はてなキーワード: 社会的地位とは
↓のブコメを参照して。
「あの頃の女叩き」と比較すると、
「今の男叩き」は、
それなりに社会的地位のある人が堂々と男性差別的な発言をしていて、
それがメディアを通して「正しさ」を帯びた形で発信される。
それの何が「比じゃない(女性叩きのほうが圧倒的に酷かった)」なのか「よかった」なのかわからない。
こういう人は当時ネットで女叩きをしていた層と潜在的な同類だと思う。
最近の男は結婚嫌がる気概もないのかhttps://b.hatena.ne.jp/mukudori69/20240610#bookmark-4754702370830941888
kanatashiro
今おじさんは差別されてるとか弱者男性は差別されてるとかはてブで言ってる人たまにいるけど、当時のインターネットにおける女差別は今の弱者男性叩きの比じゃなかったよね
2024/06/10
mukudori69
ちょい年下だが割と同じ感覚。フェミが〜フェミが〜と元気にお怒りの皆さんを見ると、サンドバッグがいてくれてよかったネ〜ってなるな。当時は女を叩いて当然の空気を内面化してたし、反論する先さえなかった
2024/06/10
中田敦彦のYoutube大学というYoutubeチャンネルが叩かれている。
まず結論を言うと、おれはこのYoutubeチャンネルは消えてほしいと思っているし、 もはや中田敦彦には自殺なり事故なりで死んでいただきたいなと思っている。 こいつが、おれがこの社会をおれのような人間にとって生きにくくしてる元凶だと思うからだ。 こいつは、適合人間の権化だ。害悪である。
中田敦彦のYoutubeの大学について、おれはもともと良いと思っていなかった。
誤っていることが多いからだ。 また、文学を紹介する時にも、著者に対するリスペクトが欠けているなと感じることがあった。
ということでおれは無視していた のだが、中東史のビデオが、それに詳しい人に酷評され、そこから中田敦彦批判が広まっていった。
おれも、彼の新選組のビデオは登場人物の名前はじめあまりに誤りが多く、 おれ自身は以前に話したとおり、麻布学園の自由論文テーマで土方歳三を選ぶほど新選組のことが好きであり、 本来ならば、中田敦彦のような著名人に新選組を広く紹介してもらうことは本意であるべきなのだが、 そのビデオを見た瞬間にチャンネルも登録解除したし、レコメンドも停止した。 気づけば、ディスプレイの中にいる中田敦彦に対して中指を突き立てていた。
それ以外のビデオに関しても、見る人が見れば誤ってるとわかるものが多いようなので、 彼のビデオは結構いい加減ということは言えると思う。
おれが中田敦彦のように、 お金を稼ぐためならば、多くの人に見てもらうためならば何をしてもよいと 考える人間が嫌いだ。
また、それに対して群がる人間も嫌いだ。
ツイッターなどで、何も面白くない、知能指数3くらいの白痴ツイートが 1000Likeを得ていたりすることがあるが、 こういうものにLikeするやつは全員ガス室に送るべきだと考えているし、 当然、ツイートした本人も死刑になるべきだと考えている。
なぜか。
それが、適合するということだからだ。
適合人間にとって真実はどうでもよい。 多くの人が正しいと信じていることであれば、それは正しいということになる。 間違っていることであっても、みんなが正しいと思っているから正しいという人間がこの世には結構いる。
中田敦彦にとって正しさの優先度は低い
中田敦彦にとって、ビデオが正しいことを言ってようが何であろうと関係ないのだ。 ただ小説や歴史をてきとうにおもしろおかしく紹介出来て、それによって自分のチャンネルが肥大して、 多くの視聴数が得られ、高額な報酬が得られればそれが正しいことなのだ。
Youtuberは多くの場合、虚業である。 彼らが提供しているのはエンターテイメントであり、 現代の価値基準でいうと、本来なくても良いものだからだ。
しかし、百歩譲って単なるエンターテイメントであれば問題がない。 それどころかおれは、人間が経済的に豊かになった時代においては、人の心を豊かにする エンターテイメントこそが必要なものになると考えている。
では、中田敦彦のYoutube大学はエンターテイメントなのか? 彼はそのつもりかも知れない。 しかし、見ている人間からするとそうではないのだ。 不愉快に思うこともある。
