はてなキーワード: ティーンとは
ジャンプ+のケントゥリア、期待して読んでいたものの4話まで来てかなり酷いなと感じた。
作者の力量にすら疑問符が付く内容だった。
働き口を探す気になり近くの村を紹介してもらう。
ところが村のリーダーから「お前には信用が無い」「足手まといは村全体の負担になる」と言われて
テスト内容は「崩落した穴の土石を一人で運び出してみろ」というもの。
夜中には仕事を完了して見守っていた村人達も感嘆、労働者として認められる。
…これもうすべてがおかしいでしょ?
どこの世界でも第一次産業では子供に手伝わせるし何ならその為に子供を作る。
「とりあえず小石運びとか雑用からやらせてみて勤まらなければ帰す」でいいわけで
わざわざテストなんか課す理由はどこにもない。テストだってコストがかかる。
現代で試用期間だの面接だのがあるのは労働者の権利が守られてるからであって
奴隷上等のこの世界なら一日働かせて「「この役立たず!給金なんかねーぞ帰れ!」でいいから
・ダメな奴にやらせられる仕事がないどころか触らせたことで台無しになる可能性がある
みたいなことはあるんだけど、作者はその現代日本の感覚のまま話を考えている。
自分の作った世界の諸条件に合わせて人物の行動を考えるということが出来てない。
ユリアン少年は村のそばで半年間生活していて、同居して面倒見てくれてたのは先述の兵士。
今回の話もその兵士が村に働き口の世話を依頼している。
兵士と村人との関係も詳細は不明だが、こういう話をするぐらいの関係ではある。
その兵士が身元を保証する少年を労働に使ってやってくれって言ってるのにこの対応、
「村人が兵士に相当険悪な反発心を抱いている」みたいな設定があるならいいけどたぶんないでしょ?
「有難いお申し出ですけどこの子はちょっとまだ小さいようで…」と兵士に談判するか、
兵士の顔を立てるために誰でも出来る雑用を与えるかとなるはず。
人間関係や社会的な行動についての想像力が相当低い(たぶん実体験が乏しい)。
暇すぎるだろ。
なんでよそ者の子供一人のテストに村人があんなに集まってるの?今日はまつりか?
一個目の時も背景にどう見ても数十人単位でいる。
半分まで行った時にもまだ同じ密度でいる。
ユリアンが石を運び終わった夜中にも同じ感じで村人が沢山いる。
新入り労働者のクオリティに「村の足を引っ張るんじゃないか?」ときついテストしてくるほど生産性に厳しい村の人間が
何十人も朝から晩までくだらない石運びテストを興味深く見守っている。
そんなに暇なのもおかしいし、そんなものに関心が続くのもおかしい。
これ本当に何も考えずに絵を描いてないだろうか。
主人公ユリアンにとってこの石運びが死んだ仲間やディアナ母への決意表明だったとしても
そんなことは他人には関係ないし伝わってもいないのだから、外から見ればただの石運びなので
ただただ退屈な石運びを見つめ続けられるわけもないし心を打たれるわけもない。
村人の視野とか村人の都合とか村人の思考とかを想像する能力が無く
ユリアン君が頑張ると村人がずっと一緒に見つめ続けて感動するという有り得ない展開になってる。
これは精神的発達段階としてはかなり未成熟段階の認知だと思う。
絵が素晴らしく巧みなのでギャップがあるが、描かれてるものだけ見ると相当稚拙なんではないだろうか。
全然裏切らずに命を捧げてくる奴隷仲間の時からなんか変な感じが漂っていた
(が、善良ベースな世界を描いているのかなと保留されていた)部分が
もちろん、裏切り者が出てくれば成熟した精神世界だとか言ってるのではない。
そうではなくて各キャラに独立した都合や思考が想定されているか、その上でユリアンに命を託してくれているのか、
と言う話をしている。
つまりただただた絵と内容が合ってない。
上手い絵で粗い内容を読まされると人間心理としては段々不快感やイライラがたまってくるので
このままなら『ケントゥリア』はそのうちアンチ的な感想が増えて叩かれるようになると予想する。
今はまだ『ケントゥリア』が期待され持ち上げられている段階なので
怪獣8号も2話3話で「これは期待外れかも」「普通の漫画になってしまった」と書いたら
作者は絵に対して真面目で打ち込むタイプに見える。
描かなくていい村人を描いちゃうぐらいには絵に賭けてる。
もしかすると実は内容が薄い自覚があって絵だけでもと思ってるのかもしれない、
けれども作家としての成長を考えるなら&『ケントゥリア』の成功を考えるなら
というアプローチが良い気がする。
粗い内容は粗い絵の方がいい。
そんな仕事関係もあってか、私が友人の方に行くことも、都内に住んでいる友人に会うこともここ数年は憚られた。
けれどコロナが第5類になって、医療現場もルーティーンが確立し、かなり余裕ができたため、友人と会うことに。
コロナ禍に入る前のアラサーと呼ばれた頃、互いに恋人はいないし自分のことで忙しいしで、一生独身かもと笑い合った。
久々に会うから、何か変わったかと聞いたら、結婚したから名字が変わったと言われた。
は?
