はてなキーワード: 妙味とは
意味不明。きっとなにか重要なことが語らえてないだろうけども、暗号技術の意味がなくなるステップがまるで見えないので意味不明。
> SNSはなりすましで溢れ、人類はオフラインのコミュニティ移行する
認証技術としての基盤である暗号技術が無いならそうかも。でも私には暗号技術がなくなるとは思え無いので、これも無いという結論になる。
> 今でも、インプレゾンビが湧いているが、あれが人間かどうか見分けが付かなくなる
迷惑アカウントが人間だろうがAIだろうがどうっちでも良くないですか?どっちでも迷惑なことに変わりないうんこにたかるハエです。
> 優しい人や知人を装って、詐欺に誘導するアカウントが増えると思う
> 3.デジタルな娯楽を作る人が居なくなる
それはないと思う。大量工業製品で溢れてる現代において陶芸や裁縫は結構な趣味として確立している。AIが無限にデータを作れることと人間が作らなくなることはイコールじゃない。
> ボタン一個押すだけで、ハリウッド映画を無限に作れるようになるのに、わざわざ金使って映画撮る人おる?
いないと思う。想像の通り少なくなるでしょう。
> 他の分野もそうなるし、既に音楽やイラストは手を引いてる人が出てそう
お金が稼げなくなると言う意味ならそうです。表現を辞めるかどうかは別の話。
人々は、音楽やイラストも、スケボーとかダイビングみたいな自己表現、趣味の一つであることを思い出すだけです。
> AIを作っている会社がボロ儲け、AIを使う人が適度に儲け、使えない人は貧乏生活
> これは今の株価を見てもそうなると思う
そうだと思います。AIを動かす電気を作る人なんかはもっと儲かると思います。エネルギーセクターも結構妙味があるかもしれません。(思いつき)
> ゲームのオンライン対戦なんかも機能しなくなるし、インターネット普及前の生活まで戻ると思う
対戦相手が人間かAIかわからないと言う意味ではそう。でもAIは十分人間と見分けがつかないレベルであれば、今までのオンライン大戦と何も変わりません。
なのでインターネット普及前までの生活に戻る。というのが意味不明で何を言っているのかわからない。同意できない。
なんか、もっとボロカスに書こうと思ったけどところどころ、同じ考えだった。
興味を持ってくれてありがとう。
私が考える「つまる人生」すなわち面白い人生とは、一言で言えば内発的な動機と偶然性に彩られたものです。
内発的な動機とは何か。
人はそれぞれ違った関心や性質を持っています。度肝を抜かれるほどの変人や天才はほんの一握りだけれど、それでも誰もがそれなりにはユニークです。
大勢の人と社交するのが楽しい人がいれば、独りで黙々とこなすのが好きな人もいる。競争や勝負に燃える人がいれば、それらに興味のない人もいる。絵を描かずにはいられない人、気がつけば星空を見上げている人、なぜか魚類に深く心を寄せる人。
そのような、その人だからこそ持っているものを突き詰めたり、大いに発露している様をとても興味深く感じるのです。
たとえそのような生き方が、世間的に評価されず、まったく金銭的な価値を生み出さず、場合によっては呆れられたり白い眼で見られるものであったとしても。
なぜ登るのかという問いに「そこに山があるから」(正確には「そこにエベレストがあるから」であるようですが)と答えた登山家の話はあまりに有名ですが、内発的動機というのはまさにこれです。
私は登山どころかアウトドアに全く親しみがありませんが、彼が見事に言い表しているように「ただ、そうしたいからそうする」という生き方に心を打たれるのです。
もう一つ、偶然性とは何か。
人がそれぞれ違っているように、一人の人生の中で起こる出来事も様々です。何が起こるかを予測することはできません。
この時代に日本に生を享けたという出生の偶然性に始まり、実に様々な偶然性に晒されながら人生は進行していきます。そういう偶然性の一片に、人生全体を方向付けるものがあったりするものです。
重い病気に罹った自分や家族を治療してくれた人への感謝と畏敬の念から、医療の道を志すとか。ある芸術作品に衝撃を受けて、創作や研究活動にのめり込むとか。
もし、それに出遭っていなければそうはならなかったかもしれない、でもなぜかその出来事が起こって現にこうなっているという面白さ。似たような経験した人は他にもいるはずなのに、その人にとってはそれが決定的に働いて今があるという不思議さ。
偶然性そのものは何でも良いのですが、偶々起った出来事とか人や物との出会いによって人生が動かれていくというのが、また人生の妙味だと思うのです。
こうやって考えていくと、内発的動機も偶然性の一つと言って良いのかもしれません。
(なぜか分からないけれど、それをしたい。そういう性質に生まれた、あるいはそういう経験をしたという偶然性。)
「激レアさんを連れてきた。」という番組がありますが、そこに登場する人にはそのような面白さを感じることが多いです。(たまたま何度か見たことがある程度で、特に熱心に見ているわけではないですが)
そんなにレアではなく、経歴や属性だけ聞くと凡庸に思えても、内発的な動機に突き動かされて、そして不思議な縁に引っ張られて生きていれば、それはとても面白いものです。
なので、元増田の人生もつまらないものでは全くなく、とても面白いのかもしれません。普通の家庭を持ったサラリーマンとしての側面しか記述されていませんが、その仕事は(なんらかのきっかけで深い関心を寄せて)人生を捧げるようなライフワークとして取り組んでいるかもしれないし、あるいは賃労働とは別の社会貢献活動に情熱を注いだり、何らかの創作に精力を傾けているのかもしれません。
ただ、大多数のレールとしてある学歴を重ね、就職するものだからという常識で就職して、結婚した方がいいという観念で結婚して、子どもを産み育てるべきだという規範でそうする・・・そういう既定路線・予定調和的なものを逸脱するものを見出したいという思いがあります。
常識を逸脱するもの・普通を横溢するものを、(程度の差こそあれ本当は誰しも持っている・出遭っているはずなのに)無いことにした生き方を「つまらない」と思うのです。
そういうわけで、私は、ライフプランとか人生設計とかいう考え方が嫌いです。
何歳ごろに結婚して、何歳までに子供を何人産んで、それから家を建てて、教育費がこのくらいで、老後の生活費がこのくらいかかるから、貯金がこのくらい必要で・・・とか、そういうやつです。
(「一流のプレイヤーになる」とか「自分の店を持つ」とかの目標を持つことは良いと思いますが(持たなくても良いと思いますが)、それは志とか野心とか呼ぶべきもので所謂ライフプランとは別です)