もちろん、不愉快に思う人がいるからやめろというつもりはない。 なぜならばそれはまさに適合サイドの論理だからだ。 全員が不愉快に思っても、正しいことならばやればよい。
しかし、これを「大学」と名乗るのはやめろ。 大学と銘打つのであれば、提供する内容に専門家のレビューを通すのを最善とした何らかの検査をしろ。 正しいことを伝える最低限の努力はしろ。さもなくば、「大学」と名乗るのはやめろ。
なぜ彼が、正しくないことを言ってるにも関わらずそれを大学を呼んでしまうかというと、 そういうものを大学と呼ぶことに罪悪感がないからに他ならない。 なぜかというと、彼にとって大学ないしは学問というのがその程度のものだからだ。
これは恥ずかしいことだと思っていただきたい。 まともに教育を受けた人間で、中田敦彦のYoutube大学を真剣に見てる人は 誰一人いないと断言出来る。 メンタリストDaiGoなんかも似たようなものだ。
中田敦彦がこのチャンネルを「大学」と呼ぶ背景には、 彼が本当に知識を多くの人に届けていることに正義を感じているかというのもあるだろう。
学校でいじめられて引きこもってしまった子などが、自分のビデオを見て学ぶことに喜びを感じているのかも知れない。 経済的に大学にいけない人に学ぶチャンスを与えたいとか思ってる可能性もある。 というか誓ってもいいが、きっとそういうことを言うのだ。なぜならばそれが適合人間だからだ。
しかしおれはそうは思わない。
歴史上の人物について何かしらの真実を捻じ曲げたりすることは、 生きている人間にとって嘘の情報を流してその人間の社会的地位を貶めることとなんら変わりない。
なぜならば、第一にその人の子孫は今の世の中に存在しているからだ。 これは、不愉快に思う人がいるから正しくないと言ってるのとは違う。 単に、犯罪行為をやめろと言ってるに過ぎない。 しかも悪いことに、登録者は100万人を超え、何万何十万というオーダー の人間に見られてしまっているのだ。
また、歴史というのは生きている人間の共通認識でもあり誇り・財産でもある。 これらを穢すことは当然許されない。 歴史は、空気中に浮かんでいる何かではないのだ。
おれは、中東の歴史については詳しくないので上で挙げたツイートについて それが真実かどうか判断する目を持たないが、 もし真実でないとして、それを中東の人が見たらどう思うのだろうか?
理由その2は、一度誤った知識を身に着けてしまうと、 それをあとで修正することが難しくなるからだ。
小学生中学生の子供が、中田敦彦のYoutube大学を見て 何かを学んだ(?)とする。 そしてのちに学校で同じテーマについて正しい知識を学ぼうとした時に、 正しい知識の方が定着しない可能性がある。
理由は、
1.動画で学ぶことは、退屈な教科書で学ぶことより記憶に定着しやすいから
3.多くの人が見ている動画だから正しいと思い込んでしまうから(適合人間の悲しさ)
「人間だから間違うこともある」というのが適合人間の論理だ。 しかも間違うことを許さないと社会が進んでいかないとか言い出したりもする。 というか中田敦彦はきっとそう言うはずだ。
しかしすでに述べたように、 間違ってると思うのであれば、それを大学と銘打って垂れ流すのはやめろというのが一点だが、 その間違いが単にケアレスミスとかそういうレベルではなく 「そもそも正しいことを広める気がない」という点を問題視していることから 自分に対する批判が始まっていることを認識していただきたい。
恐らく制作側に
・「結婚、出産をしつつキャリア仕事もする女」である主人公の対比となる存在として
・なら法科の同級生設定が都合いいが、現実のこの時代にそんな女弁護士は存在しないので弁護士設定にはできない
・無資格のパラリーガル設定だとパートナーとなる弁護士が必要、でも主人公は裁判官になるのでその役割は出来ない
・勿論恋愛脳にはしたくない
・法科の同級生で二人の共通の友人である男弁護士を実はゲイだった設定にして、
そいつと一緒に恋愛感情なしのパートナーとして弁護士事務所開く展開にした
ってのが上手すぎる
大抵の女はこういう関係性大好きだから女性向けドラマとして視聴者にもウケるしSNSで話題にもなって三鳥
あれを恋愛感情じゃなくてただの男の友情と思ってる人もいるけど