けっこん??
頭の中では?が四方八方に散らばり、私の意識は宇宙のかなたまで放り出されそうだった。
実際は独身仲間が一人減り、孤独のかなたへ放り出されたのだけど。
彼氏いたの?
→友達以上恋人未満な人がいた
付き合ってたの?
→付き合ってないよ
いつ結婚したの?
→3年ぐらい前
えっ、な、なんで……
→その人が海外勤務で、何かあっても家族じゃなければ生死がわからない
マジか……以外の感想が出てこなかった。
知らんかった……。
向こうは私が医療従事者で、コロナ禍でてんてこまいだから、今伝えるのもなんか違うと思ったらしい。
言ってくれ。
その時言ってくれた方が、傷は浅かった。
来年アラフォーと言うこの時期に言われた方が、傷が深いんだぞ……。
とりあえずおめでとう。
は?一緒に住んでない?
家は別?
なんで????
昨日から、NewJeansのプロデューサーであるミン・ヒジンと、元締めであるHYBEがこれでもかと揉めている。詳細は適当に調べてくれればいい。
そのとばっちりで改めて「NewJeansおじさん」がきもがられているわけだが、というのも、このニュースに注目して物知り顔で物申しているのがもれなくこの層だからだ。そもそも、ミン・ヒジンという裏方にやたら関心があるのもNewJeansおじさんたちの特徴であって、「にゅじたちが心配😭」とかつぶやいているようなティーンたちは、ミン・ヒジンが誰なのかもろくにわかっちゃいないだろう。
念のため、きもがられているNewJeansおじさんが中年男性である必要はない。ある特定の性質を持った人は誰であれ「NewJeansおじさん」なのであり、非おじさんにきもがられる立場にある。
この性質がなんなのかといろいろ考えてみたのだが、一言で言ってしまえば、「NewJeansを作品として鑑賞しようとしている」ということになるのかもしれない。NewJeansおじさんたちはもれなく鑑賞者であり、非おじさんたちはそうではない。
要は、おじさんたちはよくできた作品を求めているのであり、その価値を堪能したいのであり、それをもたらした作者や文脈について知りたいのだ。なんなら言葉を尽くして批評したい。
残念ながら、ティーンたちからすればおじさんたちのこのようなふるまいはかなりきもい。非おじさんたちからすれば、肝心なのはまずもってメンバーたちであり、そのかわいさであり、人生である。推しの幸せが一番なのであって、彼女たちをひとつの作品の一部としてモノ化する視線をそもそも持っていないのだ。
ここには、決してわかり合えないふたつの態度がある。おじさんたちはNewJeansメンバーたちのVlogなんて見ないし、非おじさんたちはミン・ヒジンのインタビューなんて読まない。
いま、NewJeansはミン・ヒジンを追ってHYBEを去るか、ミン・ヒジンと手を切ってHYBEに残るかという選択を実質的に迫られている。言うまでもなく、おじさんたちがより望んでいるのは前者であるが、おそらくティーンたちにとってより好ましい帰結をもたらすのは後者だ。ミン・ヒジンの世界観、おじさんたちを引き寄せていたあの芸術性を失うことは、芸術作品としてのNewJeansの終わりを意味するが、「推す」側はそもそも芸術性なんて気にしていない。非おじさんたちはなんであれ愛を注ぐのだから、GODSみたいなクソしょうもない曲を連発して人気が停滞したところで、愛がより加速するだけだ。
おじさんばかりがきもがられるのであえて言うが、対象のクオリティを度外視してひたすら「推す」というのは、それはそれで無責任だし傲慢なふるまいだ。
「かわいい」「頑張ってる」ぐらいしか評価軸を持たないファンたちは、今回の件がこじれてNewJeansがいよいよ落ち目になったとしても推し続けるのだろうが、それにだって限度がある。そのうちどうせ、ILLITなんかに乗り換えるのだろう。