中等教育くらいまではこの社会を生きていく前提としてレールの上を歩くということで良い(そうでなくても良い)と思いますが、そこから先は偶然性の織りなす世界で自分の心の赴くように生きるものだと思っています。
人生で何が起こるのかなど分からないし(極端に言えば明日死ぬかもしれない)、自分の考え方だって変わります。貯金とか保険とかある程度の備えは必要と思います(生き方によってはそれすら無くても良いけど)が、結局その場その時で決めていくしかないし、その方がきっと面白いはずです。
プランなど立てるのは偶然性を塗りつぶす所業であって、人生の醍醐味を毀損するものとしか思えないのです。
最後に「つまる」人生ということで、私が大好きな映画を紹介しておきます。
デヴィッド・フィンチャー監督の『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画です。
もちろんフィクションなのであまりにドラマチックなのですが、この作品には人が生きるということの面白さ(内発的動機と偶然性)が詰まっていると思うのです。
この映画の中で何度か主人公が口にするセリフ(それがこの作品のテーマでもあります)が、「人生、何が起こるかわからない(You never know what’s coming for you.)」です。
未見でしたらぜひご覧ください。
ある日、バーで男がハイボールを注文した。バーテンダーは彼に「ウイスキーはどうですか?」と聞いたが、男は「いや、ハイボールがいいです」と答えた。
その男はハイボールを飲み始めたが、ふと「ハイボールとウイスキーってどう違うんだ?」と疑問に思った。バーテンダーは彼に「どうですか、ウイスキーの方が良かったでしょう?」と笑いながら尋ねた。
男は呆れたように答えた。「ハイボールを飲んでいると思っていたのに、ウイスキーを飲んでいたとは!これは、まさにウイスキーの妙味ですね」と言ったが、その会話の後でさえ、違いのわからない男であった。
バーテンダーは男の言葉に苦笑いした。この男の馬鹿さ加減は並ではないと直感した。そして、彼はそれを見るのが面白かった。
「人生もそうだよね。思っていることと現実が違うことって、よくあることだよね」と、男はつぶやいた。そして、彼は再びウイスキーを注文し、笑いながら飲み干した。もちろん、男にとってはもはやアルコールさえ入っていればどちらでも良かった。
バーテンダーは男の態度に興味深く、いやらしい目で見つめていた。彼は男に言った。「でも、それって結局どうなの?」
男は深く考えてから答えた。「それは、私たちが自分自身や人生について持っている予想や思い込みが、現実と違っている可能性があるということを示していると思うんです。だから、自分の考え方を常に柔軟にし、開かれた心で物事を受け止めることが大切なんですよ。」
バーテンダーは男の言葉にうなずいた。「確かに、それはとても大切なことだね。わからないことはわからないと言うことも人生肝心だよね」
男は笑いながら、彼が自分の人生で遭遇する可能性のある誤解や予想外の状況に対処するために、柔軟で創造的な方法で物事に取り組むことを決意した。そして、彼は再びハイボールを注文して、バーテンダーとともに楽しい夜を過ごした。
「ところで、真実について聞き覚えは?」バーテンダーは唐突に言った。真実?何のことだと男は思った。「君が飲んだものにはね、僕のザーメンが入っていたんです。妊娠してくださいね。」
ハイボールとウイスキーは、男が自分自身や人生について学んだ大切な教訓を象徴している。それは、思っていることと現実が違うことがあるということを理解し、真実は知ってはいけないということである
日銀がマイナス金利政策を2016年に導入して以降、短期金利は0%を下回って推移している。海外の中央銀行が利上げ方向へ転換する中、日本のマイナス金利政策は為替スワップ市場で円を担保に外国通貨を調達する際にプレミアム(上乗せ金利)を発生させ、円資金に対するある種の税金のようになっている。
円と外貨を使ったベーシス取引は海外投資家にとって実利を得る格好の場だ。ベーシス取引における円の置き場としての需要もあって、日本の短期国債の64%は海外勢が保有している。
日銀がマイナス金利政策を解除すると、ベーシス取引での運用妙味は落ち、海外勢が短期国債を保有する理由もほとんどなくなることになる。短期国債市場から資金が流出すれば、日本政府は別の投資家を引き付けるためにより高い利回りを提供しなければならなくなろう。
マイナス金利政策の導入で出来上がった現行のイールドカーブには上昇圧力が一気に高まり、日本発の金利市場の混乱が米国から豪州、フランスの市場を越え世界に広がる可能性がある。
理論的に言えば、日本の金利上昇は同国の投資家が大量に保有する外債から資金を引き戻すきっかけになり得る。
三菱UFJ銀行の関戸孝洋チーフジャパンストラテジストは、マイナス金利を止めた場合「ベーシスも短期がかなりタイトになってきやすくなって、海外勢が日本の短期国債を買うインセンティブがかなりそがれる。海外勢が日本の短期国債を買ってきてくれたのは、ベーシス、フォワードのプレミアムのおかげだ」と言う。
為替スワップ取引を通じて元手のドル資金を円に替えて利回りが約マイナス0.1%の1年物短期国債を購入した場合、5.24%程度の運用利回りが見込める。ドル資金で類似の満期の米国債を購入した時に得られる運用利回りを約50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)上回る水準だ。
オーストラリア準備銀行(中央銀行)はこうした利回り格差の違いから利益を得ている投資家の一つだ。同行の報告書によると、他国の通貨とのスワップ取引による追加的な円建て資産の保有額は昨年6月時点で238億豪ドル(約2兆1678億円)相当に上る。
ブルームバーグの市場調査によると、大半のエコノミストは日銀がマイナス金利をすぐに廃止するとはみていないが、当局が長期金利の操作を終了すれば、次は短期金利が政策変更の対象になるという観測が浮上しやすくなるだろう。昨年12月に長期金利の変動許容幅が修正された際は、日本の金利が大きく上昇し、米国債は下落した。米国株の先物から豪ドルや金にまで幅広く影響が出た。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-02-08/RPPHWQT0G1KW01
頭が高い 朕のちんちん 控えおろう
夏井「これは本当に良い句で。素直に読むとね、皇帝なのかな?王様なのかな?大国の権力者が、側近なのか、それとも参賀に詰め掛けた国民に対する勅言なのか。とにかく下々の者たちを集めて、自らの権威を誇示している。それも、これは男性器を誇示しているように思われる。やはり限界まで充血して屹立し、どくんどくんと脈打っているのか。それとも、平常の状態のものをぶらんと無造作に揺らしているのか。いずれにしても、どういう状況なのかな?どっちなのかな?って読者が想像する余地があるのね。ここに豊かさがある」