轟をよねとも他の女とも恋愛や結婚させないままよねと弁護士事務所やらせる展開のための設定なんだからゲイに決まってんだろと
ただの男の友情なら別腹で女と付き合うだろと
まあそのうち友情婚したり、周りから内縁の夫婦扱いされる展開はあるかもしれない
以前「お前は男に守られるのがお似合いだ」と罵倒した癖に自分も轟に守られてんじゃんになるような
いずれよねも弁護士資格取って轟と対等になるんだろうか、でもこんな女弁護士史実にいないよなあ
つか資格取ったとしても、寅子目線だと「いつの間にかくっついてた」or「かつての自分と同じ社会的地位の為の契約結婚」にしか見えないはずで
この脚本ならその辺も上手くやるんだろうけど
やっぱ同性愛設定で確定じゃん
脚本家の志向(出世作もアロセクがテーマだったし)と作品の都合と、どちらもあるんだろうね
マジカルなんとかとか言うなら、優三の方がよっぽど「女に都合が良いだけの、人間性が感じられない男」だけどな
優三はhttps://news.yahoo.co.jp/articles/40c6488668d9332a9f721cded29fb2cd18ac12cf
こちらで「日曜劇場の妻の男版」と言われてるけどこの記事に同意
自分より社会的地位が下の異性と結婚することとして頻繁に増田に投下されてるけど
地位なんてひとそれぞれだよなぁ
「下方婚」という言葉はあまり一般的ではないので、聞き慣れないかもしれないね。ただし、文脈から考えると、これは社会学的な概念に近い用語かもしれない。
「下方婚」というのは、おそらく「社会的地位や経済的地位が自分より低い相手と結婚する」という意味だと思われる。通常、結婚相手の選択には自分と同等かそれ以上の社会的地位や経済状況を求める傾向があるけれど、この場合はそれに逆行しているということだね。
この概念が特に注目されるケースとしては、例えば教育水準が高い女性が自分より学歴や収入が低い男性と結婚する場合などが考えられる。社会の変化や価値観の多様化に伴い、下方婚が増えつつあるのかもしれないね。
増田でしか見ないという点については、きっとその言葉が特定のコミュニティ内で一部の人々によって使われているからかもしれないね。
女体好きの女性嫌いについて、「アニメキャラなどでは女性らしい性格の方が人気高い」という言及を見かけ、確かにそんな気がすると思った。
実在の女性との違いはなんだろうかと考えて思い至ったのは、対等な関係かどうかだ。
まず、よく嫌われている感情的でヒステリーを起こす点について、猫がキレても当然論理は通用しないし大事なものが壊されても壊されるようなところにおいてた自分が悪いと受け入れられる。
怒りの原因を無視したところで猫は逃げられないから、怒ってるところもかわいいなぁなんて呑気に疲れるのを待てばいい。
察しを求めるのも猫なら当然だし上手く察して喜んでもらえたら飼い主だって嬉しい。
察しが悪くてベタベタしすぎても引っかかれたり噛まれたりする程度で大したことはない。
あることないこと言いふらされて信用を失うことはないのだから。
結局のところ我々は怖れているのだ、対等な知能・社会的地位を持ちながらも全く理解できない価値観で行動する存在が。否が応でも関わらざるを得ず、本能的に近づきたくなるにも関わらず、見えない逆鱗に触れれば一発アウトなあなたたちのことが。
元々友人は片手で収まるほどに少ない。
その友人らから半年連絡が来ない。新年の祝いも、誕生日祝いのメッセージもなかった。20年以上の付き合いでおそらく初めてだ。
ただ、連絡を送ろうとすると怖くなってしまう。
自分がその時何かしたのかもしれない。いやもうそんなの普通にその場で「それやめて」「わかった」とかお互い言うような仲だった。
自分が結婚してないからだめなのか、自分が友人と比べて貧しいからだめなのか、太って醜いからか、社会的地位が低いからか……?と考えてしまって、もうこのままフェードアウトした方がお互いにとって幸せなんじゃないか友人関係なんてなかったと思った方がいいのではとぐるぐるしている。
最近は職場でも「あ、自分は信頼されてないな」と思う瞬間が増えてきた。
そもそも職場は派閥や陰口が横行していて、そういう政治が苦手なので逃げてきた自分が悪いのだが……。
自分以外の同期で「あれ楽しかったね〜」とか「話聞いてくれてありがと!」みたいな話を、横で何もないようにしれっとした表情で聞いている。
