際的傾向
国際的には、欧米を中心に共同親権が推奨され、実施されている例が多く見られます。例えば、欧州人権裁判所では、親権を巡る問題において子供と両親との関係を断つことは、家族生活の権利を侵害するとされることがあります。
4. 社会通念の変化
現代社会では、家族の形態も多様化しており、従来の「母親が育児を担う」という固定観念から逐次解放されつつあります。この社会通念の変化に合わせて、法制度も進化する必要があります。
ただし、共同親権には適切な実施が求められます。たとえば、親間の対立が激しい場合や、家庭内暴力が存在する場合など、子供の安全を確保するために単独親権が適切とされる状況もあります。そのため、共同親権を基本としながらも、例外的に単独親権を認める柔軟な制度設計が理想的です。
総じて、平等と子供の最善の利益を推進するためには、共同親権が望ましい形態と考えられますが、その適用にあたっては各家庭の具体的な状況を考慮する必要があります。これにより、全ての関係者の権利と福祉が保護されるようにすべきです。