夏井「音の面から見ても、朕とちんちんで韻を踏んでいる。ちんちんはそもそもちんが重なっているので、ちんちんちんでトリプルちんなのね。これがまた妙味を醸している。すこしコミカルな感じがしますでしょ?状況からしても、どこかユーモラスな空気がある。その意味で行くとこれによって「朕のちんちん」はもしかしたら「控えおろう」なんて言うような立派なものじゃないんじゃないかと、そうも思えてくる。とっても慎ましやかで、それでもこう「ひかえおろう」とやることで、いわば人間宣言じゃないですけども、民に寄り添う権力者の姿を象徴しているのかなと…」
梅沢「いやぁ、そうかなあ?」
浜田「もう、今度は何?」
梅沢「だってよ、そんな王様だか帝だか知らないけど、居るか?みんなにちんちん見せて「控えおろう」って。どんな愚王でもそんなことやらないと俺は思うんだけどな」
梅沢「やるとしたらね、狂ってるよこのちんちん野郎はさ。でも君主が狂ってたらさ、普通止めるよな家来が。いや王様、直接顔を出してはお命を狙われますとか言って、表に出さないと思うんだよ。でも言ってる。「頭が高い 朕のちんちん 控えおろう」って言ってる」
浜田「まあ、そうですねえ」
梅沢「ってことはよ、狂ってるけど、誰にも止められない。そういう状況での発言なんじゃねぇかこれは。でも王様にプライバシーなんてないよ。風呂だって、便所だって、必ずお世話係がいるんだから。しかもそういう召使いがいちいちちんちんに控えてたら仕事にならない。だからやっぱり、寝床だろうなと。眠るまでは楽師か何かがいたりするかも知れないけど、眠っちまったらベッドにまでは誰も入ってこない。入ってくるとしたらお妃か側室か……でももう王様は狂ってるから、女どもも寄り付かなくなってるんだよ。これは、早朝だろうな。朝早く目覚めて。うーんいい朝だな今日も国民のために頑張ろうとか、そういうふうにはならないよな。こいつの心は狂気に蝕まれちまってんだから。ああ今日も殺されずに目覚めることができたと、そう思うわけ。誰も信じられないんだから、もう。殺すとかもうこの王はだめだとか、ずっと幻聴も聞こえるから、目に見える全ての人間を憎み、蔑んでいるわけ。実際皆がひれ伏すんだけど、この日朝早く目覚めて、ふと下に目をやると、傅かない者が居る。頭を下げない奴が居る。まあ、朝勃ちだよな。もう錯乱してるから。ちんちんが、むくりと、ぎんぎんに立ち上がってるのを見て、何だこいつは。なぜ朕の前にあってひれ伏さぬかと。激昂したのかな、それとも恐れのままにした発言だったのか。たぶん誰かが耳にしていたんだろうね。本当のプライバシーなんてないんだから君主に。もうこいつは駄目だと、その家来は思っただろうよ。そんで王様も、かすかに残っている理性で、誰かが自分の言葉を聞いていて、そう思っていることを察している。それがまた幻聴になり、狂気を強めて心に食い込んでく。そういう悲しい一句なんじゃないかと。俺はそう思うよ」
夏井「(涙を流しながら)……俳句っていうのは人それぞれ、いろんな受け取り方、解釈があっていいと思うんです。でもね、解釈するのと、こじつけるのは違うの。私は人間というものに、希望を持ちたかった。でもそのせいで盲目になっていたのです。お見事です梅沢さん。心を鎮めれば、今ではたしかに聞こえてきます。朕のちんちんが泣いているのが」
朝露、陽 砦 濡らしぬる つとめて
遠くの稜線から朝日が昇り始める早朝(つとめて)、朝露がお城の城壁に雫を作っている。白い陽光が差し込んで、きらきらとそれが輝く。でも遠からず、朝露は陽の光に熱せられて乾いて消えてしまうだろう、朕のこの治世と同じように……という辞世の句であると同時に、朝、布団の中で一人で(陽・砦)孤独に目覚める、そうして朝勃ちの先走り汁でぬるぬると夜具を濡らすという、君主としてではない、このちんちんさんの人間の部分を表現する。このようにして、魂の平穏を祈りましょう」
「ストーリーなんて実は大して幅も種類もない」ことも知らないで、ブコメはよくここまで偉そうに一言ぶてるな。
「連載」漫画なんだから、ストーリーの大筋が「編集に主導権がある」のは当たり前でしょ。
会社で考えればわかるだろ。
逆に、「連載の無駄な引き延ばし」とか言う話題はお前ら好きじゃん。
あれこそが「編集がストーリーを決めている」ことの紛れもない証拠だろ。
「進撃の巨人」だのなんだのは異例なわけで、
「他に例がない」、普通は作者に全ストーリーを決める権限が薄いから「異例」なんだろ。
(実際に例はあるが少ない)
ていうか、「10週打ち切り」が編集側で決まってる漫画で、作者が「100巻越えのストーリー」を考える意味なんてあるか?
そういう前提が「現実として」ある話だろ。
理解してる?
「こういう設定が明かされて、それが次の展開に繋がって、さらにその設定を掘り下げたところでドンデン返しがあって、そこから始まる戦闘は2巻分の大ボリュームで。。。」
で終了じゃん。
そうさせないために編集がいるのに、このレベルで馬鹿な持ち込み新人が多くて話通じないって記事だろ。
じゃあなんで編集に主導権があるのかって言ったら、仕事としての構造だけじゃなく、
新人作家にとってはそれが「初めての作品」だけど、編集側にとっては「何十本目かの担当作品」だから。
経験値がまるで違うの。
編集側は、ジャンルの異なる複数の漫画を同時進行で担当して、いろんな角度から読者の反応を俯瞰で見てるんだわ。
「読者からのダイレクトな反応」の蓄積が、文字通り1000倍違うんだわ。
で、その結果「魅力的なキャラクターが大事」って結論に至ってる。
「ストーリーが読みたい読者はそもそも小説読む」「漫画に求められてるものはストーリーじゃない」ってな文言が頻繁に出てくるぞ。
(それもどうかと思うが、でも有名になって本書けるレベルの連載漫画家からはそう見えてる)
お前らの好きな「ドラゴンボール」だって、「打ち切り候補」だったんだぞ?
それを「キャラクター」の魅力を磨きまくって前面に押し出すことで、あの超人気漫画になった。
「ドラゴンボール」ヒットの秘訣は「ストーリー」でも「設定」でもない、「キャラクター」なんだよ。
(後から見直せばよくできてる部分もあるかもしれないが、連載読者はそこまで見てない)
あと「進撃の巨人」でジャンプ編集を小馬鹿にしてる人ばっかだけど、そんなの結果論でしかない。
ほんと事後諸葛亮だけは得意だよな。
そもそも連載当初の絵を見て見ろよ。相当な準備期間を経た後での「月間連載で」あの絵だぜ?