これまでは全然平気というか、「そりゃ信用コストを払ってないんだし返ってこなくて当然だよね」と思っていたのだが、友人関係もあって、「もしかして自分が人間としておかしいのか?狂ってるのか?」と思い始めた。
ちなみにメンタルクリニックには既にかかっている。
睡眠障害のため。
ただし睡眠に注力されてるからか人間関係については話をあまり聞いてもらえない。
エリマキトカゲやウーパールーパーのブームを経験し、小学生でファミリーコンピューター発売
中学ではゲームボーイ、スーパーファミコン、高校卒業するくらいでサターンVSプレステ戦争を目の当たりにする
社会人になるくらいで深夜アニメが流行り始めエヴァ、ハルヒの社会現象を経験し、今の乱立時代を迎える
深夜アニメと同時期に携帯電話が普及し着メロ作ったり折り畳みケータイが流行ったりPHSってのもあったりした
mixiで古い友達と再会したりGreeモバゲで新しい友達との出会いも増え人間関係の変化も体感
激動の平成を全て経験し社会的地位も家族もありながら令和に突入
今の時代、記録掘り出されてDVだとか無理やりだとか言われる時代だから、それを防ぐためにもこう言う行為の一部は異性から加害と取られる可能性があるという教育は必要だと思う。(勿論女児にも必要だけど)
男性の欲求が高まる年頃になると、大抵は女性より筋力が強い。男と女は別の身体構造を持つ生き物で、平均的に男のほうが力が強くて女の個体より身体がでかくて思春期に強い欲求衝動が起きやすい。本能のまま無知であれば少なからず無理やりできてしまう可能性はあるから男児には加害に対する教育、女児には被害に遭わないための教育になってしまう。
(子どもの時点でどのくらいの大きさに育つかは不明だし、思春期になったら親の言うことなんてまず聞かないから性差による基準での教育になる。)
男一人につき女をあてがえ!さもないと暴れるぞ!みたいな女を人間扱いしない思想の人も結構いたりするから、無知のままネットに触れて染まるのも怖いと思う。
たとえばオスが縄張りを獲得するために必死で戦う生き物ってたくさん思いつくでしょ?
雄にとって縄張りとはすなわち衣食住の確保つまり生存資源の確保であり、
これがなきゃ生殖に進めないのよ
そのうえ社会的地位が低い個体の子どもは繁殖成功率が低いからね
(※人類の頂点でなくてもいい、とりあえずお山の大将であればいいので俺はお山作る!タイプもいれば、
頂点とか目指さないで他人のオスの成果物掠め取り戦略狙うのもいる。
ぶっちゃけ、中卒ヤンキーで子だくさんパターンもいるはいるけど、
じゃあ低学歴低年収のほうが婚姻率が高いか出生率が高いかって言われたら違うのは知ってるだろう?
(男は高収入ほど婚姻率が高いし、今は高年収夫婦のほうが出生率が高い、「子どもはぜいたく品」と言われるようになったゆえん)
生物学に話を戻して、自分の子どもを次世代の繁殖競争に勝たせようって思ったら
労働者として社会で勝ち抜ける「強い」子に育てなければならないというプレッシャーが親にかかってる
大学卒どころか高卒ですら一部の選ばれしエリートだった100年前とはけた違いに子ども一人に必要なコストが跳ね上がってる
ここで散々議論されている「東京の文化資本は田舎より優れているか問題」ですが、問の立て方から既に分断が起きています。
その分断とは「文化資本」を単なる「文化」の意味で使っている人と、ピエール・ブルデューのいう「文化資本」の意味で使っている人たちの分断です。
前者はいわゆる一般的に浸透した意味での「ロリコン」や「蛙化現象」と同じように、言葉の本来の意味を調べずに、なんとなく雰囲気で喋っているタイプの人たちです。
ブルデューのいう文化資本は、①家庭における②学歴や社会的地位や経済資本の再生産に結びつきやすいものを指すので、東京田舎うんぬんの話は文化資本とは関係ありません。
前者のような人たちに正しい言葉の意味を教えるのはほぼ不可能なので、後者のみなさんは諦めましょう。彼らは文化資本に恵まれなかったのです。
実家が太いとか、親ガチャとか、何かと自分の能力以外のどうしようもない要因のせいにして、自分から挑戦し続けることを諦めることこそが最大の不幸なのに、世の中は環境が全て的な諦め言説ばかりなのがクソよね
そうなんだ
それって要するに資産や社会的地位、権力の再生産につなげられなかったケースの事でしょ?