そして本当にひどいことに、HYBEに代表される大手企業は、このような乗り換えを推奨するかのごとく次から次へと新人グループを量産しては既存のグループを切り捨てていっている。良い作品を良い作品としてじっくり長く嗜む、という鑑賞的態度が廃れているばかりか、「推し」に対立する態度としてけなされている現状が、このようなビジネスモデルを助長していることは言うまでもない。
いくらかわいくて頑張っていても、作品として劣っていては意味がないだろうと、そう思う私はNewJeansおじさんである。多少なりともそう思うのであれば、あなたも多少はNewJeansおじさんである。
この手のクッキーって、旅行先の土産物屋でよくある「北海道に行ってきました」プリントのクッキーと同じだろ。
センス無い(六花亭やもりもとのお菓子に比べて、もらってもあまり嬉しくない)のはともかく、ツイッターに写真上げてまでたたくことかよ。
無視して食わなけりゃいいだけだろ。
というか、この手の「もらったものに公の場で文句を言う」って、男ではほとんど見られず、ネットで見るのは女ばかりが言ってて、
かつての「デートでサイゼリア」「プレゼントのジュエリーが4℃」もそうで、男だと「おごって貰えた、プレゼント送ってくれただけで嬉しい」となるところなんだよね。
いかに女が「貰えるのが当たり前」な恵まれた立場で甘やかされて感覚がマヒしてるかの証左だと思うんだよね。
というかこの手の
「一部少数の感受性豊かな(変な)女性達が、個人的なお気持ちである自分の不快感という感情の原因物を身の回り(=社会)から排除するために、「女性への配慮が足りない」「〇〇のことを考えろ」という心にもない建前を持ち出して無理やり社会全体の問題として火付け炎上させようとして、その無茶な理屈建てを批判される」
というパティーン、スープストックや産休クッキーよりもずっと前から、男性向け創作物(表現)では何度も繰り返されてきてるよね。
「そうだそうだ、この表現は問題だ!この表現を肯定するのはアンフェ、女性差別、キモいオタクだ!」
て火付けの肯定(レッテル張り)ブコメが多数ついてスター集めて上位ブコメになってたよね。
私はもーさ
飲みに誘わないでって思うんだけど、
って思うと一気にペースが乱されてしまいまくりまくりすてぃーなのよ。
帰ってもうばたんきゅーで即寝だわ。
一応最低限化粧とかは落とすけど、
モーそれさえも止めてすぐ寝ちゃいたいぐらいな夜!
くー、
このくーって感じが川平慈英さん的にいいながら目頭を押さえたい気分なのよ。
なにもこの生産性のない
いや生産性ばかりが全てとは言わないけれど、
そんな鬱憤をハイドラントの火力に任せながら私はログインボーナスをもらうべく、
忙しい夜の時間を日々こなしているのに、
ペース乱されちゃうわ。
まあそう思ったわ。
幸い飲み過ぎなかったのが幸いかしらね不幸とは思ってないけれど。
ため息はつかないようにはしたいけれど、
いやつかないわ!
夏に向けてこれを今貯めたらいつ貯まんの?って思うのよ。
今からこれで負けていたら落ち込んでいたらと思うと先が思いやられまくりまくりすてぃーよ。
忙しくなるに向けて
もう他のスピナーが物足りないぐらいな身体になってしまったわ。
他のスピナーもいいけど、
飛距離が弱い
射出時間が短い
火力が無い
例えそれが
カニタンクでもウルトラハンコでも立ち向かっていける唯一のブキ!
チャージ完了してグルグル鳴っているハイドラントを持った私の前には立たない方が身のためよ。
もう今シーズン中に
その意気揚々とした感じはとにかく自信の表れよ。
とにかく凄い自信なの!