週間連載だったら「倍は酷く」なる。
しかも週刊だとアシスタントをどう動かせるかも大事で、「クオリティ」に割ける時間なんてほぼなく、実際に週刊連載だったら「進撃の巨人」が今の完成度になっていたかわからない。
ジャンプなんて特に「読者の反応で打ち切りを決める」傾向の雑誌なんだよ。
「進撃の巨人」が話題作である、っていう先入観を捨てて、ただの一読者として週刊であの漫画を、ワンピースやら何やらの合間に読んでる所を想像しろよ。
いくら壮大な構想、面白いどんでん返しがあろうと、「あの絵じゃ、ジャンプで説得力を持たせるのは辛い」となるだろ。
それこそ「デスノート」みたいな「作者二人に実績とジャンプ編集との関係と信頼があって、原作と作画が別」の例ならともかく
素人はそもそも「ストーリー」という言葉を都合のいいマジックワード扱いしすぎて、キャラクターとか本来別の要素のものまでストーリーに含めるから、まともな議論ができないんだよな。
ストーリーってのは器とか盛りつけみたいなもんなんだよ。
シェフが心血注ぐのは料理そのものなんだが、シェフが器もつくるべきだと素人は思ってる。
または、シェフが編み出した絶妙な味付けも、メニューの一部だと素人は思ってる。
で、器がどうとかメニューがどうとか知ったかぶりだけは一丁前にしてる。
めちゃくちゃ過ぎて話が通じてないんだわ。
意味が無いものを面白がるのがフランス人らしいが、それにしても「地下室のヘンな穴」は酷かった。
邦画以上に低予算のみすぼらしさが出ていて、描かれるのは家と小さなオフィスと無駄な会話ばかり。
主人公が務める会社の社長が電子ペニスの修理で日本に行くんだけど、手術室は殺風景の極みだし、
日本語のテキストや発音もおかしかった。一体何を見せたいんだ。
要点である妻の若返りも、特殊メイクで徐々に若返っていくんじゃなくて、突然若い女優と入れ替わるだけだし、
そもそも冒頭の古いPCゲームや電話で80年代が舞台の話かと思いきや現代の話というのも意味不明。
ラテン語・古代ギリシャ語・サンスクリット語のうち、最低どれか1つは読めるようになった方が良いとは思う。
少し前に、ギリシア詞華集に出てくる女性詩人をヒロインにしたマンガが一部で流行って、それで古典ギリシャ語に手を出した人が相当数いたみたいだが、何らかのきっかけでこういう古典言語に入ると広い世界が拡がってる。
それはともかく、たとえばHaskellを勉強して遅延評価関数型言語の妙味を知り、Rustを勉強してメモリ管理の大変さを知り、Goを勉強してCSP代数の面白さを再認識する、などの知的好奇心を満足させる意味で、各言語の特徴を把握した上で勉強するのはすごく楽しいんじゃないだろうか。
さらにバックグラウンドとして、簡単でも良いので半導体ゲートと同期回路がどうCPUやメモリを作り出していったか、を知ると、よりこれらの「プログラミング言語」というものの妙味を味わえるだろう。
金を儲けたければ、浅く広く勉強した上で、どれか1つの言語に絞って、深く、深く、ライブラリと同じ機能は自前で用意できる程度まで深められたなら、おそらく食いっぱぐれはない。
ちょうど車の買い換えの時期が来るな、と意識したのが令和3年の8月。何かと維持費がかかる某輸入車が精神衛生上よろしくなく、たまたまティザー広告が目に付いたNXに乗り換えた。今回が初めてのレクサス車である。最近の半導体不足やプーちゃん大暴れにより随分と納車は遅れたが、先日なんとかうちのNXは納車された。しかし、現状としてもっと長くかかる方が多いようである。
自身のSNSアカウントであれこれ書いてもいいんだけど、何かとNXについて発信する車好きのアカウントは変な人が多い、というか、レクサスのファンに変な人が多い。既に納車された層も変な偏りがある印象で、普通の人間によるものとみられるレビューが少ない。絡まれたくないし、言いっぱなしにしたいこともあり、匿名ダイアリーに記すことにした。正直に言えば、せっかく新車を買ってウキウキしているので何か言いたいだけだし、こうやって何か書く私も彼らと実際変わらない。
ただでさえまとまりに欠けるので、いくつかの項目に分けて記載したい。なお、納車3週間目の感想である。長期はわからん。
これから購入を検討される方が知りたいであろうオプションに関することは後半に記載するのでスキップを推奨する。
購入グレードはNX350h AWD Ver.Lである。なお、特定を避けるためボディカラーの記載は避ける。
#デザイン
もともと個人的に見た目は欧州車趣味なのだが、今回のNXは十分に食指が動いた。先行受注のため実車を見ずに広告やカタログのみで評価して購入したのだが、国産車にありがちなガチャガチャ感(例えば、トヨタならどこかのプリウスからのヤンキー顔、ホンダなら少し前のガンダム顔)が和らぎ、詰め込まれる要素の数が小さくなったことにまず驚いた。先代のNXはヘッドライトの下の「隈取り」的なウインカーが頗る嫌いであの(クソダサい)アヴァンギャルド顔から見向きもしなかった。あれを欲しいと思ったことは今も含めてない。今回もフロントグリルは過剰なインパクトがあるが、ヘッドライト内にだいたいの光る物は収まり眺めたときの視線が散らず落ち着いた印象になった。また、線よりは面の構成が主になったことでゴロンとした、金属の塊から削り出されたような存在感のあるデザインに変化した。スピンドルグリルは残ったが、アイコンとしての機能は十分で、全体的に「良い取捨選択がなされたな」と思った。車の印象というものはボディカラーによって大きく変化するので納車されるまでは不安が大きかったが、初見でそれは吹き飛んだ。ちゃんとかっこいいのである。なお、ここまで書いたらおわかりかもしれないが、グリルの加飾が好きではなくそれだけの理由でFスポは避けた。NAVI-AVSやパフォーマンスダンパーは魅力的であったが、本当にただそれだけの理由で見送った。見た目は大事。
#内装
やたらとデカいナビ画面が最初に目に付くが、それ以外は概ねシンプルな構成になっている。以前のモデルはアナログ時計や様々な加飾があったようだが、必要なものに目がいくような、チラチラ余計なものが見えず実用の上で快適だ。契約前にディーラーで現行RXと初代NXを見たが、現行RXは居住空間の余裕からラグジュアリーで加飾が多くとも伸びやかな印象で違和感がなかったが、NXでは少し小さくなるだけでゴチャゴチャして狭さを感じていたので、なんとなく「広くなったな」という印象である。TAZUNAコンセプトとして必要なものにすぐ手が届くように設計されているとのことで、確かに必要なスイッチ類にはすぐに手が届いてそれも快適である。構成もさることながら、リアル・フェイク織り交ぜた全体としてのレザーの品質やその他部品の工作精度など、全体的な製品としてのクオリティも高く「なんかいいもの買ったな」と素直に思える仕上がりになっている。世間で実写をまだ見かけることが少ないのでわかりにくいが、カタログの写真よりも圧倒的に実物の印象が良いことは特筆しておきたい。
そもそも、そんなに車の性能について詳しくないことを事前にお断りしたい。Ver.Lは標準のサスペンションでモードはエコ・ノーマル・スポーツに限られるが、そもそも私はスポーツ走行がわからないので十分である。前者はディーゼルターボで小型のわりに強大なトルクを発生する仕様であったために、単純に街乗りでは頗る速かった。信号が青になったときなんか、油断するとドカーンである。それと比して随分と「ジェントル」になったのだが、静かで振動が少なく、発進時はモーターの比率が高いので、遅いとか、重たいとかと感じることはまずない。ハンドリングを含めて車の挙動としてはスッスと動くので気兼ねなく車を流すのには快適だ。ある程度の余裕を以て機敏に動く印象で、峠を限界まで攻めるとかサーキットを走るとかで無い限りは全く問題にならないだろう、というか、そんなことはしたことがないのでわからない。また、見た目よりも車重が軽い印象で、剛性の高さも動かしたらすぐにわかる。私は車について素人なのだが、素人が動かす街乗りの車で言えば最強なのではないかと思わせてくれる感がある。車の素性がいいとはこういうことなんだろうなと思う。