勿論そういうものの価値を否定はしないし、むしろ文化の目的ってそういうものの方だと言いたい気持ちもある(資産等の再生産の方が邪道)けど
この増田本人では無いので尻馬に乗る感じで申し訳ないけど、ブコメとか見てると未だに理解があやしい人が多い気がする
まず元増田の内容を自分なりにまとめると、「文化資本」に該当するかどうかを計る条件として
の2つの条件が少なくともあり、はてなで言われている「文化資本」の多くはこれに該当しない(そのため、はてなの人達は「文化資本」の意味を理解せずに使っている疑いがある)
特に②についてはそもそも資本とは自己増殖するもので、文化「資本」というからには再生産の要素を含まないと変というのはその通りなんじゃないかなと思う
でその上で、なんだけど
いや美術館が無ければ美術館に行く文化も作れないので「文化を享受できる環境・子に文化を享受させる親の文化」は文化資本なんだが。みんな美術館(物理的な資本)の話じゃなくて美術館に行ける東京の話してるだろ。
例えばこの反応って、①の説明にはなってるけど、②の説明にはなって無くない?何が再生産されているの?
個人的には、文化「資本」を名乗るうえで②の方が重要な気がするので、そっちが片手落ちになっては意味が無いんじゃない?と思ってしまう
上は一例だけど、元増田への反論で②の再生産の部分まで言及できている人が少ないように見える
で、更に、そもそも「東京は文化資本が豊富」と言っている人は、どういう再生産を想定しているんだろう?
ただの資本の場合、単純に金持ちは投資等で更に資本を再生産できる、というよくある話で、これは分かりやすい
対して文化資本は、例えば親が教育の重要性をきちんと理解し、そのおかげで子は十分な教育を経て資産や社会的地位、権力を得られるようになり、それらが再生産される、といったシナリオになる
ただ、「東京は文化資本が豊富」と言ったり、その例が美術館(へのアクセス)だったりする場合、具体的にどういう継承から資産や社会的地位、権力の再生産に結び付く話をしているんだ?
例えば、近くに美術館があってよく通った場合、しかしそれが自身の給料や社会的地位や権力に特に結び付かない事はよくあるし、その場合②を満たさないので「文化資本」とは呼べないよね?
例えば美術に精通する事で上流階級の人とコネが生まれて立身出世の役に立つ、とかだと「文化資本」と呼べると思うけど、現代日本でそういう機会がそもそもある人は(東京内に限っても)何%だろう?
当然、その%が低ければ東京全体でならした時の美術館の「文化資本」寄与率は低くなって、他の寄与から比べると誤差以下になってしまう
という感じで多くの場合②を満たせない割合の多いと思うんだけど、どうだろうか?
具体的にどういう継承・再生産のシナリオで考えているんだろうか?
また、再生産という観点で見た時、そもそも「東京」で括る意味って何?とも思う
例えば「金持ちは文化資本が豊富」ではダメなんだろうか?こちらなら上流階級の振る舞いや教育の重要性の理解等々、再生産に関わる文化資本が豊富なのは頷ける
これに比べて「東京」だと、金持ちでない人も居るし、そういう人が美術館に通っても再生産に繋がらない事が多い
というのも、そもそも機会やノウハウなど、「美術」という文化的素養を資産や社会的地位、権力の再生産につなげるための回路こそ、資産家の親から子へ継承される貴重なものであり、ある意味それこそが「文化資本」だからだ
よって、「東京」という雑多なフレーミングは文化資本を持たないノイズの人達(言い方は悪いけど・・・)を多く含み本質的ではないのに対し、
「金持ち」というフレーミングは再生産に結び付く「文化資本」と本質的につながっているので、より適切なんじゃない?と思えるし、その上で「東京」で括る意味is何?と思えてしまう
「東京は金持ちが多いから、結局文化資本とも相関がある」という人も居るかも知れないけど、それってわざわざ要らない項を噛まして、分かりにくい疑似相関を作ってるだけじゃね?