うふふ。
負けてらんないわ!
昨晩遅くなる飲もう分かっていたから
鮭おにぎり!
力みなぎる鮭おにぎりよ!
今日もこれ食ってやるっきゃないとよ。
はー頑張るわ。
炭酸のシャキッとした感じでシュワッとした感じが炭酸っ!って感じよ。
元気よく行きたいわね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
なんかアニメの内容の雰囲気をアーティストが独自解釈してOPEDソングにしたみたいなやつが「深い。」とかなってる問題についてなんだけど
そういうのは全然いいんだけどやっぱそんな中にも2パティーンあるというか個人的な受け取り方が2パルパティーンあるというかまあどっちでも同じことなんだけど
自分がそれらにひとつ求めるとしたらそれは「アニメの方を向いたもの」じゃなくて「アニメと同じ方向を向いたもの」であってほしいということなんよな
アニメの内容や世界観を語るんじゃなくてアニメが伝えたがっているものを一緒に伝えてきてほしいのよ
だからイチイチ歌詞になんかアニメの内容と符号するような用語をこれ見よがしにちりばめたりせんでもいいというか、
究極いえばアニメと方向が合ってればべつに書き下ろさなくても既存曲であってもいいわけよ
これはなんというか公式アニメグッズにアニメのロゴとかキャラクターがデデーンて書いてるよりアニメに登場したそのままのモノをグッズとして出してほしい派の気持ちと似ているかもしれない
まあどっちも作品愛があるとは思うんだけどこの作品好きですマジLOVE!っていう愛とこの作品と同じ気持ちですLOVE!っていう愛はやっぱ別モノなんだよな。
・
・
・
3つどころか1つも思い浮かばない
(追記)
アンケート増田禁止条約につきましてはモノローグの体をとっておりご指摘はあたらないものと考えております
フランス国歌のラ・マルセイエーズとか。スペイン国歌の国王行進曲って言いたくなったけど歌詞がないインスト曲を挙げるのは違うもんね。
ラ・マルセイエーズってマルセイユの歌って意味だっけ?マルセイユ自体がギリシア語マッサリア由来だとはわかってるけどその語源はわからないらしいな。さらに謎。
マルセイユといえばたぶん関係ないけどマルセイバターサンドも「六花亭」という店名があるのに「マルセイ」のほうが妙に存在感があってなんの意味なのか謎なことが有名だよな(ほんとに関係なかった)
おお、宇多田ヒカルの人間活動宣言後の路線展開とあわせてこの傾向強まった感あるよな(評論家気取り風コメント)
出てこない……わけじゃないんだけど、「出てこない」ことをネタにしたのが「マシマロ」 https://www.uta-net.com/song/12249/
本文と関係ナイッってあったな。このエントリで言えば本文と関係ないマルセイバターサンドみたいな感じだな
「黒毛和牛上塩タン焼680円」MVで焼き肉してるから肉って印象はあるけど、歌詞だけ聞いたら肉を食べてるかすらわからない。わりと長めなタイトルだけど1文字も出てこない
歌詞登場しない系にも2パティーンあるというかワイの受け取りが2パルパティーンあると思うんだけど「まあさすがに登場せんやろな……」みたいなのと「えっコレ登場してなかったけ!?」みたいなんがあるな。
黒毛和牛上塩タン焼680円はさすがに登場せんやろ系、チェリーとかはえっコレ系。
勝手にシンドバッドがまず浮かんだ。栞のテーマ、TSUNAMIもか/歌詞が特徴的なミュージシャンだと割と頻繁にある気がするけども。くるりとかキリンジとか、スピッツとか/元を辿ればはっぴいえんどかも。
大谷選手のスキャンダルだが、日本では報道されすぎて大谷アレルギーを発症している人も多いらしいと聞いた。
しかしカルフォルニアに留学している俺から見ると、多分こちらでは日本以上に報道されまくっている。
注目すべきなのは、普段野球なんて報道しない類のメディアも連日取り上げていることだ。野球のルールすら知らないが、今回の「オオタニ・ゲート」は知っているという現地人も多い。
というのも、そもそも大谷の主張を信じている友人を俺は見たことがない。あまりにも怪しすぎて報道するだけでもウケるスキャンダルと化してしまった。
ということで、この記事では現地の雰囲気と主に注目されている話題を書く。
今回の事件は、FBIが違法賭博業者を捜査している一環で、大谷の口座からの直接送金があったことに行き着いたという流れになっている。
そういうことなので、FBIの主目標は違法賭博業者の摘発であって、大規模盗難事件ではない。
そこで大谷は「捜査機関に被害をReportした」と主張しているわけだが、ここがツッコミどころの一つ。
そもそも現時点で、州警察もFBIも、どこも盗難事件を捜査していない。
そもそも「被害を提出した」というのはかなりおかしな話で、大谷はどこの捜査機関に提出したのかの回答を拒否し、提出の証拠すら拒否しているため、もはや大谷が被害者であるということは「本人の主張」としか思われていない。
弁護士が介入している時点で、もはや誰も事実を聞けるとは思っていない。どれだけ利益を最大化するかという話だからだ。
その意味で、「ストーリーの一貫性」というのはかなり重要視される。
今回の事件では、水原の信用できない話を抜けば、大谷側が主張があまりにも変化しすぎというのがツッコミどころ。
例えば会見で球団長が「大谷が肩代わりした」と言ったと思えば、次には「盗まれた」と言っている。
ストーリーの一貫性、論理性が保ていないのに、それを大真面目に主張しているのだから、もう誰もが嘘をついているという前提に立って、「裏」を好き勝手に推測できる状況になっている。
俺として大いに疑問なのは、この件には危機管理の専門家や弁護士が最初からついていたはずなのに、どうしてここまで酷いことになったんだろうか?ということだ。
俺が現地のメディアを見ていてよく目にするのが、この「30歳の責任ある大人理論」だ。
論調的には
「〜という理由で、オオタニは自らが大規模盗難事件の被害者であると称している。
……しかし今年30歳にもなる社会的責任を持つ大人が、大金の管理をお友達にしてもらい、諸々の書類を一切目にせず、数日前まで完全なる無知であったとは、一体どういうことなのだろうか……?」
という感じになる。
これは実に面白い論調で、メディアは文脈からして小馬鹿にしている雰囲気が感じ取れる。