燃費については先代程度だろうなと思っていたが、8km程度の渋滞を含めた通勤路で14km/L、信号と渋滞の少ない郊外路では20km/Lにも到達するので想像以上に良かった。また、走行データを確認すると、60-70%はEV走行しているそうだ。ラバーバンドフィールはごくわずかにないこともないが、注意を向けなければアクセルの反応は良好だし、ハイブリッドカーも以前とは比べものにならないくらい進化したと思うし、ハイブリッドだからこそ得られる走行の妙味もある。主にエコモードで動かしているが、燃費優先というわけではなく、回生ブレーキの挙動や速度コントロールが非常に楽なので積極的にそうしている。特に説明書などに記載はないが、GPSと地図情報から法定速度情報を得たり、ITSで他車の速度情報を得たりしてコントロールに干渉している気はする。実際は不明だが、そんなに運転中はゴリゴリに感覚を研ぎ澄ませているわけではないので、なにかと気を抜けて(抜くな)ありがたい。なお、なんとなくウェイウェイしたいときはノーマルにするし、めっちゃウェイウェイブーンしたいときにはスポーツにしている。そうするとだいたい気分に合う走りになってくれる。
今回は個人的に初めてAWD設定にしたのだが、普段はわからないが、大雨の中で高速入り口のカーブが続くなかで加速を行うシチュエーションで圧倒的な接地感を感じた時にはうっかり爆笑した。「なんだこれ、全然滑らねぇ。」と。むしろこれまでのFF車が低μ路でいかに浮くように滑っていたか、を思い知らされることになった。とても安心感がだが、これが新型NXだからいいのか、AWDだからいいのかどうかは私にはわからない。だが、AWDにして良かったと既に満足している。
#静粛性
前車と比して随分と静かになった。ディーゼルと比べたら当たり前なのだが、ただ、それ以上に風切り音や外音の遮断がよく効いていてふと窓やルーフを開けたときに「外こんなにうるさかったの?」と驚くことが多い。極端な遮音がなされると自身の体内から発生する音が気になったり、どことなく不安になる感覚を経験したことがあるが、絶妙に不快な音だけをフィルタリングしているかのようで自然かつ快適である。また、若干のエンジン音やモーター音は入るようになっているが、それがないと車の動きが把握出来なくなって個人的には不安になるので丁度いい。もしかしたら、音というよりはハンドルやアクセルペダルから伝わる振動からよく把握できるという方が正確かもしれない。この点はパフォーマンスダンパーが入ったりすると少し違ったりするだろうか。乗り比べる機会がなかなか無いのは残念だ。
今回は外付けドライブ以外の実質フルオプションとしたので走行支援に関する装備も全て装着している。新世代レクサスとして特盛になっているので全てに対して記載をするとキリがないし、良いと思った機能について記載する。まず、街乗りのシチュエーションではプロアクティブドライビングアシスト(PDA)は意外によく働く。先行車の車速などを関知して車速を調整したり、車線からの逸脱を防いだりなど、注意がふと切れるタイミングで作動してくれる印象だ。初期設定では過剰な介入を感じたので設定から「遅め」を選択しているが、慣れれば程よいと感じる程度になった。
今回の目玉装備であるアドバンスドパーキングだが、期待せず面白そうだからという呑気な気持ちで導入したが、意外に使える仕様になっている。正確な画像認識のため駐めたい場所の周辺に近付いたら可能な限り徐行する、車が十分に動けるスペースを確保して周辺に柱などの障害物がないことを確認するといった多少のコツさえ身につければバシッと綺麗に駐車してくれる。そりゃ自分で入れたほうが速いのだが、自分であくせくとハンドルの切り返しやシフトチェンジする必要がないので気持ちは楽である。一部から怒られるかもしれないが、最近は駐車をNXに任せている間に降車の準備としてマスクを装着していることが多い。また、リモートパークも入れたら出られない駐車場で使用したが、さすがに不安だったもののきちんと駐車してくれた。どちらかと言えば駐車している間に隣の車両が変な幅寄せをしてきたときに乗り込むために車をスペースから出す目的で使うシチュエーションが多そうだと思った。
高速道路ではオートクルーズコントロールとレーントレーシングアシストでほぼ走ることにはなるが、基本的な機能として問題なく軽くハンドルの一部を握っているだけで作動してくれるので感覚的には自動運転に近い。また、レーンチェンジアシストもオプションで装備しているが、ウインカーを一定時間保持することで周囲を認識し自動で車線変更してくれる。ただ、3-4秒かけてじわぁ...と車線変更するので横向きのGが発生しにくいので主たる同乗者である妻には好評だが、若干じれったく、この間に道路状況が変わらないか少々不安にもなる。そのために急な障害物や割り込みなどに対して車線変更による回避への対応もできないのでそこからLTAが作動している状況で車線変更しようとすると車が抵抗するし、その後に「もしかしてぼんやりしてますか」とナビに煽られるのは少しイラッとする。自身で車線変更する際にはLTAを切る癖をこれからつけなくてはならないだろう。ただ、ネガティブな点はそれくらいで総じてよくできており、未来が来たなぁ、と感じた。
今回のNXに限らないんだろうけど、車自体がモバイルネットワーク接続できるのって使ってみると相当に便利。離れてても車の施錠などの状況が確認できたりエアコンを事前に動かしたりすることもできる。地味に楽しいのがマイカーログで、運転経路や燃費なんかも確認できる。これまでは車で直接ナビをいじってみることはできたけど、面倒くさくて見ることは正直なかった。これならどこでも手元で確認できるのはお手軽でついつい見ちゃう。あと、これはいいなと思ったのは事前にスマホで経由地や目的地を設定して車に送っておける機能。車に乗ってからナビ設定するのって時間がかかるしすぐに車出さなきゃならない時とかにはうんざりするけど、例えば出先のお店で食事を摂りながら次はどこに行って...みたいな話をしながら入力して、あとは車に乗り込むだけというのは実際に使ってみると実に心地良い。ちなみにまだオーナーズデスクにお世話になったことはないのでそのうち使ってみたい。
#オプション装備について
運転支援については記載した通りなので、パノラマルーフやプレミアムオーディオのマークレビンソンについて。パノラマルーフはツートン調になることに若干の抵抗があり、特に必要性も感じなかったが換気やリセールを意識した際の人気オプションであると説明され導入した。実際には「開けると楽しい気持ちになる」程度であるが、朝の日差しが心地よい時や、ふと信号待ちで天井からの町並みを見上げた時には良い開放感があって装着してよかったなと思える。