地方でも金持ちなら教育もするだろうし振る舞いも継承したりコネも引き継いだりするだろうという事で、文化資本と言えるものが多そうだし
結局、文化的ななにかを資産や社会的地位、権力の再生産へとつなげられるかどうかって、住んでる場所より資産や社会的地位、権力に依存するんじゃないかなー、と思うし、それによる寄与と比べると「東京」要因の寄与って誤差に呑まれそうじゃね?と思う
もう一つ大きな、そして根本的な疑問として、元増田の言うように「文化資本」というものが資産や社会的地位、権力の再生産、つまりは格差の再生産を前提とするものだとして、
それが「東京に豊富だ」と言われる事は、その人達にとって嬉しいのか?というのがある
美術なり音楽なりの素養が格差の再生産となるという事は、それなりに差別的な論理が社会のなかに残存しているという事だけど、
そのおかげで得をしている格差の再生産の加担者or受益者と指さされているようなものなので、それ嬉しいか?胸張るような事なのか?と思う
なので、軽々しく「東京は文化資本が豊富」という人は、「文化資本」が前提とする資産や社会的地位、権力の再生産についてよく分かっておらず、つまり「文化資本」の意味をよく分からずに使っているのでは?と思えてくる
ある意味「東京には文化資本による格差の再生産を肯定or容認するような差別的な風潮が残存している」という事でもあるので、本当に意味を理解して使ってる?と疑問
なぜわざわざ「資本」って言葉が使われてるかといえば文化教養のような形のない物も貨幣や財のような富と同じく
社会的地位や経済的利益を生む元手となることに注目してるからで「社会的地位や経済的利益の再生産に寄与する」ことが一番重要なポイントなんだよ
美術館や博物館なんて「庶民にも文化の片鱗に触れさせてやろう」って施設でとてもじゃないが資本なんて言えるもんじゃないんだよな
阪神の岡田監督が「親が有力なタニマチだったから子供のころから阪神の選手が家に来て野球教えてくれた」とかそういうのが文化資本だよね
いや、おれも知らん。
文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。
wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC)
フランスの社会学者ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間の知識技能を資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念を文化領域に拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育や文化の面において財が相続・生産・蓄積・投資される過程を説明する。文化資本は言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態,書物・絵画などの文化財所有による客体化された様態,学歴・資格によって制度化された様態からなり,それらを教育や就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生産戦略を可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的な能力証明へと変換され,社会的な地位や権力の再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。
コトバンク(https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212)
小難しいがようするに、
という前提があって、
・金だけでなく、文化的素養や学歴、スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!
ということなんだな。
で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの=資本)を文化資本というらしい。
てことは、美術館それ自体は文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)
おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか。
「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。
美術館そのものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。
しかも資産や社会的地位の再生産に結びついていることが前提なのであって
庶民が「お、、おれはモネの展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優の舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。
「親父が社長やってたんで、起業は自分にとって自然な選択肢でしたね」ってやつだよ。
あれこそ文化資本だよな。
・・・と、こうやって知らない言葉の意味の確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。
地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。
・適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかいい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ
・文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格を保有していて、知的水準の高いフィードバックが日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな
・「文化資本の定義を都市や地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本て社会階層の再生産を説明するロジックで生まれた言葉らしいから、「都民=殿上人、地方民=下層民!」的な東京の選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?
・つーか、東京のなかでも当然ながら格差や階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本の恩恵を享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ
・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味で文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京で就職したとか、職場が東京だからそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?
・いくつかブコメ読んで、格差を批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市の文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて
1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態の文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥスを形成しやすい環境が東京の文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京は社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか?
2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本=経済的な格差・階層の再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京を経済的・社会的に特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京の文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?
3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤの商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定の価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?