そもそも通訳に生活のほとんどを頼っていて、ティーンのようにお金の管理までしてもらっているとすれば、それはあまりにも面白すぎる話になる。
金があるなら会計士や税理士を雇って、自らの金銭を適切に管理する「社会的責任」を持つというのが当たり前の価値観として存在する(そうじゃないと、今回のように反社会的な組織に金が流れても責任を待たないということになる)。
CNNがライブ中継するほどで、一体どんな面白いストーリーが出てくるのかに注目が集まっていた。
見出しには「大谷、ショックを受ける」「大谷、悲しむ」と書かれ、これ自体が雰囲気として、ちょっと理解できない謎の会見と思われた。
筋道の通ったストーリーを弁護団と練って発表するのかと思えば、「つらかった」「かなしかった」というティーンでもリジェクトされそうな発表が飛び出し、一体これにはなんの意図があるのかと議論されるぐらい謎であった。
しかし日本のメディアを見ていると、この大谷の会見で「信じる」日本人は多くなったらしい。俺は日本人なので、ある程度は理解できる。つまりは日本では信仰の問題になったということなのだろう。それでいいのかはわからないが。
しかし知りたいのは大谷の悲しみではなく、「違法賭博業者への送金履歴」という事実に関して、どのような論理的なストーリーを提供するかということなのだ。
家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策や趣味のレベルなのか、微妙に分からんレベルの規模のやつが。
繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中からは田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎者からは全然文明のある方だろと言われそうな東京西部の郊外だ。
道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。
それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。
そんな光景も中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。
今やその手の地域のヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供の記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。
お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きから嫌いかはともかく。
中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。
逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。
夢なんて大体理不尽で不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコでしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。
夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地や電波塔、送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。
住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活に勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特に静まり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。
そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。
大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい。
それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原でトランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるかも分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽はマジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。
大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色もマイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。
畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。
施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。
カーテンも張られていないガラス戸からは工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想止まりだけれど。
つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。
件の公園も日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所が地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。
それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。
平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。
おれは地域のヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。