ちょっとだけオーディオ趣味なのもあってマークレビンソンの装着はあまり迷わなかった。自分でオーディオ装置を選定するととんでもない手間と金銭がかかることは目に見えていたので、お手軽にメーカー純正のオーディオシステムが最初から入ってること自体が魅力的だった。納車まで試聴する機会はなかったのだが、カーオーディオに詳しくはないものの20万円程度のオーディオシステムとしては十分良いレベルを確保していた。具体的には解像度や定位感が良好でノイズレス、ダイナミクス表現にも優れており小さい音量の楽器までしっかりと表現する「普通に良い音」だった。過剰なサラウンドや低音をブーストするような安っぽい演出ではなく、どこの座席に座っても2chのオーディオらしく自然に聴けるというのは実はそんなに簡単な事ではない。とてもよく練られたDSPが入っていると思う。音量を上げた時にありがちな内装の共振は抑えられてる印象で、キックドラムや超低域のシンセベースのフレーズでもスピード感があって無駄な残響がなくキレがいい。難点があるとすれば、ピュアオーディオ的な良い音の作り方でもあるので音源に左右されがちなこと。当初はiPhoneからのBT接続にしていたんだけど、有線でのApplCarPlayや、妻のXperiaでのLDAC接続では歴然とした差があったし、録音自体が良質なものは心地よいけど、そうでないものは荒が目立って気になってしまう。聴くものを選ぶようにはなってしまうけど、それはオーディオの世界では普通のことだと思うので「スピーカー自体に金をかけたことがある」層のためのオプションなのかもしれない。ただ、この音を自分であれこれ買って再現しようと思ったら3倍出しても得られない可能性はあるし、ある意味コスパには優れているし私個人では大満足で、これ以上はいらないと思ってる。キリがないから。
完璧な車なんてないと思ってるけどネガティブポイントは新型車なのもあってないことはない。例えば、ナビの音声認識。初期設定ではヘイレクサスで起動してあれこれ操作やナビ設定ができたりするんだけど、エアコンやルーフ、窓の操作はだいたい失敗する。AlexaやGoogle Assistantほど賢くもなく、反応も最近の音声認識端末で経験するよりは圧倒的に遅い。なんとか使えるのは目的地設定でこれはわりと精度高くできるんだけど、まぁ時間かかるのでオーナーズデスクに繋いだ方が早く設定できる可能性すらある。いや、どうせならそっち使えばいいんだけど、人間の手を直接煩わせるのに若干の抵抗があるのでナビ側でなんとかならないかなと。
あと、エアコンやナビの地図を動かしたりという場面でナビは見やすい高い位置にあって、更に巨大なので意外に操作していると手が疲れる。リモートパッドが評判悪かったみたいで廃止されたようだけど、あっちの方が楽だとも思う。見やすさや表示範囲は圧倒的に良いのでもっと音声操作がスムーズで高精度だと手を伸ばさなくとも使えて本来開発者が意図した形になるのではないか。あと、再生中の楽曲情報については小さい窓でいいので地図と同時に表示できたらいいのになと思う。
あと、デジタルキー。実は初期登録がうまくいかず、使用できていない。ただ、使う状況もいまのところないのでそのままにしてる。もうこのままでいいと思ってるくらいにどうでもいい機能だったのかもしれない。うちは運転するのが私ひとりなので共有する相手もいないからこれでいいんだけど。まぁ、いらなかったな。
#総じて
イマイチな面もあるが車の素性が大変良いので吹き飛んでしまう、というのは素直な感想。なんだかんだ走らせてナンボなので現状では大変満足している。内装においてはこれまでのレクサスと比してスイッチが多い高級感とかアナログ時計とかの特徴は廃されたけど、要素を絞って現代的でシンプルに徹した品の良さは所有していると好ましく思えてくる。ただ、こう書くと北欧テイストなのかと思われそうだけど、そんなにデザインコンシャスなわけでもなく、日本的な割り切り方や合理性をうまく良い形に落とし込んだ、という感じです。まぁ、前車はボ○ボだったんだけど、正直なところ内外装はボ○ボのほうが好きだった。あれは良すぎるんですわ。でもNXはこれでいいんですよ。マイナー輸入車のあれこれに正直なところ懲りた僕は、天下のトヨタ様がパッケージングした車を買ったんです。
これまで乗ったトヨタ車や、代車で乗ったレクサス車と比べると乗り味が欧州車っぽくなった印象だけど、個人的にはそっちの方が好ましい。メルセデスのGLCと購入検討していたけど、やや世代が古めになるのとシートベンチレーターやらの欲しいけどあまり装着例がないオプションは在庫車もあまりないし、注文者は納期未定で値引きもないし、なんだかんだお高いんですよね。その点でNXはずいぶんとコストパフォーマンスは良いと思います。まぁ、高いんだけど。
輸入車はそれなりにブランド力があって、レクサスがイメージ的に御三家に及んでないところはあるかもしれない。ただ、実車が明らかに劣っているかと言われたら全くそんなことはなく、総合しての商品力はすごく高い。とくにNXは価格でみれば価格以上の出来だと思う。トレンチコートを買うときにバーバリーやアクアスキュータムの名門の定番を買うのか、三陽商会の百年コートを買うのかを迷ったときに、GLCやGLBを買う層は前者だと思うし、 Permalink | 記事への反応(1) | 23:58
なぜこの話題がこんなに盛り上がるのか考えてみることにする。
世の中には「正しい価格」というものが存在するのでは?という気がする。
「正しい価格」というのはつまり、みんながハッピーになれる価格ということである。
普段ぼくたちはメーカーが商品につけた「希望小売価格」で商品を買っていて、それで満足しているわけなので、「正しい価格」=「希望小売価格」のような気がする。
そうすると、転売というのはここに転売をする人のマージンが乗ってしまい、それだけ値段があがってしまう。
ハッピーな値段で買えないのでぼくたちはイライラするわけである。
転売する人から商品を買った人というのは、とても高い値段で買ったわけではあるが、買った以上その値段で満足しているのである。
そして売った人も、仕入れ値より高く売れたわけだから、満足しているわけである。
つまり、転売がおこなわれているまさにその場所では、売った人も買った人も満足している。
当事者がそれでよいと言っているのに、売買に携わっていないぼくが外野から、「その価格は正しくないですよ!」というのはあまりにもヘンな話である。
買いたくないなら買わなければいいんであって、ひとの買い物にいちゃもんつける権利はぼくにはないのである。
転売問題でよくいわれるのは、「本当に欲しい人に商品が渡らなくなってしまう」という問題である。
1000円で売られているおもちゃが、転売によって5000円に値上がりしたとしよう。それをぼくはのどから手がでるほど欲しいとする。
そうすると、しかたなく値段が下がって転売するひとたちの妙味がなくなるのを待つしかない。非常に腹立たしいのである。
商品を必要としていない転売屋さんに商品が買われてしまい、本当に必要としているぼくに買うチャンスがめぐってこない。
しかしこの問題も冷静に考えてみると、転売屋の向こうには、ぼくと同じようにそのおもちゃを欲しているどこかの誰かがいるのである。
かたやそのおもちゃに1000円を払う気でいるぼくと、5000円を払ってでもいいから手に入れたいとおもっているどこかの誰かさん。
こうしてみると、その人のほうがぼくよりはるかにそのおもちゃを手にいれたいとおもっているはずである。
つまり、「本当に必要としている人」にはきちんとおもちゃが渡っているのである。
むしろ、その「本当に必要としている人」は近所におもちゃ屋さんがない田舎に住んでいるかもしれない。
ずっとずっとほしいと思っていたものの、お店でいけない事情のある人に商品が届く仕組みが、転売という利益を追求する誰かの行為によって実現したともいえるのである。
転売問題でぼくらが腹立たしくおもう根本には、「日本では希望小売価格で販売する」という習慣の存在があるとおもう。
メーカーがこの価格で売りたいですよ、というと、おおむねその価格で小売店は販売するわけである。
そのため、特定の商品が買い占められ、値段が吊り上げられると、その習慣を破壊する行為に感じるわけである。
ぼくたちが丁寧に守っている習慣を壊すひとに対して、ぼくたちには人間の本能として敵愾心がうまれているのである。
しかし、希望小売価格というものは希望であって、値段を決める権利は消費者に販売するひとにゆだねられているはずである。
ゆだねられているはずなんだけれど、習慣としてどの小売店も、おおむね希望小売価格で販売するがゆえに、
希望小売価格が本来あるべき価格よりも低い価格がついてしまっている商品については、日本的商習慣を守るつもりのない個人の転売屋が
転売がおきている商品というのは、それが "正しい価格" ではないことが、マーケットによって暴き出されたともいえるのである。
要は、小売店が希望小売価格を無視して、自由きままに値段をつけて販売していたら、転売問題も、そしてそれでぼくらがイライラすることも、そもそも起きなかったんじゃないの?と思うのである。
具体名挙げてしまって著者には申し訳ないのだが「未来からのホットライン」の核融合炉の施設内部の描写がてんで理解できない。説明が緻密なのがむしろネックになってる感じで、キャットウォークとかトンネルとか配線とかの位置関係が三次元的に脳内に構成されていかないんだよ。本当に上下左右という程度の確度でしか把握できない。
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小説は漫画とかと違ってイメージが押し付けられないのがいいという意見を聞くことがある。個人的にはこれはイメージという単語の前に「自分が気に食わない(特に人物の容姿)」という文言が省略されているように思える。
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想像することって、はっきりいえば単に手間でしょ。小説は想像することを楽しむものって手段と目的が逆転してる感じで、本来は「筋書きを楽しむもの」だと思う。筋書きさえ面白ければ、そして挿絵とかが適切なら、想像しなくて済むのならそれに越したことはない。
くだんの小説も建物の「構造」について図があるからといってイメージを押し付けられたと感じる人は例外的だと思うから、文章で全て言い尽くそうとしないで見取り図ぐらい添付してもよかったと思うんだよね。
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私と同じ考え方っぽい人を二つ挙げとく
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https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/02/21/090746exit
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1514063554/exit
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そしてどうしてもこれだけは抜粋しときたい(5chのレスから)
文章だけで考えてると「この馬はどこから走って来てどこに行ったの?
なんでそんなとこから馬が走ってくるの?」
みたいな変な部分が必ず出てくる
読む側からしてもまさしくそういう感じで、結論としては始点と終点が一致したループだと言っていても、今までも風景の説明から本当にそのことが導けるのだろうかという感覚になることがある。
各部分の描写から全体を統合できない感じで、整合性を認められないことがある。
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前記の小説の施設を見学するシーンでも各区画を主人公たちの足取りに沿って説明していってるのだが、いつのまにか前いたところが主人公達の頭上にあることになっている。
確かにエレベーターで地下に降りる描写はあったけど、上下の関係で足取りが立体交差できるような文章だったか。
区画という各部分の風景だけは十二分に頭に浮かび上がってくるんだけれど、ジグゾーパズルでいうならそれはピースの凹部や凸部があやふやになっている状態にたとえられる。
なのでそのパズルを組み合わせる=建物全体の構造を把握することもできないとなる。これが読後感にもやもやを生む。
そもそも自然言語というものはねじれの位置とか含めた抽象的な位相関係を表現するのに不向きなのかもしれない。
そうでないにしてもせめてPISAとかは単純な論理パズルで読解力を測るんじゃなくて風景の説明文に対して、少なくともこれは与えられている文に矛盾しないという図を選択させる問題も導入してほしい。
ネックが読者側にあるかもしれないかもしれないのにその問題が十分には剔出すらされていないように思われるから。
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「船べりに足をぶらぶらさせていた」文学事典に載ってるような作家の手になる表現だ。しかし「船べりに」とは一体どういう状況なのか。
「船べりで~」であれば人がデッキの手すりでも背にして寄りかかって片足をぶらつかせる風景が想定される。
この話は作家自身の航海記であって大西洋を横断できるような鉄の船の話だから「船べりに」何かをするにはへりは高すぎると思われる。和船の小舟のように足をへりに置けるような状況じゃない。
たとえれば無理に腰よりも高い塀の上に片方の足を足の裏を外側に向けて乗せるイメージでただでさえ不安定な姿勢だから、せいぜいへりをかかとで擦るようなことはできても、重力に逆らってぶらつかせるとは描写として不自然と言わざるをえない。
思い込みで文章を書くとそういうことになると聞いたことがあるから、ちゃんと正確に書いてほしい。
正確に書けば書くほど想像の余地が少なくなるから小説としてつまらなくなる、というものではない。
想像する楽しみと小説の楽しみ方としては二次的なものだとは前にも書いた。限定的で端的な例だが、泥のように眠るという慣用句を小石のように眠るとアレンジすることで生まれるような詩的な妙味を味わうことも小説の楽しみ方の一つだ。
酒などを希釈しないで飲むことを生一本といっても、水で薄めずにといっても、神の創りたもうたままにといっても、どれも全く「希釈しない」という全く同一の事態を指しているうえでにその同一性こそがその描写が正確であることを示す必要条件でもあるわけだが、こうした同義のフレーズが畳みかけられている箇所にも、同じ事態の概念への落とし込み方の多様さに面白みが認められるだろう。
俳句は小説じゃないけれど、あれなどは兼題写真があるのが普通だ。写真というこれ以上なく正確な像を前提としているからといって、そこから派生される俳句の数々に「想像の余地がないからつまらない」と批判する人間がいるだろうか。
むしろ想像の喚起を重視する人のブログとか見ると「容姿の描写ほとんどされてないのを逆手にとってわざと金髪美少女のイメージで読んだ」とか言ってるような人もいて、想像するのを楽しむというやり方は小説をカップ麺の重しにするのと同じぐらいひねくれた本の使用法なのではないかとさえ思えてくるわけだ。筋書きを楽しむ、表現そのものを味わうというのが文句なく一義的な意義であるとすればなおさらだ。
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必要だと思ったとこだけ読み込んで不必要だと思ったところは読み飛ばせばいい、授業だって教師の言うこと全部覚えてない、それと同じだというような人もある。
しかし授業内容と違って小説は内容を問い合わせることができない点で致命的に異なる。
不十分だと思って読み込もうとした箇所も独力では一生かかっても理解できないかもしれない。
作者は思い描いた風景を必死に文に落とし込もうとしたかもしれない。作者は情景を読者と共有したがってる。なのに十分に伝わらない。こんな悲惨なことがあっていいのだろうか。
小説には攻略本もITの専門書にありがちなサポートダイヤルもないんだ。
二重回しとか大島紬みたいな名詞の指すものが単に想像できないとかだったら画像検索すれば済むことだけど、実際に読んでてつまづくことが多いのは文や文章という総体がどういう具象や抽象を指し示しているかとことで、でもこうなったときには打つ手がない。
人工知能は与えられた文章をイメージに接地させずに意味を理解できるが、人間としてはイメージに還元できないことには文章を味わうことはできない。
もちろん読者側の能力の問題かもしれないからそこは見極めなければならない。
先述のようなPISAなどの結果によりそういう能力が不十分と分かれば、出版業界に小説には抽象的な構造に関して図解を挿入するよう働きかけるか、さもなくば教育を刷新するか、そういう判断の指針が得られる。
教育を刷新するというのは単に文章を多読すれば読解力を身に着けさせられるはずだという今の態度が不十分という意味で、一つ文を読ませたらその文が一般的に指し示すことになる図を提示するといった訓練を導入するべきだと思うということ。
単文が示す風景(あえて情景とはいわないでおく)すらもまともにイメージできないようでは複文や文章の指し示す風景もまたイメージできるはずがない。
基礎(単文)を固めることでしか応用(文章)を扱えるようにはならないということではむしろ数学と同じだ。そういう心持で読解の養成には取り組むべきだ。
たとえば百聞は一見に如かずといっても社会生活のうえでいつも文章が指し示す現物を持ってこさせられるとは限らないから、文章をイメージに還元する力は実務的な能力でもあるわけさ。
自分は昔から公営ギャンブルが大好きで、3競オート(競馬、競輪、競艇、オートレース)はどれも一通りやったし旅打ちにも行ってきた。現金で紙の投票券を買って現金をもらうのが醍醐味だと思ったので電話投票・ネット投票には加入していなかったが2月末からどの競技も無観客開催にったので3月からネット投票に加入した。(JRAと南関競馬はやってないのでオッズパークとテレボートにだけ入った)ネット投票を始めて3か月して思うことを書こう。
・ネット投票は買うごとに入金する必要があるが、オッズパークは100円単位で入金指示できる。テレボートは1000円単位でしかできないのが不便。
・ネットで購入金額や収支がリアルタイムでわかるのは便利。ネットだと窓口に行かなくても毎日買えるので、お金をかけすぎないように自制心が必要だと思った。
・回収率もわかる。的中率より回収率が重要だと思う。競技や賭け式により違うが、25%(30%)の控除率の壁を突破しプラス収支にするためにはついつい次から次に買いたくなるが買うレースはよく検討して絞ることが必要。買う回数が増えると回収率は75%(70%)に収斂していく。
・だから、あまりガチガチのレースには手を出さないことが大事。3連単で3桁配当は当てても儲からない。
・ネット投票は紙の券や現金をなくす心配がないから安心して楽しめる。馬や選手の欠場やボートのFL変換でも窓口に並ばずすぐ返金されるので便利。
・本場派だったので、日帰りしやすいデイレースの場が好きだったが、ネット投票を始めてからなぜどこの場もナイター化するのかわかるようになった。やっぱり在宅投票しやすいのがナイターレース。もともと無観客のミッドナイト競輪やオートがそうだし、観客を入れる開催でも本場よりネット投票での売り上げ向上が第一の時代なのでどんどんナイター化するし、レース場の立地の不便さをナイター開催と電投会員向けキャンペーンで挽回できる時代になったと思った。名古屋競馬が郊外へ移転するのもネット投票時代だからだろう。
・でもやっぱり現金を窓口に突っ込んで買った紙の券を握りしめてドキドキしたい!今月から競馬以外の競技は密になりにくい田舎から競技場や場外売り場が再開されているから地元の場が再開したら行きたいと今になって思うようになった。
自分が公営ギャンブルで一番好きな競艇(ボートレース)で舟券を買う時に思うこと
・ボートは今はどこの場も電投会員向けに当てやすい番組作りをしているが、1号艇A級、2-6号艇がB級のシード番組には個人的には手をだせない。1号艇の1着を当てるのは簡単だが、2-3着はB級選手同士のドングリの背比べなので展開が読みづらく絞れない。順当に予想すれば3連単1-2-3で500円とかいうガチガチの低配当で旨味がなく、荒れる時は大本命の1号艇がインをとられたり捲られたりとまともに予想できない展開で当たらない。
・そういうレースを買うなら、3連単で6点買うにしても1-234-234の組み合わせより1-23-2345の組み合わせのほうがいい。ボートは3着を当てるのは難しくどの艇が来てもおかしくないので。(6号艇は枠なり進入だと一番不利だし、新人とかB2級ばかりが乗るので買わなくていい)
・ボートレースはインがとれる1号艇が華だが、現代ボートレースのセオリーではインを脅かすのは3コースに入る選手。4̚コースの̚カド捲りにかつてほどの破壊力はないし、2コースは意外と捲るのも差すのも難しい。
・展示タイムは意外と当てにならない。展示タイムはバックストレッチ直線150mを計測するが、直線で伸びきった足のコンマ1秒の差は6艇が同時に走る中での展開を突いて抜け出す速さとは関係がない。手動計測は人が手で測っているのでなおさら。自動計測はそれよりは参考になり、福岡はタイムの信頼性が高い。
・行き足や伸び足はスタート展示で6艇が一斉にスタートを決める時の勢いの差を見比べるといい。本場が再開したらスタンドの上から生で見てみると見ごたえがあるだろう。
・周回展示でのターンの差は本番レースでの予想の参考にならない。2回走りの選手の場合は前走リプレイVTRでの走りを参考にしたほうがいい。
・選手に惚れるな、モーターに惚れろ。選手持ちプロペラではない現在はモーター格差が大きいのので、好調モーターを引いた人気薄のB級選手が不調モーターを引いたA級選手を負かすレースに配当での妙味がある。
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
この週末、AbemaTVで宮迫、亮の会見を見たのを皮切りにたけし、ダウンタウン松本、アッコと色々テレビをウォッチしている。
知ってか知らずか反社の人から金を受け取ったこと、会社が保身のために問題を起こした社員を切ったこと、それ自体は世の中にありふれているだろうし、これがマスメディアと大きく関わる会社の話でなければ大して注目されることもなかっただろう。
しかし、マスメディアに大きく食い込んでいる吉本興業の話であり、芸人から所属事務所への前代未聞のクーデターの様相を呈したこの状況であり、テレビでこの話に言及する吉本芸人を始めとする芸能人の誰もが軽々に口を開けない煮詰まった状況になっている。
たけし、松本、アッコといった所謂大物達がシリアスに――かつ暗黙にそれぞれの立場を踏まえて――語っているのが面白く、見応えがある。
会社を擁護すれば大炎上するし、かといって表立って社長を批判するわけにもいかない吉本芸人達の言葉にも緊張感がある。
言うまでもなく世の中もっと重大なトピックスは色々あるわけだが、結局のところ人は自分に直接影響のある話以外に当事者意識は持てないのであって、これはなかなかテレビで見る機会のない空気感だなと思いながらテレビを見ている。
それにしても一発の会見でこれだけの状況を演出した宮迫と亮は大したものだと思う(二人は片方だけでは演技くさすぎ、馬鹿正直でここまで盛り上がらなかっただろうから偶然なのかこの二人が組み合わさったことが妙味を生んでいると言われているが俺もそれに同意する)。
明日の社長の会見もまた、「芸能事務所は所属する芸能人が問題を起こしたとき本人に謝らせ、社長は謝らない」という一般社会からすると有り得ない慣例を打ち破るものであり、事態がどう転がっていくのか、予定調和の蔓延するテレビにおいて珍しい「筋書きのないエンターテイメント」として注目したいところである。